1991_11_インタファクス 成功への登り道 インタファクス通信社 社長 ミハイル・コミッサール(新聞研究)

インタファクス 成功への登り道

 

インタファクス通信社 社長

ミハイル・コミッサール

 

 

 インタファクスは一九九一年九月一日に発足二年の記念日を迎えた。私たちは誕生記念パーティーを催さなかった。しかしモスクワの国際メディア社会の同僚たちは彼らなりのやり方でこの日を記録した──九月中ほとんど毎日、私とインタビューするというやり方で。ほとんどすべての会見で、インタビューした人々は、インタファクスは「立身出世話だ」と述べて、会見を終えた。この決まり言葉を聞いた私は肩をすくめた。あたかも同意を表明するかのように。しかし実際には、私は自問していたのだ。「私たちは道の入り口に立っている。すべては、成功の可能性も失敗の可能性も、これからにかかっている。会見した人たちはこの点を認識していないのだろうか」と。

 

 

 報道の自由を求めて

 

 インタファクスは私がモスクワ・ラジオの情報部長であった二年前に生まれた。生みの苦しみは長く、苦痛であった。

 グラスノスチとペレストロイカはまだ幼児期にあった。

 一九八五年にゴルバチョフが権力の座についてソ連のメディアに新しい可能性が開けた。前には考えもおよばなかったようなことを報道し、語る機会が私たちに与えられた。しかし間もなく自由の幸福感は消え始めた。モスクワ・ラジオを管理する国家ラジオ・テレビ委員会の強硬な指導陣は明らかに、ラジオ・ジャーナリストたちに自由な活動を許す計画を持たなかった。事実、ゴルバチョフ時代の初めの数年には、非常に少数の刊行物を除いては、グラスノスチはあまり進展しなかった。ラジオ・テレビ委員会はまったく表面的な変更以上には出ようとしなかった。

 毎朝、管理陣は私たちに指示を押し付け続けた。エリツィンとのインタビュー、特に生産水準の低下、ソ連農業の苦境についての報道はソ連の音波にとってはタブーだった。彼らはいつも言うのだ。われわれは国家の放送だ、と。彼らの指示を裏付けるような別の説明を決して探そうとはしなかった。私たちは国家の利益のために行動しなければならないのであって、個人的な意見を表明してはならないのだった。その意味は、国家の利益となるものは何かについて、管理陣は私たちよりよく知っている、ということだった。その結果、私たちは何を語ろうと自由だが、それを波に乗せることは出来ないのだった。私はこの状態についていろいろと考えたが、ある日一つの考えが頭に浮かんだ。「国家委員会が完全にはコントロールできないような何かを作り出したらどうだろうか」。

 当時からすると、この考えは危険で実行が難しかった。しかし私はアレクサンドル・ヤコブレフ、エフゲニー・プリマコフ、それにゴルバチョフの補佐官ゲオルギー・シャフナザーロフら影響力を持つ進歩的な政治家の支持を取り付け、基盤作りを始めた。

 この企画には国際交換力の強い通貨を含むお金が必要だった。私はモスクワで当時始まりだしていた合弁企業各社を訪問し始めた。相当長い間、実のある回答が手に入らなかった。ビジネスの人たちは私の企画が実行可能だとも、利益をあげられるとも信じなかった。タス通信の独占は破れない、と彼らは言った。

 遂に私はソ連・フランス・イタリアの合弁企業インテルクアドロの総支配人バインバーグに会った。彼は同僚たちより賢明で、私の企画が自社の広報を伝えるすぐれた伝達機関になる可能性と巨額の金をかけないでもすむことに気づいた。

 

 

 客観報道に徹する

 

 私たちは情報を伝えるためにファクスを使うことを決めた。私たちの通信社をインタファクスと呼ぶのはそのためだ。私の知る限り、私たちはこの装置を使った世界で初めての通信社だった。ロサンゼルス・タイムズのファクス・ニューズはその後に発足している。

 インタファクスはモスクワ・ラジオとインテルクアドロの共同事業として一九八九年九月一日に発足した。

 私がジャーナリストたちに説明した信条は次のようなものだ。「私たちは政策を作らない。それを反映するだけだ。仕事をしている時には君たちは保守派でも左翼でもない。共産主義者でも無政府主義者でもない。カメラマンのように事実をとらえ、これをストレートに表現するために最善を尽くす」。情報市場での私たちの二年間はこれが健全な戦略であったことを証明した。

 発足当時、外国のジャーナリストたちは新通信社を見下げ、辛らつな口調で言ったものだ。「ほんとうにタスに勝てると思っているのかね」。

 私たちは彼らに対し、二週間無料で提供するから、その後で契約するかどうか決めてくれ、と提案した。

 二か月後にはモスクワ駐在を認められている外国ジャーナリストたちのほとんど全部、多くの大使館、会社、銀行代表らのオフィスが私たちの契約者となった。

 圧力と検閲が去って、私たちのジャーナリストは驚くような活動を振るい始めた。私たちは「センセーション通信社」と呼ばれるようになった。全国的な舞台での多くの重要な出来事を最初に報道した。

