2004_06_「アメリカという国」を考える(その十八) ──「共通の価値観」という曲者──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」(二〇〇四年六月号)

 

「アメリカという国」を考える(その十八)

 ──「共通の価値観」という曲者──

 

松尾文夫(ジャーナリスト)

 

 

 快晴に恵まれ、小泉首相が「春爛漫」とその祝辞を切り出した四月三日、横浜市の横浜開港広場で開かれた日米和親条約百五十周年記念式典に、日米協会のメンバーとして参加して来た。

 日米交流百五十年委員会が主催した式典は、ブッシュ大統領のビデオ・メッセージ、ベーカー駐日大使のあいさつ、オハイオ州から贈呈のハナミズキ植樹、尺八とバンジョーの演奏、日米両国学生代表のメッセージ、横浜市長の閉会あいさつが淡々と進行した。続いて横浜大桟橋ホールでレセプション、横浜開港記念会館で日米の専門家による「日米関係の軌跡と展望」と題した記念シンポジウム─とそれなりのプログラムが手際良く消化された。

 しかし、渋谷に直結して便利になったみなとみらい線に乗って帰って来る途中、心に強く残ったのは、えも言われぬ空白感であった。いま日本が自衛隊をイラクに送り、アメリカが開けてしまった「パンドラの箱」ととことんつき合わざるを得なくなっている重い現実と、この日の行事との乖離感だった。

 

 

 例のない二国間関係

 

 日米という二つの国の関係が始まってから百五十周年という歴史の節目を、「日本にとってアメリカという国はどういう存在か」といった根元的なテーマについて、日本全体が改めて考えてみる絶好のチャンスとするべきだ、と重要視していた私自身の思いが空振りに終わったということである。

 特に引っ掛かったのは、この日の日米首脳のメッセージ交換で、ブッシュ大統領が「日米両国は共通の利益、共通の価値観、そして共通の目標によって結びついている」と手放しで強調したくだりである。これに対し、小泉首相は確かに「日米間には異なった歴史的、文化的背景がある」とクギをさしていた。しかし、その後、すぐ続けて「にもかかわらず、日米両国間の友情が強固なのは、自由、民主主義、そしてフリーマーケット経済という基本的な価値観を共有しているからだ」とこれに応じている。この「共通の価値観」というのが曲者である。ここのところを作文だけで素通りしてはいけない、とことんこだわっておかねばならない、と私は思う。

 私も日米同盟の維持は、日本という国の国益であり、こんどの自衛隊のイラク派遣もそのための選択肢の一つであることを認める立場である。

 しかし、その前提として、同じ民主主義といっても、アメリカと日本のそれでは、その中身は月とスッポンほど違う。その違いをはっきり見極めることから本物の「共通の利益」が生まれてくる、と強く思う。

 この原点は、いま往々にして見失いがちである。日米両首脳がそろって触れたイチローや両松井が活躍するメジャー・リーグ情報の共有をはじめ、政治、経済、軍事から最近では文化、社会面まで、表面的な日米シンクロ現象がおびただしいからである。この「フィジカル」な意味での緊密さ、近さは、植民地関係を持ったことがない二国間関係としては、世界の歴史でも例がない、といってもいい。それだけにもう一度、「共通の価値観」という甘いことばの実像をしっかりとらえておかねばならない。

 

 

 「神意」としてのイラク武力行使

 

 私は、この似ているようで似ていない、近いようで遠い日米関係──という大テーマを目標に、その前例としてまず「アメリカという国」の素顔をとらえることに挑戦し、最近、『銃を持った民主主義=「アメリカという国」のなりたち=』と題する一冊をまとめたばかりである。十二歳でB29の夜間無差別焼夷爆弾の洗礼を受けることから始まったアメリカとの出会いにこだわり続けることで、日本とは一〇〇%違うアメリカ民主主義の価値観を探究したつもりである。従って、ここでは論議の重複は避ける。

 しかし、横浜で百五十周年が祝われた日米和親条約そのものが代表していたアメリカ民主主義ならではの価値を改めて紹介しておきたい。

 日米和親条約による日本開国は、そもそもアメリカが独立直後のルイジアナ購入(一八〇三年)を手初めに、テキサス併合(一八四五年)、オレゴン割譲(一八四六年)、メキシコとの戦争によるカリフォルニア、ニューメキシコ獲得(一八四八年)、アラスカ購入(一八六七年)、ハワイ併合(一八九八年)、フィリピン領有(一八九八年)──と続いた大西洋から太平洋へと西への発展を続けるなかで、その国策として推進され、実現したのだという事実を再確認しておかねばならない。

 この国策は、「明白な天命」(マニフェスト・デスティニー)路線と格付けられた。「クワとライフルを手にしたアングロ・サクソン移住者によるカリフォルニア領有と民主主義諸制度の構築は神意にかなったものだ」(明白な天命というスローガンを最初に使ったジョン・オサリバンの一八四五年の論文)といった具合に、西への領土や影響力の拡大を自由と民主主義の普及のためという使命感で彩り、その達成のための武力の行使を正当化するスローガンだった。

 日米和親条約自体、前年に完全蒸気式の新鋭艦を含む四隻で浦賀沖にやって来たペリー提督が、こんどは九隻(最初は七隻であとで二隻加わる)に増した艦隊の圧倒的な武力での威圧によって、江戸幕府に調印を余儀なくさせた産物であった。「明白な天命」路線を国策として採用し、大西洋と太平洋にまたがるアメリカを誕生させた第十一代ポーク大統領が一八四六年、ビドル提督指揮下の二艦を同じ浦賀に送り込んだものの、幕府側の強硬姿勢と二艦が帆船で海が凪いだため、開国を果たせず、退去を余儀なくされた事実は、あまり知られていない。

 「自由とは全能の神がこの世のすべての男女に与えた贈り物である。われわれは、地球上の最強国としてこの自由を世界に広げる義務がある」─イラクを突破口に中東に民主主義を築くことがアメリカの義務だと説く四月十三日の記者会見でのブッシュ大統領の発言である。

 ここでも「神意」が出て来ていることに注意しておかねばならない。自衛隊派遣のいま、こうした価値観とつき合う覚悟を固めておかねばならない。百五十周年記念行事がすり抜けていると思ったのは、この重い課題である。

(五月二日記)

© Fumio Matsuo 2012