ー 「受け皿」のないイラク戦争収拾の苦難 ー
過去3年間、ブッシュ共和党政権がイラク戦争を強行するのを許してきた「アメリカという国」全体が大きな試練に直面している。 11月の中間選挙で、アメリカ国民がはっきり「ノー」の審判を下したイラク戦争の「内戦化」をどう打開し、14万人のアメリカ軍撤退への「出口」をどうみつけるのか―という重い課題をつきつけられているからである。 「9.11」同時テロのショックの中で、議会も世論も最初はその多数が支持したイラクに対する武力行使によって、開けてしまった「パンドラの箱」のフタをどう閉じるかという苦難にさらされているからである。 この「出口」について、いま何一つ展望は生まれていない。確かに中間選挙の結果を受けて、ブッシュ大統領の動きは、それなりに素早 かった。投票日の一週間前までは抵抗してきたラムズヘルド国防長官の更迭に踏み切り、アメリカ国民に対し、イラクで民主主義が根付くまでアメリカ軍がとどまるという困難な任務への理解と忍耐を求め続けてきた、これまでの路線を軌道修正し、「新しいコース」を目指す意向を示した。12月6日には、父大統領以来のブッシュ・ファミリーのよろず指南番を続けるベーカー元国務長官と34年間下院議員を務めたハミルトン元下院外交委員長の二人を共同委員長とする超党派の『イラク研究グループ』(ISG)が発表した、79項目にわたるイラク政策の全面的な手厳しい見直し提案を盛り込んだ報告書に対し、『真剣な検討』を約し、一度は、統合参謀本部やイラク軍部、さらにはホワイトハウス内部からの勧告も折り込み、イラク戦争の『新しいコース』についての全国民向け演説を、クリスマス前にも行うと発表した。 しかし、15日になって、このブッシュ演説は年明けに持ち越される、と訂正された。 この理由は、民主党の支持も得て上院の承認を受け、18日に就任するゲーツ新国防長官との協議の時間をとるためと説明されている。 しかし、これまでブッシュ大統領が乗ってきた政権内外のチェイニー副大統領以下のネオコン・グループがISG報告書を「完全な敗北のシナリオ」と決めつけ、猛反発していることでもあり、政権内部の不協和音の調整に時間がかかっているともみられている。
ー 出発点としてのISG報告書 ー
まさしく、ハリの蓆の上のブッシュ政権である。 こうした状況をかつてのベトナム戦争のドロ沼化と比べる論も多い。 しかし、31年前、1974年4月30日の旧サイゴン(現ホーチミン・シティ)陥落までの3年間を、共同通信特派員としてインドシナ各地で取材、アメリカ軍が「名誉ある撤退」のためにグエン・バン・チュー親米政権を見捨てるまでの「出口」戦略のプロセスをつぶさにみている私としては、ベトナムと似ているようで似ていないイラク戦争の実像をきちんととらえておくべきだと思う。 そこには、ベトナム戦争のときのような「出口」さえ見つけられない「一人勝ち」アメリカの悲劇がある。今回はこのことを報告しておきたい。 まずそのためには、新年のブッシュ演説がどのような見直しを示すにせよ、ベーカー、ハミルトンのみならず共和、民主両党から5人ずつ計10人のメンバーが元最高裁判事や閣僚、大統領補佐官といった平均年齢70歳を超える大立者を網羅していることもあって、アメリカのイラク戦争からの『出口』戦略からの出発点となったことは間違いないISGの報告書の実像を捉えておかねばならない。 その「前進のための新しいアプローチ」と題した142ページの報告書は、冒頭からこれまでブッシュ政権が展開してきたイラク政策について、3千人近いアメリカ兵の戦死者を出し、2兆ドルを越す支出を余儀なくされながらも、失敗しつつある、と厳しく決め付けている。驚くほど悲観的な分析からスタートしている。そのうえで、三つの大きな勧告をしている。
1) 2008年第一四半期までに大部分の戦闘部隊を撤退させるためにイラク軍、警察の双方の『イラク人化』のために米軍顧問団を増強し、その内部に中隊レベルまで「埋め」込む。2) イラン、シリアとも直接交渉し、イラクに対する国連を含む広範囲な国際的な支援グループに加え、イラク国内情勢を安定化し、イラク政府の正統性を確認する枠組みをつくる。3) イスラエルとパレスチナ、シリア、レバノンとの包括的な和平の促進など新たな外交攻勢を始動させる。
このISG報告書は、発表と同時にペーパーバックでニューヨークの出版社から発売され、たちまち「アマゾン」の売れ行き上位入り、増刷を重ねている。ベーカー、ハミルトンの両委員長は、上下両院の各委員会での12以上の公聴会で証言を求められており、テレビのトーク・ショー出演でも引っ張りだこだ。 来年1月の新議会からは12年ぶりに上下両院の多数派として三権の一つを手中に収める予定の民主党も、ISGに参画していることもあって、当面は、この間までISGメンバーだったゲーツ新国防長官支持に象徴されるように、ブッシュ大統領の「新しいコース」の手並みを見守る構えだ。
