2007_01_「日米の『すれ違い』凝縮 1万3600人の遺骨 今も眠る──脚光浴びる硫黄島」(共同通信配信・福井新聞ほか)

(共同通信配信・福井新聞ほか)

日米の『すれ違い』凝縮

1万3600人の遺骨 今も眠る

脚光浴びる硫黄島

松尾文夫

 映画「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」二部作で話題になった硫黄島戦。今も戦争の傷跡が残る同島を昨年十二月に訪れたジャーナリスト松尾文夫氏に、戦争の記憶に見る日米関係の姿について寄稿してもらった。

 六十一年前、疎開先の福井市でB29爆撃機百二十七機の「夜間無差別焼夷弾爆撃」を生き延びたところで私の中から消えていたあの戦争が、硫黄島ではまだ目の前にあった。

 私が長い海外特派員生活のおかげで会員となっている日本外国特派員協会が、クリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作の公開にちなんで企画した「硫黄島スタディーツアー」十五人のクジに当たり、航空自衛隊のC−1輸送機で、島に降り立った。まず案内された海上自衛隊の資料室の床に、赤くさびついた丸い鉄製の筒があった。

 アメリカ兵が肩にかついでいた火焔放射器用の燃焼剤を入れたタンクだった。「ほんの十日前に見つかったばかりです。この種の残骸はまだまだ出てきます」とのことだった。

 洞窟で持久戦

 一九四五年二月、海と空からの猛烈な砲弾爆撃のあと、海兵隊七万人を上陸させたアメリカ軍を迎え撃った日本軍約二万人の司令官、栗林忠道中将は、大本営の作戦指導を現地で修正し、総延長十八á`にわたる地下洞窟陣地と二段備えの複郭陣地を構築、約一カ月半の持久戦に持ち込む。

 最初、五日間での占領をもくろんでいたアメリカ軍側の損害は大きく、防衛研究所の資料によると死傷者総数では、アメリカ軍二万八千六百八十六人(うち戦死者六千八百二十一人)に対し、日本軍は二万九百三十三人(うち戦死着一万九千九百人)と、アメリカ側の犠牲が上回る、第二次世界大戦全体で他に例のないケースとなった。

 この苦戦したアメリカ側で最後に多用されたのが火焔放射器で、まさに目の前にあるのと同じ燃焼剤タンクを背負ったアメリカ兵が、日本兵のひそむ地下陣地一つ一つに灼熱の焔を撃ち込み、爆破し、ブルドーザーで陣地を埋めつくす「土木工事」のような作戦がアメリカ軍勝利の決め手となった。

 従っていま硫黄島には、まだなんと一万三千六百人もの遺骨が未回収のまま残る。年四回の回収事業は、埋め尽くされた陣地を掘り起こす作業のため、遅々として進まない。ちなみに、いまも何カ所かで硫黄が噴き出す島に生い茂るネムの木は、アメリカ軍が占領後、死臭を消すため空からまいたタネが根付いたものだという。

 知米派が指揮

 残酷な話といえば、戦闘の指揮を執ったのが、当時の陸軍では数少ない知米派だったことだ。エリートコースである陸軍大学を二番で卒業した栗林司令宮は、一九二八年から二年間、アメリカに駐在し、ワシントンはじめ各地を自ら車を運転して回っていた。

 そのアメリカ経験が、追い詰められた日本の領土内での最初の地上戦闘となった硫黄島で、最後まで「バンザイ攻撃」による玉砕を許さなかったクールな指揮にあらわれていたのだろうか。アメリカの黒船によって近代化の歩みを始めながら、結局は戦争という最大の「すれ違い」を演じてしまった、明治以降の日本とアメリカとの関係を凝縮するアイロニーである。

 この島の戦いではもう一人、アメリカを知るエリート将校が戦死している。一九三二年ロサンゼルス五輪馬術大障害金メダリストの西竹一戦車連隊長である。

 アメリカ兵が星条旗をかかげたので有名な摺鉢山頂上の慰霊広場では、防衛大学校学生の一団がアメリカ軍上陸の南海岸を見下ろしながら、研修を受けていた。彼らの世代での「すれ違い」を許してはならない─。美しい夕陽を浴びる島影をあとにしながら、日本が戦い、敗れた「アメリカという国」と、日本との関係について、いつまでも考え込んだ。

© Fumio Matsuo 2012