 例えば八月の末に、ゴルバチョフ氏は共産党指導者の地位を退き、党の活動を一時停止すると決断した、とインタファクスが報道し、全世界を揺るがしたが、この報道は公式発表に五時間も先立っていた。これは全世界的な爆弾だった。他の社を一時間も抜くのはジャーナリストの夢なのだから。世界中からの問い合わせの電話に答え切れず、私たちの電話はみな文字通り赤熱した。電話して来た人々はもっと詳しい情報を、また情報源をぜひ知らせてほしいと懇請した。こんなに多くの人を驚かすような報道をできるのはどうしてかと聞かれることが多い。あなたが聞くとすれば、驚いた質問だと思う。私の心の中では答えは明瞭だ。ジャーナリストとしての熟練プラス義務感である。

 

 

 クレムリン強硬派との対立

 

 発足後数か月に話を戻そう。国家委員会の指導者たちは初めのうちは無視するだけだった。しかしまず西側の、続いてソ連のプレスがだんだんと多く私たちの報道を引用するにつれて、指導権力は私たちを相応の大きさに縮小させることが必要だと心を決めた。私たちは、何を取材すべきか、何を取材すべきでないか、何を報道すべきか、何は黙って見過ごすべきかなどについて勧告を受け始めた。私は屈服を拒否した。すると会計検査班が突然やって来て、会計書類を検査した。何の違反も出て来なかった。第二、第三、第四の捜査班がやって来た。発足して一年以内に少なくとも十の捜査を経験した。

 長い話を手短かに。モスクワ放送は一九九〇年九月、インテルクアドロとの協定を解約した。しかしこの時期にはすでに新聞法が施行されていたので、私と数人の同僚はインタファクスを独立の通信社、有限会社として登録した。これでインタファクスはソ連で発足した初めての民間メディア通信社の一つとなった。

 しかしもっと多くの問題が生じた。一九九〇年の冬、共産党の強硬派はインタファクスを罰しようと決めた。私たちは「敵にこびへつらっている」「西側から指示を受けている」と非難された。ソ連テレビの中心的番組、強硬派日刊紙プラウダ、ソビエツカヤ・ロシアとタス通信は私たちに対し激しい攻撃をしかけた。

 しかし私たちは進歩派の中に協力者を発見した。ロシア共和国の指導者ボリス・エリツィン、科学産業リーグのアルカジー・ボーリスキーはロシア最高会議とリーグの建物の一部を私たちに提供した。一月半ばにはインタファクスとクレムリンの強硬派との対立は世界の多くの通信社の報道の中でナンバー・ワンのニュースとなった。

 インタファクスは嵐を踏み越え、ソ連の中で最も信頼できる通信社の一つとなった。私たちの報道は四十か国の代表たちに伝わる。モスクワには三百の外国契約者を持ち、全ソ連に数百の契約者を持つ。私たちの報道は中央および共和国のトップのソ連指導者たちに読まれている。ソ連のテレビ、ラジオとポピュラーな新聞は私たちのニュースを伝えている。

 八月十九日モスクワで反乱の起こるまでに、私たちは信頼できる重厚な通信社としての驚くような信任を確立していた。'

 

 

 クーデターの三日間

 

 私は早朝の公式発表で反乱のことを知った。相当前から事態は明らかにクーデターの方向を指してはいたが、だれも極秘の間に進められたクーデターの直前準備に気づいていなかった。

 ごく自然のことだが、私がまず考えたのは通信社はこれで終わりだということだった。しかし私たちは「最後の戦い」を決めた。私たちはすべてのスタッフを集め、扉をロックし、仕事を始めた。

 万一の場合に備えて、私たちは最後となるかもしれない報道を準備した。「兵隊たちがインタファクスのオフィスに乱入した。私たちはしばらくの間活動を中止する」。幸運にも、私たちはこのメッセージを送信しないですんだ。通信社はいつもの通りの活動を続けた。私たちは全国百五十人の通信員から報告を受け続けた。

 十分ないし十五分ごとにエリツィンの城塞、最高会議ビルから電話がかかり、新しい発展を知ろうとした。奇妙なことにクーデターの指導者たちも、同じような質問をするために、電話をかけて来た。クーデター派の一人パブロフ首相の補佐官も私たちに情報を求めた。「この国の世論がどうであるかを知ることはわれわれにとって重要なのだ」と彼は説明した。私たちの契約者の一つで、別のクーデター指導者の指導下にあった内務省も同じ様な質問をして来たことには一層の興味を感じた。法律執行者たちでさえ情勢がどうなのか知らなかったわけだから。

 私たちの報告はクーデター派を勢い付かせるようなものではなかった。大衆は反乱を支持しなかった。国民はほとんど全員一致でクーデターに反対した。

 陰謀家たちが軍を動かして反対を制圧させられなかったために、クーデターは失敗した。クーデターが短期間で失敗したことについて私たちはある程度貢献したと主張しても正しいと思う。私たちの報道がいろいろな兆候を伝える中で、反乱派は負けた、大衆は彼らを信じなかった、ということを反乱派に納得させたのである。

