渋沢青淵記念財団竜門社
機関誌「青淵」連載(二〇〇二年十一月号より開始)
「アメリカという国」を考える(その一)
松尾文夫(ジャーナリスト)
日本にとって、アメリカという国は、まだまだ「知っているようで知らない国」なのではないのか─アメリカを追うジャーナリストに復帰したばかりの私が、ブッシュ政権のイラク攻撃準備が伝えられるなかで、いま思いつめているテーマである。
NHKの毎日のニュースで、「米大リーグ情報」と銘打ってイチロー以下の日本人プロ野球選手の活躍が報じられるようになって久しい。
政治、経済、軍事、社会、文化、そしてスポーツと、どこを見ても顔を出してくるのがアメリカとの関係である。日本人が自ら意識すると否とにかかわらず、アメリカは、日本の日々の生活の隅々まで影を落とし、それを拡大させつつある。米東部との時差が十四時間(夏時間では十三時間)もある距離でへだてられ、歴史も文化も大きく異なる二つの国が、これだけ濃密な関係を持っている二国間関係は、世界の歴史でも初めてといってもいいのではないか。
B29へのこだわり
しかし、そのことと、日本人がアメリカという国の正体をきちんととらえていることとは別なのではないのか。正直にいえば、正確にとらえているとはいいがたいのではないか。逆に、日本とアメリカの関係は、表面的な親密さとは裏腹に、その深層に「すれ違い」といってもいい状況がたい積しているのではないか。
アメリカの黒船来航によって開国と近代化のきっかけをつかみながら、アメリカにはほとんど学ばなかった明治。そのアメリカと戦争を始め、敗れ、占領された昭和。マッカーサー占領を通じて、平和憲法をはじめ戦後の経済立国成功のインフラづくりにかかわったはずのアメリカから、いまなぜか「改革」を強く求められている平成。─この「すれ違い」は昔も今も日米関係の素顔なのではないか。
昭和八年生まれ、国民学校六年生で敗戦を迎え、その一カ月前には福井市でB29の爆撃を受け、九死に一生を得た原体験を持つ私が、アメリカ特派員を長くつとめたジャーナリストとしての自らの仕事への反省を含めて、こだわり続けている問いである。
必読の『太平洋にかける橋』
そんな折、元DKBの友人を通じて『青淵』に寄稿してみないか、とのお話があった。『青淵』が近代日本のいわば「建国の父」の一人、渋沢栄一氏ゆかりの雑誌であると説明されて、即座によみがえって来たのが、二十一年前、渋沢雅英著『太平洋にかける橋』(読売新聞社刊、一九八〇年)を精読したあとの強烈な読後感であった。
『太平洋にかける橋』は、渋沢家当主雅英氏の労作である。曾祖父にあたる栄一氏が日本の国際的地位を高めるために「あらゆる機会をとらえて海外に知己をつくる」との信念のもと、明治初期から九十二歳の長寿をまっとうされる昭和六年まで、「キマジメともとれる持ち前の誠実さ」で推進された国民外交、特に対米民間外交の軌跡を、血を受けた者の愛情と学者としてのクールな目でまとめた壮大な叙事詩のような作品である。渋沢研究者にとっては、いまだに必読の書であるのみならず、対米関係史としても生の証言記録として大きな価値を持つものである。
「すれ違い」の原点
しかし、当時、共同通信ワシントン支局長として二度目のワシントン勤務につく直前であった私にとって、読後一番心に残ったのは、この栄一氏の対米民間外交の努力が一九二四年五月のアメリカでの排日移民法成立によって裏切られ、これをきっかけに日米関係が戦争という破局への道を歩み始める悲しい挫折への過程であった。私がそのころから意識し始めていた日米「すれ違い」論の一実例として、強く頭に焼き付いた記憶がある。
今回改めて再読してみて、胸にしみるのは、排日移民法可決のニュースに接した八十四歳の栄一氏が「そんなバカな。アメリカという国は建国の当初から正義人道を唱道し、自らその範を全世界に示して来た国ではなかったか」と涙を流した、というくだりである。私には、明治から昭和にかけての日米「すれ違い」の原点をみる思いである。ずばり現在のテーマが浮き彫りにされていると思う。
高齢での「行脚」の旅
それにしても、栄一氏のアメリカ旅行は第一回が明治三十五年(一九〇二)の六十二歳、第二回は同四十二年(一九〇九)の六十九歳、第三回が大正四年(一九一五)の七十五歳、最後の第四回が同十年(一九二一)の八十一歳である。高年齢化の現在でもあまり例がない、まさに決死の「行脚」の旅であったのだと思う。
そして、排日移民法成立という「屈辱」を経験しながらも、なお同米友好の「新しい局面」を目指して、売国の親米主義者との批判もおそれず、下田でのハリス記念碑建立(昭和二年)、グラント将軍植樹記念碑建立(同五年)─とアメリカとの和を求め続ける活動の記録は、感動的である。
私は、力不足を承知のうえで、この偉大な先人の「挫折」を繰り返さないためにもと、寄稿させていただくことにした。次号以降、「アメリカという国」をその「建国」にまでさかのぼってとらえ直してみる仕事に挑戦してみたい。