第12回 大統領選挙戦に持ち込まれた「黒人差別」の呪縛(上)

 民主党大統領候補の座をめぐって、アメリカ史上初めて女性と黒人が争い.しかもその対決が延えんと続く今年のアメリカ大統領選挙戦をウオッチしていると、今「アメリカという国」全体が、二百十数年前の建国期までさかのぼって、その国としての成り立ちを問われていると思う。 その建国の呪縛の元で、あがいているように見える。

 一番の例が、5月6日の北カロライナ州予備選挙での大勝とインディアナ州での善戦で、指名獲得に大きく近づいた黒人オバマ候補につきまとっている「黒人差別」の重い過去である。オバマ氏が属しているシカゴの黒人教会の牧師、ライト牧師の激しい白人批判発言が、オバマ氏に対する全国民の支持率を下げ始めている折から、きちんと捉えておかねばならない状態が生まれつつあるからである。

●合衆国憲法で規定された「黒人差別」

 建国の呪縛といえば、4月に執筆を予告した、痛ましい乱射事件が後を絶たない銃社会「アメリカ」定着の分析も結局はそこに行き着く。銃の規制がどうしても徹底しない背景には、市民の武装権を認めていると解釈可能な合衆国憲法修正第二条、つまり「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、又携帯する権利はこれを侵してはならない」との1791年制定の条文が217年たった今も続いているからである。夏前には、連邦最高裁判所が、この憲法修正第二条を「市民の権利としての銃保持の権利を容認したものだ」と改めて解釈する新判決が出かねない情勢である。

 しかし、その報告は次回以降に回したい。今回は11月4日の大統領選挙投票の行方にも直接影響しかねない意味でより重要な、オバマ候補をじわじわと締め付け始めた建国の呪縛、「黒人差別問題」の方を分析する。

●「五分の三」という数え方

 一言でまとめると、昨年来の選挙戦で、黒人候補としてのイメージを徹底して避け、既成のワシントン政治からの決別、つまり「変化」をメインスローガンとして「白人も、黒人も、ヒスパニック系も、アジヤ系も。そして金持ちも貧者も、アメリカ国民全体が協力しあって、アメリカの歴史に新しいページを切り開こう」と呼びかけて、支持を伸ばしてきたオバマ戦略が、ライト発言をきっかけに、建国以来の「黒人差別」の現実の重さに、押しつぶされかねない曲がり角に立たされているということである。これを理解するためには、アメリカ合衆国憲法制定時までさかのぼらねばならない。

 1776年の独立宣言、イギリスとの独立戦争勝利を経て、1788年、ようやく必要な9州による批准が完了して陽の日を見た合衆国憲法では、黒人の「差別」が原住インディアンの「排除」とともに、はっきりうたわれていた。この事実を確認しておかないと、ライト発言の意味もわからなくなる。

 まず第一条「連邦議会とその権限」第二節三項は、下院議員選出の基礎となる各州の人口算定の段階から、「各州の人口とは、自由人の総数をとり、この中には年期服役者も含ませ、納税の義務のないインディアンを除外し、それに自由人以外のすべての人数の五分の三をくわえたものとする」—と明記されていた。「納税の義務のないこと」を理由に名指しで除外されているインディアンについては、いずれ報告する。

 黒人人口についていえば、「自由人以外のすべての人数の五分の三」という間接的な表現で、残りの五分の二が切り捨てられていたわけである。この五分の三という数え方自体が憲法制定会議での南部奴隷諸州と北部自由諸州との間の妥協の産物であった。

●自由州からの拉致の権利を認める

 さらに、憲法第四条第二節第三項を紹介しておきたい。黒人に対する差別がさらにはっきり意識された内容となっていたからである。

 「何人も、一州においてその法律の下に服役または労働に従う義務ある者は、他州に逃亡した場合でも、その州の法律または規制によって、右の服役または労働から解除されるものではなく、右の服役または労働に対し権利を有する当事者の請求に従って引き渡されなくてはならない」。

