『新聞研究 1987/12』
「コンピューター・ジャーナリズム」試論
株式会社共同通信社 経済通信局総務
松尾文夫
コンピューターを媒介とする新しいコミュニケーション
われわれの仕事のなかに、コンピューター・ジャーナリズムと名付けてもいい新しい分野が生まれつつあるように思う。まだまだ境界線上の部分も多く、正式の認知は不可能かもしれない。しかし、このまま放ってはおけないのではないか──というのが、リアルタイム・インフォメーション・サービスというコンピューターの落とし子のような新しい通信社の仕事を担当している私のいつわりのない気持ちである。
いわゆる外信記者であった私にとって、まったくの新しい分野の仕事だっただげに、無理にジャーナリズムの土俵に引き込もうとしているのではないか、と自省することもあった。しかし、少なくともこうした議論に値する状況が生まれていることだけは間違いないし、ジャーナリズムとはなにかという古くて新しい課題とも深くかかわり合っているのではないか─などと、毎日の現場でこだわり続けているうちに、今夏、東京大学の新聞研究所で、日米パーセプション・ギャップの問題を中心に「比較マスコミ論」の集中講義をした。その際、最終日に、「パーセプション・ギャップが起こり得ないメディア」として、このリアルタイム・インフォメーション・サービスの実態を話したところ、学生諸君の反応は、意外なまでにまともで、大きかった。こんな経過で、この小文をまとめてみる気になった。もちろん、私は大上段から理論化できるほどの材料を持ち合わせているわけではないし、またその任でもない。自らの限られた経験のなかで、問題提起を試みるだけである。
その後、編集部から送られて来た資料をみていたら、『新聞研究』八七年九月号で、東京女子大の塚本三夫教授が「メディア変容のなかのジャーナリズム」と題して、私とは角度は違うものの、このコンピューター時代におけるジャーナリズムの責任の問題をきちんと提起されていることを知った。
塚本教授は、「今後の『ニュー・メディア』の展開如何によっては、あるいは新しいジャーナリズム概念が用意されねばならなくなることもあり得ようが、少なくとも現在のところ、ジャーナリズムと呼べるような『ニュー・メディア』は存在しないと言ってよかろう」─と指摘している。私が取り上げたいのも、まさにこの一点である。つまり、コンピューターを媒体とする新しいメディアに対して、ジャーナリズムという市民権を与えることによって、まさに「新しいジャーナリズム概念」を構築し、途方もないものになり得るその影響力に責任と自覚のタガをはめることがそろそろ必要になって来ているのではないか─というのが私の提言である。
リアルタイム・インフォメーション・サービスの実態
こうした問題意識のきっかけとなったリアルタイム・インフォメーション・サービスの実態を紹介しておこう。リアルタイム・インフォメーション・サービスとは、ひとことでいえば、巨大なコンピューターと高速専用回線で全世界を二十四時間、リアルタイムで結ぶ英語の情報検索システムのことで、サブスクライバー(購読者、あるいは利用者と訳せる)は、キーボードの操作一つで何万ページというファイル情報のなかから自らが求めるものを瞬時にして端末のスクリーンに引き出し、必要なら即座にプリントアウトして記録できる仕組みとなっている。ファイル情報の中身は、外国為替、債券をはじめとする金融市場や株価のさまざまな数値情報とニュースに大別され、両者ともすべて最新の数字や記事でアップデイトされ、リアルタイムで目の前のスクリーン上に刻々流れ、変化する。
このリアルタイムという情報のスピードが身上だが、その秘密は、ニュースの場合を除いて、数値情報などが直接サブスクライバーの手で入力される仕掛けにある。つまり、情報の受け手が送り手でもある、というシステムである。
外国為替を例にとれば、サブスクライバーである銀行が自ら名乗ったうえでドルをいくらで買い、いくらで売るというデータを自らの手で、直接端末のスクリーンに打ち込み、それがホスト・コンピューターを経て一瞬のうちに全世界の端末に伝わる。このコントリビューターと呼ばれる世界各地の何百という銀行からの刻々のレートが通貨別や目的別にいろいろなページに編集され、すべてリアルタイムで提供される。例えば、ポンド、マルク、スイス・フラン、円の四通貨の対ドル相場がまとめられているページの場合、それぞれについて一番新しくレートを入力した銀行名が次々と表示され、一目で外国為替市場の現勢が浮かび上がる。ニュースの側のように、メディア側が全部自分でやる従来型の情報収集方式と比べて、コスト的にも大変な安上がりで、まさにコンピューターならではの一人二役のシステムである。
ニュースの方も、VDTによる執筆、編集、送信、つまりコンピューター編集の技術が最大限に生かされ、一つひとつの記事が見出し部分と本文という二段階方式で直接スクリーンに流される。重大ニュースは、点滅表示とブザーで知らせる装置がついている。新聞の号外、テレビ、ラジオの臨時ニュースやテロップ速報もこのコンピューター速報には勝てない。送稿面でも、重要な記者会見の場合など、まず発言順にコマ切れで記事が流され、あとでまとめが出る、といった具合に徹底したリアルタイム化が図られている。
