第10回 『拉致敗戦』中央公論2007年8月号インタビュー・再録

 この第10回目では、私が中央公論8月号(7月10日発売)にアメリカの北朝鮮問題専門家レオン・シーガル氏とのインタービューをまとめ「拉致敗戦」と題して発表した記事の全文を、いわば「緊急報告」として掲載することにした。

 理由は、このインタビューのなかでシーガル氏が明らかにした赤裸々なアメリカの北朝鮮政策転換の軌跡が大きな反響を呼び、二ヶ月経った今も収まりそうにないからです。 具体的には、シーガル氏がこのインタビューで、あえて推測というかたちで、昨年10月、安倍首相が北京を訪問。胡錦涛主席との会談で対中和解を果した同じ頃、同じ胡錦涛主席経由で、アメリカの対北朝鮮和解のメッセージが金正日総書記に伝達されたという事実を明らかにした衝撃が今も尾を引いているということです。 シーガル氏によると、昨年10月10日、つまり安倍ー胡錦濤会談が行われた10月8日の2日後、より正確にいえば、北朝鮮が核実験を行った9日の次の日、キッシンジャー元国務長官が胡金濤主席と会い、ブッシュ大統領からのメッセージとして「北朝鮮が核を捨てたら、アメリカは平和条約に調印する」という北朝鮮との和解路線への転換を北朝鮮の金正日総書記に伝えるよう頼んだ、という。

 一つ補足しておくと、8月末訪日したアメリカのベテランジャーナリストは私との朝食で、北京でのキッシンジャー・胡錦涛会談の1日後の10月11日(ワシントン時間)、ブッシュ大統領自らも、ホワイトハウスを訪問した中国の唐家セン国務委員(元外相)にたいし、同じようなメッセージを伝え、平壌への伝達を依頼したのだと、こともなげに語った。その後、唐家セン国務委員が平壌を訪問した事実は公表されている。 更にいえば、産経新聞の伊藤正中国総局長は8月10日の紙面で、金正日総書記がブッシュ大統領に「韓国以上に親密な米国のパートナーになる」とのメッセージを送ったと報じた。シーガル発言を裏付けるスクープだった。ワシントン、北京の双方からシーガル発言に対する否定的なコメントは一切出ていない。  反響は大きかった。7月10日の中央公論8月号発売直後から、ネット上で活発に取り上げられ、多くのコメントがいきかっていた。一番新しいところでは、櫻井よしこ氏が週刊新潮9月13日号のコラム「日本ルネッサンス」で採り上げたほか、9月1日付産経新聞コラムで伊藤中国総局長が、また雑誌「正論」10月号で李英和関西大学教授が、それぞれの立場でシーガル発言を引用、論評している。

 しかし、シーガル発言を引き出して、私は複雑な心境だった。私は、2007年春から始めたこのブログでも、米朝関の水面下での緊密な関係を指摘し続けていたからである。 4月10日にリリースした前回の第9回では、昨年夏、北京で行われた米シラキュース大学教授陣による平壌の金策工業総合大学学生に対するIT英語研修の記念写真まで添えて、『一枚の写真が語る「アメリカと北朝鮮との間にだけあって日本にはない」関係』を報告している。 それだけに、シーガル氏が、日本にとっては第二のニクソンショックといってもいいアメリカ外交のなりふりかまわない現実主義路線への変身を熱っぽく語るのを聞きながら、やはり、私の「日本にはない米朝関係」への危惧は現実のものとなった、との妙な達成感を抱いた。

 しかし、同時に、日本外交の拉致問題での苦境のみならず、将来の東アジア地域での長期的な外交ヘゲモニーの喪失にもつながりかねない日本外交の暗い行く手を、ギリギリと冷酷なまでに詰めてみせる、シーガル氏とのANAホテルの一室での約2時間のインタービューを終えて、暗い重い気持になったことを昨日のように思いだす。 6月16日土曜日のすでに蒸し暑い夜だった。シーガル氏と寿司をつまみ、ホテルに送った後、一人赤坂の夜道を歩きながら、いつかこの一幕ををブログで報告しておかねば、と心に決めた。そして、ちょうど36年前の1971年4月、私が同じ中央公論誌上で、ニクソンの対中和解の可能性を指摘した論文を発表した。その3ヵ月後の7月、キシンジャー北京秘密訪問の発表で、それが現実のものとなった時の高揚感と喪失感が入り混じった、ジャーナリストとしての複雑な心の高ぶりを思い出していた。