 つまり、ここでも間接的な表現ながら、憲法制定会議当時、既に社会問題化していた南部奴隷州から北部自由州への逃亡奴隷対策がはっきり意識されている。事実、アメリカ合衆国憲法のシステムが修正十カ条を含めて完成した直後の1793年には、逃亡奴隷の所有者が他の州から勝手に彼らを連れ帰る、いわゆる拉致の権利を認める法律が連邦議会で成立している。

 黒人奴隷に対しては、言論の自由の保障や人身保護令など修正十カ条に盛られた権利章典部分、つまり基本的人権の保障が適用されないことを、はっきり打ち出した法律であった。49年後の1842年、南部諸州出身の判事が多い連邦最高裁判所はこの1793年法に合憲の判決を下している。

 今考えれば、「アメリカという国」は、その民主主義の出発点から黒人奴隷制という、根源的には負の部分を抱えていたということである。この1842年の最高裁合憲判決をめぐるいきさつを細かく見ていくと、このことが良くわかる。

 ことのきっかけは、奴隷制廃止論者が主導権を握り、各地に逃亡奴隷保護のための監視委員会を設置するなど、自由州の代表格となっていたペンシルバニア州議会が、1826年に制定した逃亡奴隷拉致禁止法である。そして、ペンシルベニア州当局は、1837年、同法に基づき、逃亡女性奴隷とその子供を拉致し、メリーランド州の所有者の元に連れ戻したエドワード・プリグと名乗る男を拉致の罪で起訴し、有罪とした。

 プリグの弁護士が、これを連邦最高裁判所に控訴、同最高裁判所は1842年、「プリグ対ペンシルベニア州」と銘打った判決で、まず1826年のペンシルベニア州拉致禁止法自体をアメリカ合衆国憲法違反であると決め付けた。そして、逃亡奴隷拉致の権利を認める1793年連邦法を合憲だとしたうえで、これを妨げるすべての自由州の立法の無効を宣言した。

 しかし、同時に、逃亡奴隷の連れ戻し業務は連邦政府のみの責任であるとして、奴隷州、自由州の如何を問わず州当局のいかなる関与もこれを認めない、とも裁定した。

●ライト師も強調した「地下鉄道」の活躍

 昔も今も、アメリカ合衆国連邦最高裁判所の判決は、その時代その時代の社会情勢を鋭く意識し、極めて政治的である。この「プリグ対ペンシルベニア州」判決も、南北戦争という一大内戦の危機が迫りつつあった19世紀中葉の状況と巧みに折り合ったものだった。

 つまり、建国以来、常に州権第一を主張して、ワシントンの連邦中央政府の連邦権力の強化にことごとく反発、「弱い」中央政府を求めてきた南部諸州に対し、その奴隷制のアキレス腱である逃亡奴隷問題で恩を売ると同時に、その連れ戻し業務に対する奴隷州当局の介入を拒否することで、連邦政府の権威を確立するという巧みなバランス感覚をみせてくれているからである。

 事実、自由州では、この判決以後、逃亡奴隷に対し、人権や法廷での証言、陪審員による裁判などを保証すると同時に、その連れ戻し拉致に州の施設が使用されることを禁じる自由保護法が数多く制定される。そして、自由州各地の保護監視委員会は協力し合って、南部諸州から乗り込んでくるのみならず、自由州出身者でもビジネスとして手掛ける者が出た逃亡奴隷拉致との戦いを組織する。この結果、「地下鉄道」と名付けられた秘密ルートで、毎年数百人という規模の逃亡奴隷が、ボストンを中心とする自由州北部、さらにカナダへと送り込まれる。連邦執行官の目を盗んでの地下支援活動であった。

 皮肉なことに、オバマ候補が絶縁宣言を出さざるをえなくなった、ライト牧師はこの「地下鉄道」の存在をあげて、白人側にも黒人差別撤廃を支持する人がいたことを、わざわざ強調している。 ライト発言の持つこうした奥の深さを理解しておかねばならない。オバマ候補が抱えているのはこのアメリカの重い過去である (上終わり、下に続く)

松尾文夫 (2008年5月15日)

© Fumio Matsuo 2012