 その反面、インタファクスの報道はエリツィン氏ら抵抗の指導者たちがその立場を維持する上で役立った。エホ・モスクワ(モスクワのエコー)、BBC、リバティー、ボイス・オブ・アメリカその他のラジオ局が私たちのニュースをソ連や国外の数百万に達する人々に伝えたのである。

 クーデターの三日間、私たちにとって時間は停止した。私たちは二十四時間働き続け、その結果として、ソ連と世界に向けてのニュースの最大供給者となった。戦車部隊はオフィスの窓越しに音をとどろかしながら通過した。八月二十日から二十一日にかけての夜間には射撃が近くで始まった。私たちは電燈を消し、暗黒の中で働いた。

 

 

 クーデターを失敗させたもの

 

 私たちは今「八月のクーデターに際しての軍隊とKGB」という本を完成しようとしている。共同通信社の助力を得て、この本が日本で出版されることを期待している。

 クーデターの失敗について考えた末、近年この国で起こって来たことからすると、クーデターの終末はあれでしかなかった、との結論に達した。プレスとグラスノスチは反乱失敗の背後にある主要な要素であった。

 ゴルバチョフ氏の最大の業績は、彼の諸政策が大衆から恐怖を取り除いた、という点にあると私は信じる。私たちの国民は完全な恐怖下にあった──グラスノスチ時代が違った国民にするまでは。

 新聞、雑誌、インタファクスを含む通信社は真実の過去、真実の現在を明らかにして、国民の目を開かせた。今日となっては国民が知ってほしくないと思うことを知らせないように指導者たちが図ることは不可能だ、ということを国民は認識した。自由なプレスは国民の抗議と希望を伝える代弁者であると信じるようになった。そしてクーデターの発生した時、大部分の国民はひるまなかった。数十万のモスクワ市民は戦車に立ち向かった。軍人もまた前とは違った軍人であった。彼らは犯罪的な命令の遂行を拒否した。彼らはすべての犯罪は国民に知れ渡ることを知っていた。

 反乱の後に内務省から受け取った一通の書簡は、私にとって最も貴重なクーデター記念品の一つである。内務省のスタッフたちはこの書簡の中で「正確な報道のお陰で、私たちは旧指導陣の間違った指示に従わないことが出来た」とインタファクスに感謝したのだ。

 クーデターの失敗はインタファクスの横顔を拡大した。高度なプロフェッショナリズムを保ち、偏見なく、すぐ対応して報道するという私たちの公約はよい結果を産み続けると私は確信している。とはいえ私たちのこれからの仕事は順風満帆ではないだろう。この記事の冒頭で提示した疑問をここで説明したい。

 

 

 国際通信社を目指して

 

 私たちはすでに市場経済の環境の中で生活している。この国にはインタファクス以外にも多くの通信社が存在し、その一部は新しい商業機構から力強い金融的支持を受けている。ゆっくりとではあるがタスは変わりつつある。ロシア通信社とノーボスチ通信社は合併し、このことは古い機構を元気づけかねない。ニュース市場での競争は拡大しつつある。だから、大きな戦いはまだこれからだと私は考えている。

 もちろん、インタファクスも大きく前進している。私たちは競争相手より上質の報道をしようと努め、いつも新しい形の仕事を探している。

 政治ニュースに付け加えて、私たちは今では信頼できるビジネス情報を提供している。毎日送信するソビエト・ビジネス・リポートとビジネス・ウイークリーは、混乱するソ連市場への信頼できるガイドとして、外国のビジネスマンに親しまれている。もう一つのビジネス版は二百もあるソ連の取引所の活動を詳しく報道する版で、ソ連の中ではただ一つの版だ。私たちはまた近く金融、農業、石油、ガスなど特定の問題についての刊行物を発刊しようと計画している。私たちの将来は、ビジネス分野の報道にかかっていると私たちは考えている。地理的に見て、インタファクスの発展には二面がある。国内と世界のいろいろな地域の二面だ。

 私たちの最初の「国際的パートナー」は共同通信社で、同社は私たちのニュースを日本で配信している。私たちは共同との協力に特別の注意を払っている。この五月日本を訪問した時、私は海部首相と会見したが、この時、私は日本の指導者が私たちの協力関係を評価していることを知って、うれしかった。

 最近、私たちは米国にインタファクス-USのオフィスを開いた。同国の契約先の中にはマスメディア、ホワイトハウス、多数の会社、研究所が含まれている。

 私たちはまた欧州諸国にもインタファクスのオフィスを開こうと計画している。

 私たちはまたソ連の契約者のために国際情勢の取材報道を始めようと計画している。この目的のために私たちはロイター、APと話し合っている。インタファクスが一九九二年には国際的通信社となることを私たちは希望している。情報ビジネスのこのような高さに向かっての坂を登るために、私たちは最初の数歩を踏み出したばかりなのだ。

 

(Mikhail Komissar 訳=橋本正邦)

© Fumio Matsuo 2012