 今回、中央公論8月号掲載のインタビュー記事全文を、あえてこのブログに再録するのは、あの夜から3ヶ月、まさにシーガル氏の予測通りに進行する米朝間のただならぬ蜜月関係を目のあたりにしているからである。そして、受身に終始する日本外交の姿におののき、少しでも多くの方々に、この現実、つまり軍事、政治、経済、社会、そして最近では、イチロー、松井らの活躍で全国の茶の間の隅々まで入り込んでいるメジャーリーグを初めとするスポーツまで、その存在が日本の生活の一部となりながら、まだまだ「知っているようで知らない」アメリカという国の懐の深さを知ってもらいたい、と思うからである。

 配達されたばかりの2007年9月8日-9日付けのウォール・ストリート・ジャーナル紙週末版によると、9月初めのジュネーブでの米朝作業部会で、北朝鮮側は国際金融面での不正活動に関係した多くの人物を逮捕したことを、アメリカのヒル首席代表に告げ、テロ国家の指定解除を実現して、アメリカとの直接貿易を含む国際経済システムへの参画を強く希望 したという。これに対して、ヒル代表は、その熱意の証拠として米ドルニセ札製造機械の一つでも引渡したらどうだ、と述べたという。米朝は今こうしたしたたかな対話を行っている。

 そのヒル代表は,APEC首脳会議が開かれたシドニーで同紙に、北朝鮮が「核無能力化」への協力の一歩として米中露三国の核専門家を北朝鮮国内での実地検証に招いたことを、その「真剣さ」の証拠として評価し、「無能力化に希望が持てる段階に入った」と語ったという。そして、この記事は北朝鮮文化省が8月、ニューヨーク・フィルの平壌招待を発表したことを伝えてしめくくっている。

シーガル氏の予測は今のところ恐ろしいほど当っている。 10月始めには、平壌で南北朝鮮首脳j会談が7年ぶりに開かれる。

 ここまで書いたところで、安倍首相辞任のニュースが飛び込んで来た。 日本外交にとって、安倍首相がいう「局面打開」のための時間は、あまり残っていない。 前号で写真つきで紹介したシラキュース大学による平壌の金策工業総合大学学生らに対する IT英語研修は、今年も11月に北京で開かれるという。平壌からの参加者は昨年より、多くなるという。 (2007年9月12日記)


 <以下、再録>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー中央公論二〇〇七年八月号


 拉致敗戦 ──日本は北朝鮮問題で致命的な孤立に追い込まれる

レオン・V・シーガル/米国社会科学調査評議会北東アジア安全保障プロジェクト部長

聞き手・松尾文夫/外交ジャーナリスト


 北朝鮮のマカオ資金送金問題の解決で二月の合意文書採択以来、宙に浮いていた六者協議が動き出した。その中で六月二十三日の米主席代表、ヒル国務次官補の平壌電撃訪問に象徴されるように、米国と北朝鮮の間の「呼吸の一致」が目立ちはじめ、拉致問題の進展を前面に押し出してきた安倍外交孤立化の懸念が際立ってきた。一九八〇年代から北朝鮮の核開発問題の研究を続け、米政府の政策決定の裏側を知り尽くしている米国の専門家に、米国が日本を非難する可能性すら出てきた今の構図を解説してもらった。


 安倍訪中直後にキッシンジャー=胡錦濤会談

松尾:ヒル代表の行動をみていて、ブッシュ政権の北朝鮮政策の転換を肌で感じるようになってきたが、いつごろからこの変化は始まったのか。

シーガル:去年の夏からだ。一年前の、恐らく八月末から九月初めごろだろう。七月五日にミサイル発射実験があり、核実験を準備している明らかな証拠が出始めていたこのころ、具体的な日時は分からないが、ライス国務長官がブッシュ大統領のところに行った。同じころ、別にヘンリー・キッシンジャー元国務長官も大統領と会ったとみられている。この延長線で十月十日、キッシンジャーが対北朝鮮についてのブッシュ大統領のメッセージを持って、ひそかに北京へ行き、中国の胡錦濤主席に会う動きが生まれている。このメッセージは、同首席を通じて金正日総書記に伝えられたと信じられている。これは、北朝鮮との交渉路線の切り替えが、基本的にイラク戦争の失敗の結果ではなく、対中友好政策と連関していることのしるしだ。

