2005_08_識者評論 「戦後60年の日米関係─いぜん擦れ違ってはいないか」─(共同通信配信・福井新聞など)

戦後60年の日米関係

ジャーナリスト 松尾文夫

 日本は「アメリカという国」をどこまでとらえているのか。結局は、擦れ違っているのではないのか─。

 敗戦から六十年の夏、たどり着くのは、この痛切な自問自答である。北朝鮮問題をめぐる六カ国協議や、国連安保理常任理事国入りで、日本外交が「アメリカの壁」にぶち当たっている折、日米関係を根っこから考えることを迫られているように思う。

 あの八月十五日の約一カ月前、当時人口十万人に満たない福井市に襲いかかったB29爆撃機百二十七機の容赦ない「夜間無差別焼夷弾爆撃」を生き延びた原体験を持つ私にとっては、戦争そのものが、明治以来のアメリカとの擦れ違いの落とし子だった、と思える。

 日本近代化の引き金が一八五三年、浦賀沖に現れたアメリカの軍艦であったことは、歴史的事実である。しかし、明治新政府が発足早々、米国と欧州諸国に派遣した岩倉ミッションが一八七二年の帰国後、日本立国のモデルになると報告したのは、統一を果たしたばかりのドイツ帝国の富国強兵策だった。

 米国には、約七カ月と一番長く滞在し、開通したばかりの大陸横断鉄道に乗り、その物質文明の威容には感嘆するものの、三権分立の民主主義には違和感を持って「通過」しただけだった。

 以後、太平洋戦争までの日本は、野球を筆頭にジャズ、映画など文化面で「アメリカという国」と独特のなじみ方を経験し、石油、鉄くずなど決定的な資源の輸入先としてアメリカに依存しながらも、全体としては、雑多な人種による「烏合の衆の国」として見下げる対象だった。

 軍部、外務省を含めて官民を問わず、欧州への赴任者や留学者は、アメリカへのそれと比べて、一段上の扱いを受けていた。

 明治天皇の下で、国造りを果たそうとしていた元勲たちで構成された岩倉ミッションが、アメリカ民主主義に違和感を持ったとしても、不思議ではなかった。ユンカーと呼ばれる地方貴族を母体として出来上がっていた、ビスマルク指導下のドイツ帝国には相似性を見いだすのは、いわば当然の成り行きだった。

 しかし、岩倉ミッションがアメリカで見落としていたものがある。十三の旧イギリス植民地が団結して独立戦争を勝ち抜き、相互の妥協によって多元的な利害の対立を克服、つくり上げたオリジナルな民主主義に対する強烈な自負心である。そして、その維持と拡大のためには、武力行使をためらわないアメリカ民主主義の全体像である。

 ペリー艦隊による日本開国の要求自体が「アメリカ民主主義は神意にかなっている」とする「明白な天命」路線の下、テキサス併合、カリフォルニア獲得、アラスカ購入、ハワイ併合、フィリピン領有─と、アメリカが十九世紀中葉以降、西へ西へ、太平洋へと拡大を続けたプロセスの一部であった。

 日本の真珠湾攻撃は一八九九年、ヘイ国防長官による中国の門戸解放宣言にまで行き着いた「明白な天命」路線の使命感との、正面からの衝突であった。明治以来の「アメリカという国」をとらえ切れなかった擦れ違いの結果だった、と思う。

 イチロー、マツイの米大リーグでの活躍が、日本の茶の間の隅々にまで入り込んでいる今、あらためて肝に銘じておくべき経験だと考える。ふと気が付いてみると、日米がこの擦れ違いを克服したという証拠は今、どこにもない。

(共同通信配信)

© Fumio Matsuo 2012