2004_08_「アメリカという国」を考える(その二十) ──レーガン時代の安定感──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」(二〇〇四年八月号)

 

「アメリカという国」を考える(その二十)

 ──レーガン時代の安定感──

 

松尾文夫(ジャーナリスト)

 

 

 ニューヨークから前号の原稿を送稿した直後の六月四日午後、第四十代アメリ力大統領、ロナルド・ウィルソン・レーガン死去のニュースが流れた。そのあと国葬が終わるまでの一週間、アメリカ全土をおおった追悼ムードはなんともすさまじいものだった。

 とりわけテレビのカバーがすごかった。CNN,FOXニュースといったニュース専門局を中心に各局は、故大統領が一九八九年一月に二期の任期を終えた直後から、ナンシー夫人とともにつくり始め、毎年元側近たちが二度集まって練り上げたという国葬行事、つまりレーガンのお棺がナンシー未亡人とともに、カリフォルニア州からワシントンへ、またカリフォルニアへと、アメリカ大陸を往復し、最後はカリフォルニアの美しい落日に合わせて埋葬されるまでの一大パノラマ・ショーをほぼ生中継で伝えた。レーガンは最後まで「映像の時代の大統領」であった。

 

 故レーガンと三度の握手

 

 私はこの大統領には特別の思いがある。八〇年初頭のレーガン政権第一期を共同通信のワシントン支局長として取材した時代、三回も握手したからである。一回はサミット前の参加国代表記者との大統領執務室での共同記者会見に、日本代表として参加した時。あと二回はホワイトハウスでのクリスマスパーティーの一つに家内ともども招待された時と、カリフォルニア州パーム・スプリングスでの年末の同行記者団とのパーティーの席である。

 毎朝九時丁度、当時はホワイトハウス内の小さな報道官室内で開かれたスピークス報道官のブリーフィングに一日も欠かさずに出席しているうちに自然に転がり込んで来た幸運だった。私がワシントン離任の時には、大統領サイン入りの私との握手の写真をプレゼントされた。この三回の握手で一番印象に残っているのは、こぼれるような大きな笑顔の奥で、スキのない青い目が光り、決して笑ってはいなかった、という経験である。今回書いておこうと思うのはこのことである。

 追悼番組で、繰り返し流されたのが、レーガンが八七年六月十日、ベルリンのブランデンブルグ門の壁の前で行った『もし貴方が平和を求めるなら、ソ連と東欧諸国の繁栄を求めるなら、自由化を求めるなら、ここに来てこの門を開きなさい。この壁をこわしなさい』とゴルバチョフに呼び掛ける演説である。その二年五ヵ月後、ベルリンの壁は本当に崩壊、アメリカが東西冷戦に勝利し、現在の一人勝ち状況が生まれた。そしていまその旧ソ連共産党最後の書記長、ゴルバチョフがレーガン国葬にわざわざモスクワからやって来る──この「強いアメリ力再興」のサクセス・ストーリーへの追憶が、アメリカ国民の心を心地よくくすぐるのを肌で感じた。

 そして同時に、いまその一人勝ち故にブッシュ政権が始めることが可能であったイラク戦争の「出口」が一向に見えない不安定な状況もまた、このサクセス・ストーリーとの対比でいやというほどアメリカ国民の目に焼き付くことになった。このアイロニーをきちんととらえておくことが大切だと思われる。今年の大統領選挙の結果を左右しかねないポイントである。

 

 

 武力行使には慎重

 

 とにかくブッシュ政権やネオコンがイラク戦争開始時にお手本とし、その「栄光の死」を選挙戦の「追い風」として利用したいと願っているレーガン時代は、いまふかんすると、落ち着き、安定したものだった。

 確かにことばのうえでは、旧ソ連を「悪の帝国」と決めつけた。そして欧州指導者の反対を押し切って、モスクワを射程内におく中距離弾道弾ミサイルの配備に踏み切った。ニクソンとともに七〇年代の米中・米ソのデタントを構築したヘンリー・キッシンジャーは、「レーガンは、第二次世界大戦後長く続いていた米ソ間の核の均衡に挑戦し、攻勢に出た初めての大統領だった」と述懐している。

 しかし、レーガン葬儀に出席したサッチャー元英首相が「一つの戦火も交えることなく東西冷戦に勝利をおさめてしまった」と弔辞で述べたように、実際の行動はことばとは裏腹に慎重で、現実的だった。八三年、レバノンをめぐる紛争で、ベトナム戦争後初めて米海兵隊を派遣したときも、宿舎へのテロ攻撃で海兵隊二百四十一人が死亡すると、その五ヵ月後には、完全撤退させてしまう逃げ足の早さをみせた。同時にカリブ海の極小国グレナダでの左翼政権登場に対しては、あっという間に武力介入し、米兵の戦死者を十八人にとどめて、「強いアメリカ」の快感を国民に満喫させることも忘れなかった。

 八四年の再選をめざす選挙演説で「私が政権を担当して以来、共産主義者の手に落ちた国は一つもない。同時にいま米国はどこにも出動していない」と大見得を切っているうちに、ソ連からグロムイコ外相がわざわざホワイトハウスにやって来て、レーガン再選を暗に支持、「対ソ軍事抑止力強化によるソ連との交渉」というレーガン路線の土俵に乗ることを意思表示した。いま考えれば、東西冷戦終結の序章であった。

 いま「解放」のためにイラクに出掛けた米軍が一向に「歓迎」されず、撤退のメドも立っていない「ブッシュの戦争」との対比はあまりにも明らかである。「泣き虫」顔の暗いイメージで綱渡りのブッシュ再選戦略に、なかなか攻め込めなかったケリー民主党候補に、明るく、演説がうまいことだけは間違いないエドワード副大統領候補が決まった。ブッシュ大 統領にとっての正念場がやって来た。

(二〇〇四年七月八日記)

 

(編集部注) 本連載の執筆者、松尾文夫氏が三月に小学館から出版された著書、『銃を持つ民主主義─「アメリカという国」のなりたち─』が、第五十二回日本エッセイスト・クラブ賞に選ばれ、七月九日に授賞式が日本記者クラブで行われた。

© Fumio Matsuo 2012