 その会談は偶然にも、北朝鮮の核実験があった十月九日の翌日に行われた。そのためには、もっと前からキッシンジャーは北京にいたはずだ。会談の段取りは、その一週間ほど前に決まっていたのだろう。

松尾:実に興味深い。日本の安倍晋三首相も、核実験の前日(十月八日)に北京入りしていた。同じころキッシンジャーもいたわけだ。それで、ブッシュ・メッセージの内容は?

シーガル:私が得ている情報からの推測だが、第一に、北朝鮮が核を捨てたら、われわれは平和条約に調印する、だがそれに関する協議は早期に始めることができる、との立場を伝えたと思われる。第二は、この平和条約に関する協議の一つの方法として、暫定的な一連の和平合意について交渉し、信頼醸成措置ないしは、北朝鮮側が言うところの、軍事停戦委員会に代わる和平メカニズムに、調印することも可能だ、と伝えたのではないか。

松尾:つまり朝鮮戦争の公式終結である平和条約の一つ手前の和平合意、これは上院の批准を必要としない。政府間合意でやれるという判断か。

シーガル:そのとおり。平和条約が公式の戦争終結で、それは彼らが核を放棄するまで実現しない。ブッシュ大統領も、公式発言で確言している。だが、和平合意は、もっと早く作ることができる。米国がそれに調印することは象徴的な外交的承認を与える手段となる。 第三は、北朝鮮の安全保障と同時に、六ヵ国協議に参加しているほかの全員の安全保障も協議したい。そうなれば、六ヵ国協議は地域安全保障フォーラムに変わるはずだ。重要なのは、北朝鮮が同等の主権国家としてテーブルに着くことであり、他の五ヵ国と同等の立場に立つことになるのだ、との考え方が伝えられたと思う。


 レジーム・チェンジ政策など最初から存在しなかった

松尾:「レジーム・チェンジ」政策の否定をはっきりと伝えたということか。

シーガル:その選択肢は最初から存在しない。軍事的オプションもないうえ、韓国と中国が制裁に加わらないからだ。彼らが制裁と封鎖で北朝鮮を完全に締め上げる気にならない限り、米国はレジーム・チェンジなどできない。とにかく、重要なのは、こうしたメッセージが、胡錦濤主席を通じて北朝鮮に渡ったということだ。

松尾:そのメッセージが、核実験の後で北朝鮮に渡ったことが、日本にとっては気になる。それは、米国が北朝鮮の核保有を事実上容認するという意思表示ではないのか。

シーガル:いや、絶対に違う。六者協議の枠組みを見れば分かるが、その目的は常に最終的な核の撤廃だ。 ただ、その過程が段階的なものになることを、われわれは承知している。なぜなら北朝鮮は、米国の姿勢は完全に変化し、自分たちを敵扱いしなくなった、と確信するまで、核を手放さないからだ。そして、それには何年もかかる。即座にできることではない。 問題は、北朝鮮が核を放棄するかどうか、誰にも分からないことだ。いろんな人物があれこれ言っているが、そうした発言は無意味だ。なぜなら、鍵を握っているのはただ一人、金正日総書記だからだ。彼はまだ心を決めかねているのかもしれない。 だからこそ、段階的に交渉する必要がある。核計画を放棄させ、核兵器と核物質を再び査察の下に置かせる。この道を進む際、交渉材料を持っておくことが大事だが、いまのわれわれには、あまり手持ちがない。軍事力行使はできない、制裁はできない、大きな見返りを与えることもできない。

