『文芸春秋 1994/08』
クリントンという大統領
松尾文夫
日本で見ていると、ビル・クリントンという米国大統領は、大変頼りなげである。ホワイトウォーター事件には、頼みの綱のヒラリー夫人も巻き込まれ、セックススキャンダル疑惑もこれでもか、これでもかと飛び出す。
場当たり的な外交姿勢は、政権担当一年を過ぎても一向に直らない。特に、対中国外交や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核問題をめぐるクリントン外交のふらつきは、日本にとって人ごとではない。日本の安全保障に直接跳ね返りがあるという意味で、経済摩擦以上に深刻な問題だからである。
連休前、こんな気持ちを抱えながらニューヨーク、ワシントンに出張してみると、自らの党派や立場に拘らず、多くの米国の友人たちが、クリントン大統領にまんざらでもない評価を与えていた。この東京との落差が心に残り、それがまた心配のタネとなった。
ブッシュ前政権の高官は、「確かにクリントンには世界の指導者としての威厳などはないだろう。米国内でも決して尊敬されてはいない。しかし、同時に結構やり手の大統領として通用している面もある。外交面や私生活でよほどのヘマをやらないかぎり、九六年の大統領選挙で再選される可能性が強い」と、言い切った。
この前高官によると、今、米国民は、クリントン外交の不手際をほとんど気にとめていないのだという。国民の関心は、冷戦時代にがたがたになってしまった国民生活の建て直しの方に向いており、クリントン大統領が、大統領選挙戦以来貫いている内政重視政策は、彼らの本音の部分を押さえているのだという。
確かに、誰と会っても「世界の警察官」といったかつての意気込みは伝わってこない。私は、ケネディが当選した一九六〇年の大統領選挙を東京で駆け出しの外信部員として担当して以来、通算十年余りのニューヨーク、ワシントン特派員勤務を含めて、米国をウォッチし続けているが、これだけ内向きになったホワイトハウスは記憶にない。
従って、日本が、今米国の出方に一喜一憂する貿易戦争も、クリントン大統領にとっては、結局は内政操作のこまの一つにすぎないという現実を肝に銘じておかねばならない。国内に強い孤立主義をかかえていたルーズベルト大統領を相手に「真珠湾攻撃」という悪手に追い込まれてしまった太平洋戦争前の日米交渉の教訓を、今こそ思い出しておく必要がある。
ホワイトウォーター事件は、ウォーターゲート事件でのニクソンの失敗に学んで、いち早くもみ消し路線を修正したため、何とか乗り切るだろう、との見方が多数だった。景気の回復が従来にない経済活動全体のリストラマインドに支えられて手堅く進行しており、連邦赤字削減の方向が出てきたこともプラスの実績だという。健保改革の行き詰りも決定的なマイナス
にはならないだろう、とのことだった。
意外な思いがしたのは、ワシントンの旧友たちが口をそろえて、クリントン大統領はテレビに強いのだ、と言ったことである。大向こうをうならせる大演説や絶妙なアドリブではレーガンに及ばないが、一般市民からの質問に大統領が直接ソフトな話し口で答えるタウン・ミーティングを、ケーブルテレビの地方中継ネットに載せる新手のテレビ作戦が成功しているという。支持率が落ち込みそうで落ちない大きな理由だ、という。
ど田舎のアーカンソー州出身を逆手に取った草の根イメージの巧みな演出であり、ほぼ毎週末に全国各地に飛んで、このタウン・ミーティングを連発している。就任後地方に出かけた回数は、歴代大統領中群を抜いて多いという。
要するに、「大統領の仕事を選挙戦の延長のつもりでやっている」わけで、六〇年代からの民主党の旧友は「クリントンは全部自分で決める。今ホワイトハウス内で、直接大統領にレポートする人間だけで十五人近くいる。若いから寝なくても平気だし、ジーンズ姿でピザをかじりながら徹夜で会議をやる」とそのモーレツホワイトハウスの内幕を語ってくれた。
ニューヨークに着いた翌日、ニクソンが倒れた。クリントン大統領は、二大政党制の伝統と常識を無視する、なりふり構わない政治作風という点で、ニクソンと似ているのではないか──そんなことを考えながらワシントンからロンドンに回ると、ニクソン死去のニュースが待っていた。私は、最初のワシントン勤務の時、ニクソンがホワイトハウス入りを果たした一九六八年の大統領選挙戦を現場で取材する幸運に恵まれた。そして、ケネディが始め、ジョンソンが拡大したベトナム戦争に疲れ果てた白人中産階級を、「南部戦略」で民主党から奪い取り、「多数派としての共和党」時代の基礎を作り上げるのを追い続けた。このニクソンが生みだした米国政治の新しい枠組みは、ウォーターゲート事件での彼自身の失脚にも拘らず、カーターの四年間を除いてブッシュまで二十年間も続いた。
米国の利益第一のニクソン内政の延長で、米中和解という歴史的な国際政治の分水嶺が生み落とされ、日本は、残念にも「ニクソン・ショック」として慌てふためくことになる。当時から日本の指導層の間では、ケネディ人気が強く、ニクソンはおおむね馬鹿にされていた。
一九六九年春、パロアルトのスタンフォード大学で会ったデービッド・リースマン教授が「ニクソンは第一級のオポチュニストだから、いい大統領になるだろう」と、大胆な予言をされていたことなどを思い出しながら、東京に戻ってくると、わが家のCNNがニクソンの盛大な葬儀を伝えていた。クリントン大統領が「あなたはその人生を決してあきらめなかった」と最大級の敬意を込めた弔辞を読み上げていた。
クリントン大統領もまた、「第一級のオポチュニスト」ではないのか。「クリントン・ショック」にまた振り回されることだけは、避けねばならない。ニクソンと同じように打たれ強く、したたかなクリントンの米国内での顔をよく知っておかねばならない。