渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」 時評 (二〇〇六年三月号)
イラク戦争は第二のベトナムか
─その似ているところと違うところ─
ジャーナリスト 松尾文夫
二〇〇六年の新年、世界情勢をふかんすると、やはり一番の焦点はイラク情勢の行方だと思う。特に中間選挙を迎えるアメリカでは、ブッシュ政権が強行したイラク戦争が開戦四年目を迎え、その決定的な総括の年を迎えた。イラク民主化をテロとの戦争の一部と位置付け、その勝利達成を第二次世界大戦での日本やドイツとの戦いにたとえて、「アメリカの義務」だと説くブッシュ・テーゼに対するアメリカ世論の軍配がはっきりするからである。小泉政権のもとで自衛隊のイラク派遣にまで踏み切った日本にとっても、ポスト小泉時代の到来と合わせて、「日米同盟」と「国益」とのぎりぎりのバランス・シートが問われる時が近づいている。
「ブッシュのベトナム」
そこでいま私が提起しておきたいのは、イラク戦争はアメリカにとって、第二のベトナムになるのかならないのか──というアングルである。
「イラクはジョージ・ブッシュのベトナムだ」と決めつける見方は多い。一年半も前からこう言い切っているエドワード・ケネディ上院議員を先頭に、アメリカ国内では、民主党リベラル派を中心に声高にさけばれている。世界各国世論にも幅広く存在する。
確かに似ている点にはこと欠かない。一向におさまらない反政府テロ。イラク政情の不安定、宗派的対立からなかなか見えてこない本格的な民主化の段取り。はかどらないイラク軍の警察の育成。石油生産の劣化。四〇%に近い失業率に示される民生復興の遅延。ふくれ上がるアメリカ兵戦傷者数と財政赤字──と数え上げることが可能である。イラクでのテロ攻撃の責任者とみられるザラカウイは、一九六八年二月、アメリカ世論の反戦ムードを決定づけた旧サイゴンなどでのテト攻勢と同じ効果を「百のミニ・テト攻勢」を積み重ねることで果たそうとしているのだという。
ヒラリーの拒否
しかし、ベトナム戦争との安易なアナロジーは避けねばならない、というのが私の立場である。私は現役時代、一九六〇年末、民主党のジョンソン大統領がベトナム軍事介入の強化に踏み切りながら、黒人暴動とシンクロした国内の強力な反戦運動に直面して自滅する過程をワシントンで、また一九七五年のサイゴン陥落までの三年間、アメリカがベトナム現地の親米政権を見捨てて、「名誉の撤退」をなしとげるドラマをインドシナ現地で、それぞれ特派員として取材する幸運に恵まれた。
この経験からすると、まず現在のアメリカ国内でのイラク反戦運動は、まだまだその規模と盛り上がり方で迫力に欠ける。イラク戦争への国内的な支持率は低下しているものの、民主党自体がまだイラク戦争反対、即時撤退──といったスローガンで一枚岩となっているわけではない。二〇〇〇年の副大統領候補、リーパーマン上院議員は、一〇〇%ブッシュ路線支持の立場を公言している。それに二〇〇八年大統領選挙での民主党候補であるヒラリー・クリントン女史は、テキサスのブッシュ牧場への座り込みで反戦運動のシンボルとなったイラク戦死者の母、シーハンさんや即時撤退論への支持を依然として拒否している。
「名誉ある撤退」という共通項
それに、イラク現地には、かつてジョンソンがベトナムで苦しんだ足枷、すなわち旧ソ連との核共存体制を維持しながら、ソ連や中国による後方支援を受けたベトナム軍のジャングルでのゲリラ戦争を戦わねばならなかった条件はない。東西冷戦にアメリカが一人勝ちした今では、ロシアも中国もイスラム諸国も建て前では、はっきり対テロ戦争には協力している。このベトナムとの構造的な違いは理解しておかねばならない。
したがって、二〇〇四年大統領選挙での再選で成功を収めたブッシュ政権の「中央突破」戦略はまだ生きている。つまりイラク開戦時の情報不備は認めながらも、「フセインがいなくなったことはいいことだ、イラク民主化がアメリカの安全を保障する」と開き直るブッシュ政権が、アメリカ経済の好調、イラクでの三回の投票をこなした民主化手続きの進行といった条件のなかで、必ずしも立往生したとはいい切れない。事実、年頭の演説や一般教書でブッシュ大統領は、さらなる困難や犠牲もあり得ると予防線まではり、民主党の反対を「党派的な動き」と決めつけ、この「中央突破」戦略にかける姿勢を崩していない。
その一方で、イラク国軍の整備、民主政治の定着を理由に、アメリカ軍を削減する準備が始まっている。ブッシュ大統領も一般教書でその方針に言及した。かって「アメリカ兵は立派に役割を果たし、血を流す段階は終わった」との論理で、「ベトナム人化計画」による「名誉ある撤退」を果たしたニクソン・ドクトリンの実績は、間違いなく「学習」されている。
ブッシュ路線の高揚した使命感の裏側にある、この共和党伝統の内向きのエゴイズムを注目しておく必要がある。ベトナム戦争と共通しているのはこのアイロニーだと思う。