松尾:しかし、今度の変身までは、ブッシュも交渉拒否の立場だった。

シーガル:その結果として、北朝鮮は核爆弾一、二個分のプルトニウムを持った。やがてそれは、八個から一〇個分になった。そのうち一個は実験で使われたから、七個から九個に減ったわけだ。そこで、誰でもこう言うようになった。核兵器を廃棄させたいと思うなら、交渉しなければならない、ほかに道はない、と。それがうまくいく時もあるが、交渉しようとしても、うまくいかなかったのがイランだ。


 ブッシュ政権の一貫した対中国協調路線

松尾:つまり、キッシンジャーのアイデアをブッシュ大統領が買った、ということか。

シーガル:そこまでは分からない。だが、たぶんキッシンジャーのアイデアだと思う。なぜなら、核問題に取り組む唯一の道は、より大きな安全保障の枠組みを北朝鮮に与えることだ、というのがキッシンジャーの考え方だからだ。北朝鮮の安全保障問題は、対米関係が主だが、地域的な文脈もある。韓国との「和解」は別にして、彼らは中国に頼ることができないし、信用もしていない。ロシアとの関係も、以前と同じではない。ご承知のように、日本との関係は歴史的な重荷を抱えている。 だから、北朝鮮の安全保障は、地域的な枠組みの中でしか保証されない。そして一九八八年以来の北朝鮮の政策は、三つの旧敵国、つまり米日韓に働きかけて、彼らの言う「同盟国」に変えることだった。それは一九八九年に始まり、金丸信(自民党衆議院議員)と金日成主席の会談、そして一九九一年の南北基本合意を生んだ。先代ブッシュ大統領への働きかけは、一九九二年一月、ニューヨークでアーノルド・カンター国務次官と金容淳朝鮮労働党書記の高級会談を生んだ。

松尾:そして今回、先代ブッシュ大統領ともつながるキッシンジャーが、再び顔を出したわけだ。

シーガル:ブッシュ政策の変更には、昨年十月十日の、キッシンジャーと胡錦濤の北京での会談、十月三十一日のヒル国務次官補と北朝鮮側の北京での協議を行い、BDA(バンコ・デルタ・アジア)銀行の問題を解決するメカニズムで合意、そして、二〇〇七年一月のベルリンでの二国間協議での取引──といった証拠をあげることが可能だ。今度の突破口となったベルリン会談はライス国務長官が賛成し、ブッシュ大統領のOKをとったのだ。 しかし、振り返ると、二〇〇五年九月、六ヵ国協議で共同声明が、小泉首相も、韓国も、そして中ソも望んで、米国が完全に孤立したかたちでまとまったとき、当時まだ力を持っていたチェイニー副大統領をはじめとする右派・ネオコン連中は、面白く思わなかった。そこで何が起きたのか。事実上、米国は声明を受諾するが、ただちにそれに背を向けることになった。 いまでは偶然だったことがはっきりしているが、その六ヵ国協議の最中に後ろ向きの動きが起きた。九月十五日に、米財務省がBDAの制裁に自らの判断で踏み切り、これをネオコンが利用した。そしてヒル次官補は、ワシントンから強制され、北朝鮮に原子炉を提供する手段であるKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)の廃止を告げる声明を読み上げた。

松尾:ネオコンの上に乗ってきたブッシュ大統領はなぜ気を変えたのか。

シーガル:私は常にこう言ってきた。ブッシュ大統領を強硬派だと思い込んではならない、と。彼は、本能的な金正日嫌いだ。だが、北朝鮮に関して政権内で起きていたのは、強硬派が大統領を一つの方向に押しやり続けたことだ。時にはパウエル前国務長官などの話し合い派が、大統領を別の方向に押し、パウエルが望むことを大統領がすることもあったが、そうなるとチェイニー一派が押し返し、元に戻してしまう。北朝鮮に関しては、これがたびたび起きたのだ。つまり大統領には心が二つあって、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。

