1991_11_"通信社魂"との出会い(新聞研究)

"通信社魂"との出会い

 

松尾文夫

 

 

 「幕末の坂本龍馬のような男だな」──というのがコミッサール・インタファクス通信社社長とモスクワで出会ったときの印象である。

 一九九〇年十月末、当時、オフィスはまだモスクワ放送の本部ビル(正式には国家ラジオ・テレビ委員会本部ビル)の一角に仮住まい中だった。小さな部屋に分かれた編集局は若いスタッフでスシ詰め状態、大変な熱気に包まれていた。しかし、それ以上に、ソ連史上初の有限会社組織により、「純粋なビジネス」として、「情報の客観性、正確さ、脱イデオロギー」をモットーとする新しい通信社づくりに取り組むのだと抱負を語るコミッサール社長の意気込みはすごかった。三十九歳。キューバに駐在したこともある旧体制のエリートから転じて、ペレストロイカ、グラスノスチの最先端部分のビジネス化を説く彼の熱弁を聞いているうちに、ふと浮かんで来たのが日本最初の株式会社といわれる「亀山社中」を興した龍馬のイメージである。

 こうした私の反応は初めてのモスクワ訪問でソ連問題には門外漢の私が、当時の情勢を幕末の徳川幕藩体制イコール共産党支配の末期、ゴルバチョフが体制内改革を目指した徳川慶喜、エリツィンが衆望をになう薩摩藩の西郷隆盛──といった程度のアナロジーでしかとらえることが出来なかったためでもある。しかし、同時にゴルバチョフが保守派にすり寄り始めていた厳しい情勢のもとで、コミッサール社長が敢然として取り組む通信社創業の激しい情熱に、幕末の志士のエネルギーをかい間見る思いがしたことも事実である。本物の「通信社魂」に接した思いであった。

 この私と瀬川前モスクワ支局長との約二時間の出会いでの共感が現在のインタファクス通信社と共同通信社との協力関係の出発点となった。これからも大切に育てていきたい。

 日本の一部マスコミでは、依然としてインタファクスを「情報紙」と呼び、新聞のように紹介されている。これは今度の寄稿でも明らかなように間違いである。れっきとした通信社である。速やかに訂正されることを願っている。

© Fumio Matsuo 2012