ー ベトナムと似ているところ ー
しかし、私が重要だと思うのは、超党派のISG報告書の底流に流れる内向きのエゴイズムである。それは、私が30数年前、ベトナム戦争の収拾期に目撃したものと同根だと思えるからである。つまり、ここではイラク戦争が、ベトナム戦争と似てきている部分である。 その証拠を示そう。ISG報告書は、これまでアメリカ国内でタカ派、ハト派の双方から出ている三つのオプションに「ノー」の答えを出している。まずネオコン・グループ、そして事実上、共和党次期大統領候補指名争いに名乗りを上げているマケーン上院議員が要求している首都バグダッドの治安回復のためのアメリカ軍の一時的な増兵案を、アメリカ軍全体の兵力不足とイラク国民の政治的和解達成に逆効果であるとの理由で拒否している(ネオコンの機関誌、ザ・ウイークリー・スタンダートは、最初、5万のアメリカ軍増派を主張、その後3万でもよいとしている。マケーン議員は最初2万、最近では、10万の一時増派案も主張している)。 逆に民主党のリベラル派が主張する即時撤退論も、「ことを始めた」アメリカが、急に「引く」のは無責任であり、イラク国内の宗派間対立の激化を招き、やがてアメリカ軍が帰ってこなければならなくなる―と拒んだ。そしてバイデン次期上院外交委員長が主張するクルド、シーア、スンニ三派への分割構想も、境界線の設置が不可能で、隣国の介入を招き、中東全体の混乱を生む―と退けた。 要するに、アメリカが改めて責任をとり、面子を失うような事態を回避し、ひたすら「イラク人化」と政治的・外交的な努力のなかで「出口」を確保しようという路線である。つまり、ネオコン・グループの、イラクを手始めにやがては中東全域に民主主義の「ビーコン」を灯し、テロの土壌を払拭することがアメリカの責任であり、義務である―との強烈な使命感を伴ったイデオロギー路線とは、180度異なる現実主義の処方箋である。 30数年前、私がまさにインドシナの地で見たのが、この使命感イデオロギーが現実主義に敗れ、とってかわられるプロセスであった。それは見事なまでのアメリカの変身であった。 1973年3月29日、私は当時の南ベトナムの首都サイゴン(現在はベトナム社会主義共和国ホーチミン・シティ)近郊のタンソニュット空港で行われたアメリカ軍撤退式、後にアメリカが、グエン・バン・チュー親米政権を「ベトナム人化計画」の名の下に捨て始めた瞬間として記録される行事を取材した。最後のアメリカ軍援助軍司令官、ウェイアンド大将は、南ベトナム政府高官や軍指導者に対して、ベトナム語で「アメリカの任務完了と名誉ある平和維持への期待」を力説した。しかし、南ベトナム側からは控えめな拍手。逆に、アメリカ撤退の点検に当たる北ベトナム側が愛嬌をふりまき、輸送機に乗り込む最後のアメリカ兵には、ホーチ・ミン大統領の絵葉書と竹のすだれ細工が贈られた。 このアメリカ軍撤退式は、その年の一月、チュー大統領の大抵抗にもかかわらず、キッシンジャー国務長官の強引な交渉の結果、アメリカと北ベトナムとの間で調印されたパリ和平協定という名の取引の一部であった。3日後には、現在のマケーン上院議員を含むアメリカ軍捕虜400人のハノイからの帰国が完了する。停戦、アメリカ軍撤退、相互の捕虜釈放―というプロセスが「ベトナム人化計画」の成功の名のもとでの「名誉ある撤退」として演出された一幕だった。
ー 「ベトナム人化計画」という切り捨て ー
「ベトナム人化計画」とは、1968年の大統領選挙で、ケネディ―ジョンソンと続いた民主党政権がベトナム戦争エスカレーションのドロ沼に入り込み、自滅する中で、「法と秩序」のスローガンだけでホワイトハウス入りを果たしたニクソン大統領が「声なき声の多数派」と自ら名づけた支持層の内向きのエゴイズムに迎合する外交戦略、ニクソン・ドクトリンの一部として打ち出された。 民主党政権から引き継いだ「勝ち目のないベトナム戦争」の現実に対して、「北ベトナムからの侵略ははね返した。南ベトナムに対する約束は充分守った。アメリカ兵の血は十分流れた。これ以上流さない。あとは自らを守れるようになった南ベトナム政府軍にバトンを渡せばいい。決して負けて帰るのではない」との論理で組み立てられた。 ニクソンは、まず毛沢東との握手による米中和解の達成という大芝居で、大きな舞台を整えたうえで、「南ベトナム政府軍の立場を強くし、その不安を取り除くために」との理由で、北ベトナムへの爆撃強化、ラオス、カンボジアへの進攻といった実質的な戦火拡大を躊躇なく行った。アメリカ軍のベトナム戦争戦死者の半数近くを占める2万7623人の血が、ニクソン政権下になってからの「ベトナム人化計画」のもとで流された。国内政治的に、反戦運動を封じ込め、ウォーターゲート事件の影の中で自らの再選を確実にするためにも、このベトナムからの「名誉ある撤退」という「出口」の確保が至上命令だったからである。 