松尾:なるほど。

シーガル:大統領はレジーム・チェンジを望んでいると、誰もが思っていた。だが、大統領は早くから、韓国と中国にはその気がなく、日本の小泉首相も望んでいないことを知っていた。大統領の基本線は、「外交的解決を望む」という決まり文句だった。その外交的解決とは、何を意味するのか。強硬派にとってそれは、五ヵ国をまとめ上げて、みんなで北朝鮮に脅しをかけ、核兵器を無理やり放棄させることだった。だが、うまくいかなかった。小泉首相は、制裁を望まなかった。常に制裁に抵抗した。国会が制裁する権限を採択すると、彼は立ちあがって、刀は持つべきだが、それを抜くべきではない、と言った。そして韓国も中国も、制裁を実施する気は全くなかった。つまり、外交的解決という決まり文句には、パウエルも賛成できるし、強硬派も反対できないかたちでついてきた。 いま重要なのは、ブッシュ大統領にとっての二〇〇七年夏の状況だ。民主党はいま対中貿易を巡って大統領を叩こうとしている。労働組合が面白く思っていないからだ。中国の人権問題でも、大統領にかみつきつつある。イラクの失敗の陰で表に出てない状況だ。

松尾:常に中国との関係を優先させる父ブッシュ以来の対中協調路線を守るためにも、北朝鮮との交渉の加速に切り替えたということか。

シーガル:そのとおりだ。キッシンジャーが、なぜ北朝鮮問題に関して大統領と話をしたいと思ったのか。答えは、彼がニクソン訪中以来深く関わる中国だ。その意味で今度のブッシュ大統領の決定の出発点は、中国との協力路線を維持し、対中政策が危機に陥らないようにするとの選択だ。この決定は、アジアにおける緊張と敵意の増大を回避するためのものだ。その中心にあるのは、五ヵ国が協力して北朝鮮との取り決めを作り出すことだ。 なぜそれが、ブッシュ大統領にとって重要なのか。もし北朝鮮との取り決めができなければ、道は悪化をたどり、日中間のライバル関係を激化させるような方向に日本を駆り立てるだろう。それは、米国の安全保障上の利益にならない。われわれの狙いは、中国を協力的にさせることにある。 そして、いまのところ、この政策は機能している。対中外交はブッシュ外交で唯一成功している外交政策と言ってもいい。それに協力することは、中国にとっても利益になる。なぜなら中国は、経済発展のために、平穏な二〇年間を必要としているからだ。中国は軍事力を背景に周辺諸国に圧力をかけるだろうと論じる人が日本にも米国にもいる。しかし、逆に静かに振る舞い続けるほうが得策だと中国は考えるだろうと見ることも十分可能である。


 安倍訪米、ブッシュは強硬路戦に同調しなかった

松尾:それにしても、ライス─ヒルのコンビが自信を持って行動しているようにみえるが。

シーガル:大統領が、そう決定したからだ。この大統領の仕事ぶりは、常にそうだ。いったん大統領が決定を下すと、誰も話を蒸し返さない。あとになって、「ここに少し問題があるから、大統領の介入が必要です」と言われることを大統領は嫌う。だから、あえてそうする者などいない。今回もそうだ。私は交渉を開始したい、と大統領が言えば、それで決まりだ。 たとえば、安倍首相との会談が典型的な出来事だ。安倍首相は会談後、大統領と北朝鮮の脅威についてあれこれ話した、と語っている。だが、大統領が、「ああ、あなたの言うとおりだ、安倍さん。われわれは強硬になるべきだ」と言ったことは一度もない。発言録をよく読めば分かるが、「北朝鮮に対して強硬になるべきだ」という大統領の言葉は、どこにもない。安倍首相は、大統領に「イエス」と言わせるべく手管を尽くしたが、大統領は決して言わなかった。

松尾:それにしても問題の解決に四ヵ月もかかり、最後は不透明なロシアの銀行経由という銀行制度のルール全体を無視するような特別措置による解決に国内の反発は出ていないのか。

シーガル:米国の政策が根本的に変化したことを理解してもらいたい。これはブッシュ政権だけのことではない。ブッシュ大統領は、いまや交渉を試すことに完全に肩入れしている。極めて意欲的だ。彼は、平壌に行って金正日とキスしようとしているわけではない。そんなことは起きない。だが、彼が交渉路線に乗っていることが、この問題に関する政治全体を変えている。 いまや民主党は、見ろ、ブッシュはクリントンと同じことをやっている、と言っている。共和党の大半は、とにかくブッシュ政策をやり遂げよう、と言っている。そして、共和党の大統領候補の数人を除き、同党候補者の全員が、話し合い路線を支持、交渉を試すと言っている。それにいま政権内には、ネオコン支持グループはチェイニー副大統領を除いて残っていない。イラク戦争のせいで去らざるを得なくなったためだ。ラムズフェルドのあとのゲーツ国防長官だが、彼は話し合い路線を支持している。

