2008_12_一九六八年の米大統領選挙(文芸春秋)

一九六八年の米大統領選挙

松尾文夫(ジャーナリスト)

 イラク戦争などテロとの戦いの出口が見えず、大恐慌以来といわれるウォール街の金融危機の中で戦われた今年のアメリカ大統領選挙戦をウオッチしていると、四十年前の一九六八年の大統領選挙の記憶が甦ってきた。

 ベトナム戦争の「勝てない」現実が明らかになる中で、二つの暗殺を含め、激しいドラマとアイロニーに満ち満ちたあの年と同じ分水嶺の空気を感じられるからかもしれない。私は三十五歳の共同通信ワシントン特派員として、この年を取材する幸運に恵まれた。

 ドラマは、まだ雪が残る三月十二日にニューハンプシャー州で行われた全米最初の予備選挙で幕があいた。前年秋、ベトナム戦争反対をスローガンに民主党大統領候補の指名争いに名乗りを上げた無名の上院議員、ユージン・マッカーシーの下に集まったベトナム反戦票が、ケネディ暗殺後の「偉大な社会」政策の成功で再選間違いなしといわれていたジョンソン大統領に、最終総投票数で二百三十票差まで詰め寄った。この明白な「政治的敗北」から十九日後、ジョンソンは北ベトナム爆撃の部分停止と和平会談の受諾と引き換えに、自らの再選出馬辞退を発表する。

 これを待っていたかのように様々な亀裂がアメリカ国内を切り裂いた。四月四日、黒人差別撤廃運動の指導者、マーチン・ルーサー・キング師が暗殺された。すでにベトナム戦費増のあおりを受けた学校給食補助費カットなどへの不満から頻発していた大都市の黒人ゲットーでの暴動が、さらに激しく荒れ狂った。ワシントンでは、ホワイトハウスまで数ブロックに迫った黒人たちに白人ばかりの州兵部隊が強力な催涙弾を撃ち込んだ。近くの商店で略奪が始まるのを見ていた私も目玉が飛び出すような衝撃を受け、かなりの間、視界を失った。

 その一ヶ月後、北ベトナムとの間で始まった和平会談取材のため、出張したパリで、私はこのアメリカでの白人と黒人の間の憎しみの深さをかみしめることになる。

 パリでは、ベトナム和平会談と平行してあの「五月革命」が始まった。私も取材に加わり、ゼネストでメトロも止まった市内をひたすら歩きまわっていたある日、学生デモに警官隊が催涙弾を撃ち込む現場に遭遇した。目にしみこんだ催涙ガスであふれ出る涙をハンカチでふき取りながら、ふと気がついた。一ヶ月前、ワシントンで黒人の群れに発射された催涙弾の強力さにくらべて、白人の学生相手に撃ち込まれるパリのそれは何と軽いことかと。あれから四十年。あの憎しみは克服されているのだろうかと考え込む。

 パリから帰ると、ロバート・ケネディの暗殺が待っていた。次の選挙でのジョンソンからの「禅譲」を期待して、ベトナム戦争への反対を明確にするのを避けていたケネディ弟は、マッカーシー派と激しいリベラル派同士の争いを繰り広げていた。その彼がカリフォルニア州予備選挙で発したイスラエル支持の一言を、アラブ移民の狂気が見逃さなかった。

 ジョンソンの意を受けてハンフリー副大統領が指名されたシカゴでの民主党全国大会では、全国中継のテレビの前で反戦過激派がハンフリー派、警官隊と衝突した。十月のメキシコ五輪では、メダルをとった黒人選手が表彰台上でアメリカ国歌と国旗の栄誉を受けることを拒否した。学生の大学占拠が恒常化し、ブラック・パワー運動、ノー・ブラジャー運動、ポルノ解禁、ゲイ容認など「カウンター・カルチャー」運動がヒッピーの群れと共に登場した。

 皮肉なことに、イラク戦争強行でブッシュ政権八年間の不人気の元凶となったネオコン・グループもこの狂乱の一九六八年を源流とする。「カウンター・カルチャー」運動を容認した民主党リベラル派に反発する集団として活動が始まったからである。

 こうして民主党が自滅していくうちに、八年前、ケネディ兄に惜敗した共和党ニクソンが、ただただ「法と秩序」のスローガンを繰り返すだけで、十一月にホワイトハウス入りを決める。いま俯瞰すると、これはニューディール以来続いていた民主党リベラル派の「大きな政府の政治」の終焉であった。同時に、今度の金融危機を生んだ規制緩和とマーケット第一の「小さな政府の政治」の四十年間のスタートであった。一九六八年と同じく二〇〇八年も「アメリカという国」の分水嶺となるのだろうか。

© Fumio Matsuo 2012