従って、アメリカ軍の撤退完了後、アメリカ議会はインドシナでのアメリカ軍活動費の支出禁止、南ベトナム政府への援助に10億ドルの上限設定―とアメリカ軍の行動や南ベトナム政府軍の支援、すなわち 『ベトナム人化計画』に足かせをはめる決議を次々と可決、大統領の拒否権まで覆す。1974年8月9日、ウォーターゲート事件で大統領辞任に追い込まれたニクソンが、最後に署名した法案の一つがこの10億ドル上限法であった。しかし、その10億ドルも、ニクソン辞任後には、7億ドルに削られた。ニクソンが秘密のうちに続けていたカンボジア領内のホーチミン・ルートに対するB52の爆撃も議会決議で打ち切られる。 こうして1975年新春、南ベトナムへの浸透を十分に果たした北ベトナム軍の一方的な制圧作戦が始まり、「ベトナム人化」した親米政権軍は、あっという間に崩壊、古都フエ、ダチン、そしてサイゴンと将棋倒しのように陥落、アメリカ大使館屋上からのアメリカ軍救出ヘリに群がる脱出ベトナム人の惨状をテレビ映像が全世界に伝えた。いま、やはり記憶しておかねばならないのは、ベトナム戦争の「出口」戦略で、「ベトナム人化計画」の名分のもとで、結果として親米政権を見捨て、北ベトナムによる南ベトナムの吸収というプロセスを受け入れたという事実である。
ー ベトナム戦争と絶対的に違うところ ー
ISG報告書が、その勧告『21』で、イラクのマリキ政権に厳しく注文をつけ、「イラク政府が民族和解、治安、統治の維持などの目標達成に具体的な進展を示さない場合には、アメリカはイラク政府に対するその政治的、軍事的、経済的な支援を減らすべきである」と明言している。タラバニ大統領をはじめとするイラクの政府首脳がこれに激しく反発しているのは周知の事実である。73年のパリ和平協定締結以来、キッシンジャー国務長官と南ベトナムのチュー大統領との間で、サイゴン陥落まで続いた激しいさや当てを知る私としては、「イラク人化計画」によるISG報告書の「出口」戦略のもとで、また同じパターンが始まったのかと、歴史のアイロニーをかみしめざるを得ない。 しかし、ここで、ベトナム戦争とイラク戦争とでは決定的に違う条件がある。かつてのケネディ―ジョンソン政権が ベトナムで苦しんだ足かせ、つまり東側共産主義諸国とは核の共存体制は維持しながら、ソ連や中国による後方支援を受けた北ベトナム軍と、ジャングルでのゲリラ戦争を戦わねばならなかった条件はどこにもないという事実である。 東西冷戦が過去のものとなり、アメリカが一人勝ちしたなかでのイラク戦争であるという現実である。あの時、「民族解放」の名分のもとで、アメリカが親米政権を見捨てた南ベトナムを、そのまま丸ごと引き受けてくれた北ベトナムのような「受け皿」はいまイラクにはない。逆に言えば、サダム・フセイン政権を追放したあとの「受け皿」を自らの手でつくりあげ得ないまま、アメリカ軍の「名誉ある撤退」を実現しなければならないところまで追い詰められているのが現状のアメリカといっていい。 「イラク人化計画」によって、「ベトナム人化計画」で成功したのと同じ「出口」戦略を描くこと自体、不可能だということである。 「9.11」同時テロ自体、アメリカの一人勝ち状況へのイスラム・テロリストの挑戦であった。しかし、同時に「9.11」ショックの中で、その報復として、ブッシュ政権がイラク戦争を強行することが出来たのも、結局はアメリカ一人勝ち状況のおかげだった。日本はもとより、欧州もロシアも中国も、イスラム諸国も建て前では誰もテロとの戦いには反対していない。 このイラク戦争とベトナム戦争との構造的な違いが、そのままアメリカのイラクからの「出口」戦略を袋小路に追い込んでいるというわけである。イラク軍に顧問として配属されるアメリカ軍将校の間では、そもそもイラクという国家意識よりも、シーア派、スンニ派といった宗派意識が先に来ているのではとの根源的な悩みがあるという。撤退を実現するために、現在約4000人の顧問団を約10000人に増やそうとしているアメリカ軍幹部が、イラク軍のなかで米軍顧問自らの安全をどうして守るのかという課題とともに、いま直面しているのが、この「イラク人化計画」そのものの土台の欠如だという。 こうした現実を理解しておかねばならない。 ISG報告書の冒頭にある 『共同委員長からの書簡』が、いきなり「魔術のような解決策はどこにもない」との一行で始まるゆえんである。超党派のISG報告書そのものがそのジレンマの象徴でもある。 アメリカ一人勝ちをめぐるアイロニーの、終わりのないサイクルを知ってか知らずか、ブッシュ大統領はISG報告書の発表前、「われわれは決して優雅な出口など求めない」と述べた。しかし、いま「アメリカという国」全体にとって、優雅であると否かを問わず、「出口」を見つけること自体、容易ではない。(2006年12月15日記)