松尾:要するに、この対北朝鮮政策の変更は、ニクソンやキッシンジャー、父ブッシュ、ベーカー、スコークロストらに連なる、伝統的な共和党主流の現実主義への復婦ともいえるわけだ。

シーガル:全くそのとおりだ。これは現実主義だ。北朝鮮と戦争はできない。制裁もできない。交渉が効果を発揮するかもしれない、試す価値はある、と。


 拉致にこだわり続ければ米国が日本を責めることに

松尾:つまりは対台湾・対中国政策と同じ路線だ。ここで、あなたに聞いておきたい。いまや日本では、拉致問題に関して極めて強硬な政策を持つ安倍首相が、苦しい立場にある。日本は六ヵ国協議の場で、どう行動すべきだろ うか。

シーガル:七月に入ればIAEA(国際原子力機関)が北朝鮮に入り、プルトニウム計画は事実上閉じられる。ここまでは確かだ。われわれとしては原子炉と再処理施設の無力化という次の段階に向けて、いわゆるすべての核関係リストの提供問題の交渉に入りたい。次回以降の六ヵ国協議では、このリスト問題をめぐって、われわれが要求を出し、彼らが要求を出し、互いに取引することになる。 その際に北朝鮮が態度を変えて、わかった、喜んで無力化しよう、リストも準備しよう、その代わりテロ支援国家リストから外してくれ、と言ったら、われわれはどうするのか。もし、リストに載せ続けると言い張れば、面倒なことになるだろう。二月の合意では、もし北朝鮮側が望み、われわれが同意すれば、彼らをテロ支援国家リストから外す手続きを開始することになっている。 そこで日本への私の助言だが、北朝鮮に対してまず拉致問題を解決すべきだと言い続けることによって、問題の解決を得ることはできないだろう。

松尾:いわゆる圧力を緩和しろ、ということか。

シーガル:日本は、二〇〇二年の日朝平壌宣言の全条項に基づいて北朝鮮と交渉せざるを得なくなるだろう。前回の六ヵ国協議が行き詰まった原因は、日本が拉致問題の解決を言い続け、北朝鮮側も日本に対して、平壌宣言に基づいて動くべきだと言い続けたせいだ。日本が拉致問題が先だと言い続ければ、交渉は全く始まらない。交渉には見返りがつきものだ。われわれはみな、それを理解している。相手には欲しいものがあり、こちらにも欲しいものがある。だったら取引しなければならない。 かつて小泉政権当時の北朝鮮は、小泉氏に対して、日本の同盟国の態度次第では、二国間問題に対処する用意がある、と言い続けていた。要するに、米国がわれわれと話し合いを始めるように仕向けてくれれば、日本の求める問題を解決しよう、ということだったのだ。ところが、いまやブッシュ大統領が彼らと交渉している。つまり、日本との取引条件も、別のものにならざるを得ない。そして彼らは、既にそれを口にしている。二〇〇二年平壌宣言に基づいて話を進めれば、見返りとして拉致問題もどうにかする、と。

松尾:小泉前首相と安倍首相では、対北姿勢が異なる。

シーガル:それ以上に一つの大きな違いは、いまやブッシュ大統領が動いていることだ。これは根本的な違いだ。小泉前首相は、常に取引する用意があると言っていたが、安倍首相の立場は、維持するのが難しいものだと思う。 もし、安倍首相がブッシュ大統領を説得していれば、話は違ったかもしれない。だが、大統領は先に進み、首相は取り残された。明らかに、会談で大統領を説得できなかった。ワシントンでは、みなそう言っている。 それだけではない。ライス国務長官もまた、北朝鮮をテロ支援国家リストから外すことを、事実上、首相に伝えた。ほとんどそれに近いことを口にした。これは首相に対して、北朝鮮との交渉を開始しろ、という警告射撃だった。あなたを困らせたくはないが、もし話が進めば、われわれは取引をするつもりだ。そうなれば、あなたは行き詰まるだろう、というニュアンスを伝えたはずだ。

