2002_05_米中和解三〇周年に想う人(外交フォーラム)

巻頭随筆(外交フォーラム 2002/05)

米中和解三〇周年に想う人

 

松尾文夫

 

一九五六年学習院大学政治学科卒業、共同通信社入社。ニューヨーク特派員、ワシントン特派員、バンコク支局長、ワシントン支局長、論説委員などを歴任。著書に『ニクソンのアメリカ』、共訳に「ニクソン回顧録』などがある。

一九八四年から共同通信社が展開した米国の国際金融情報サービス「テレレート」の経営を担当。

 

 

 ニクソン訪中三〇周年の記念日に合わせて、二月二一日、北京の人民大会堂で会談するブッシュ大統領と江沢民国家主席の笑顔をテレビで眺めながら、私の胸に強くこみあげるものがあった。一人の雑誌編集者との出会いが甦ってきたからである。

 一九八○年、四五歳でこの世を去ってしまった塙嘉彦氏。未だに惜しまれる旧『中央公論』のスター編集者だった。神官の家柄で東大仏文卒。限りなくシャープで、人懐こく、明るい人だった。そして、私に「ニクソンのアメリカと中国──そのしたたかなアプローチ」と題する巻頭論文を一九七一年五月号に書かせてくれた人である。

 彼が書いた見出し横の要約は「米中関係は今や動き出した。日本が見落としているこの米国の思惑とその限界を綿密に追う」となっていた。五月号といっても、本屋に並んだのは四月中旬。つまり、ニクソンの訪中を決め、全世界が大騒ぎになる一九七一年七月のキッシンジャー北京秘密訪問の三カ月前である。反響は大きかった。

 塙氏がなぜこんなチャンスをくれたのか。出会いは一九六八年。「五月革命」たけなわのパリだった。当時、私はワシントン特派員で、追いつめられたジョンソン大統領がようやく応じた北ベトナムとの和平会議がパリで開かれ、その取材で出張していた。ある日、凱旋門近くのクレベール通りのマジェスティック・ホテル(現クレベール国際会議場)の門前で、双方の代表団への「ぶら下がり」取材のチャンスを待っていた時、話しかけてきたのが「プラハの春」をみた帰りの塙氏だった。大きなトレンチコートを着ていた。お互いに並みの日本人とは見えない容貌。最初は英語でしゃべったと思う。

「ワシントンで何か面白い動きがありますか」と聞かれたので、「最近国務省を回っていて、日本部より中国部のほうに優秀なスタッフがいることに気づいた。話してみると、彼らが仮想敵国であるはずの中国に対する敬意を隠さない。もしかしたら米中は日本を出し抜いて手を握るのではないかと思ったりする」と私。「そうですか」としきりに頷いていたが、話はそこで切れた。

 再会したのは、私がニクソン大統領の就任を見届けて帰国した後だ。一九七一年三月中頃、突如として自宅に電話があり「米中関係はどうですか」。「接近を確信できるようになった」と答えると、「明日から国際文化会館に部屋を取るから一週間でまとめてください」と、たたみ込んできた。この時の彼の鋭い声は、今も耳もとにある。

 私はまもなく経営側の仕事を終え、米国を追うジャーナリストに戻る。塙氏の編集者魂に恩返ししなければと思う。米中関係で見落としが無いようにしたい。

© Fumio Matsuo 2012