松尾:この辺の米国との「すれ違い」については私も十分理解し、発言もしているが、ここまで深刻か。

シーガル:とにかく次回の六ヵ国協議で北朝鮮はテロ支援国家リストに集中してくるだろう。なぜか。日本に対して、交渉に応じるよう圧力をかけたいからだ。彼らは日本を困らせたいのではない。日本と交渉をしたいのだ。問題は、日本が交渉をせず、ただ拉致問題を解決しろと言っていることだ。北朝鮮側は非常にしたたかだ。もし日本が拉致問題だけでなく平壌宣言全体に関して交渉を開始しなければ、テロ支援国家リスト問題に集中することによって日本を孤立させようとするだろう。 では、北朝鮮がテロ支援国リストに載っているのはなぜか。米国法によれば理由はただ一つ、航空機ハイジャック犯の日本赤軍メンバーをかくまっていることだ。

松尾:本当にそれだけなのか。

シーガル:法的には、それだけが理由だ。しかも、ハイジャック犯は、もう六十代で、数人しか残っていない。もし平壌が彼らを追い出せば、テロ支援国家に指定する法的な理由はなくなる。拉致問題に関して、確かに米議会は別個に決議を採択した。だがライス国務長官は、それに拘束されない、と答えている。


 よど号乗っ取り犯を強制送還か

松尾:北朝鮮が赤軍メンバーを帰国させるかもしれない、ということか。

シーガル:一九八八年以来の北朝鮮の立場は、彼らをいつでも帰国させる用意がある、というものだ。そして全員が、帰国を切望していることを表明している。そもそも拉致問題は、米国の法律とは無関係だ。下院と上院の決議をブッシュ政権は当初、後押しした。交渉したくなかったからだ。 いまや状況は変わった。それが問題だ。ブッシュ政権は、日本を困らせたくない。彼らは、日本が交渉を開始することを望んでいる。北朝鮮がそれを望んでいるのと同じだ。だが、交渉は実現しなかった。このままいけば、実に厄介なことになりかねない。北朝鮮は日本に対して、平壌宣言を履行するよう警告した。それから、何回かのミサイル実験で脅しをかけた。平壌宣言には、ミサイル実験の一時凍結が盛り込まれている。日本が宣言の履行に応じなければ、実験凍結も消滅する、という意味だ。 思うに、もし日本が動かなければ、八月か九月ごろ、北朝鮮の画策によって日本は六ヵ国協議で孤立し、さらに北朝鮮はミサイル実験を行うかもしれない。七月前には行わないだろう。日本で選挙があるのを知っているからだ。

松尾:ミサイル実験があれば、米国も黙っていないのでは。

シーガル:もし核弾頭を積んでいないのなら、米国にとってさほど気にならない。それより米国にとって、いま最も重要なのは、プルトニウム問題に早く結論を出して、ウラン濃縮問題に取り組むことなのだ。 そもそもブッシュ政権が枠組み合意に反対した理由は、それがプルトニウムしか扱わなかったことにある。われわれはウラン濃縮の問題に取り組んでいる、ブッシュ政権がクリントン以上の成果を生み出すためには、先に指摘した核関係リストの提出が、致命的に重要になる。それが手に入らないと、これは日本が北朝鮮との交渉に応じないせいだと、米国が日本を責めることになりかねない。 これは北朝鮮が仕組んだことだ。信じられない手口だ。ヒル代表も頭が痛いと思う。日本と面倒を起こしたくないからだ。だが、そうなりかねないと思う。


(翻訳・山口瑞彦)


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Leon V. Sigal米国生まれ。エール大学卒業、ハーバード大学で博士号取得。米国務省政治・軍事局勤務、『ニューヨーク・タイムズ』論説委員などを経て現職。著書に1994年の米朝枠組み同意の背景をまとめた“Disarming Strangers:Nuclear Diplomacy with North Korea”など。

© Fumio Matsuo 2012