従って、このリアルタイム・インフォメーション・サービスは、内容的にも、経済情報を中心にスタートし、一九七一年のニクソン・ショック以後の変動相場制への移行、国際金融の自由化のなかで急速に普及、発展し、いまでは、世界経済の情報化、ソフト化、二十四時間化、マネーゲーム化の中枢部門となり、その運営に欠かせない存在となっている。少なくとも世界の金融、証券機関、関係官庁にとっては(ソ連以下の共産圏諸国も含めて)、必需品となっている。
こうしたサービスが出現する以前には、国際的な金融、証券取引は、電話やテレックスで得た極めて限られた情報で判断を下さねばならなかった。提示されたレートが高いのか安いのか判定する材料が乏しかったためだが、リアルタイム・インフォメーション・サービスは、コンピューターのおかげで一気にこの悩みを解決し、金融自由化に伴う資金の調達、運用手段の広がりのなかで、欠かせない新兵器となったわけである。特に日本の経済力の高まり、ジャパン・マネーの実力のなか で、東京がニューヨーク、ロンドンと肩を並べる経済センター、金融市場として、二十四時間世界経済体制の支柱となるなかで、日本でのサービスもまた大きなものになりつつある。
最近の円高ドル安報道で、新聞の写真やテレビの画面にかならず登場するディーラーたちが、かならず見ているのがこの端末だ、と考えてもらえれば一番わかりが早い。
現在、実際に世界的なシステムとして稼働しているもののうち、主なものは、一九六〇年代末期からこの画期的なサービスに先べんをつけた英国のロイター通信社のモニターと、ウォール・ストリート・ジャーナル紙も発行する米国の経済通信社ダウ・ジョーンズ社が事実上のオーナーであるテレレート社のテレレートの二つである。日本では、モニターは、ロイター・ジャパン社が、テレレートは、AP、ダウ・ジョーンズ両通信社との提携関係から共同通信が、それぞれの販売と情報入力を行っている。端末数は、全世界規模では海外展開で先行したロイター・モニターが約十万、テレレートが約五万といったところだが、米国内ではテレレートが八割のシェアでリードしている。日本国内での日本語による同様なサービスとしては、時事通信のメインと日経系列のクイックがある。
モニターには、ロイターのニュースが、テレレートには、AP・DJのニュースが提供されている。共同通信も、近くテレレートに対し、日本語、英語双方での全世界的な規模でのニュース提供を開始する。
こうした全世界を結ぶリアルタイムのシステムが発達した背景には、もちろん高速専用回線の登場と自由化、低コスト化という通信革命やPCの普及を足場にした端末技術改良の恩恵も無視できない。しかし、結局は、すべてをつきつめて行けば、このシステムは、すべてコンピューターの手のひらの上にある。その意味で、リアルタイム・インフォメーション・サービスは、これまでの活字、映像に続いて、コンピューターをメッセージ伝達の媒体とする新しい第三世代のメディアである。このサービスが、速報型データベースとも呼ばれるゆえんでもある。そして、これは、新聞の製作や通信社の配信機能が、もはやコンピューター抜きには考えられなくなっている事実でも明らかなように、すでに、ハード面でのメディアを完全に支配したコンピューターが、ついにメディアのソフト面にも影響力を発揮しだしたということだ、と思う。
ここで一つはっきりさせておかねばならないのは、リアルタイム・インフォメーション・サービスが、どうも日本では、「ニュー・メディア」という和製英語で総括され、論議されている分野には含まれていないという事実である。塚本教授が「ジャーナリズムと呼べるような『ニュー・メディア』は存在しないと言ってよかろう」という場合、リアルタイム・インフォメーション・サービスの存在をこれに加えておられたかどうか大いに興味があるところである。最近では、この分野を「電子メディア」と呼ぶ傾向が強いが、日本での「ニュー・メディア」論議の課題の一つであろう。
しかし、いったん、リアルタイム・インフォメーション・サービスを、活字、映像からコンピューター──と伝達手段の発展段階でとらえ、コンピューターによるメディアの支配拡充の一つとして意識すると、この新しいメディアが「ニュー・メディア」に入るのか入らないのか──といった議論は、あまり意味がなくなると思われる。あくまでもすべてをひっくるめたメディア全体の問題として、コンピューターの影響力について考えねばならない時期に来ている、ということだと思う。活字ジャーナリズム、映像ジャーナリズムに続いてコンピューター・ジャーナリズムといえるのかどうか──真剣に考えてみなければならないと思ったのも、こうした全体状況とのかかわり合いのなかでである。
「電子新聞」化も可能な状態
それでは、なぜリアルタイム・インフォメーション・サービスをジャーナリズムの一部として認めることを考えてみるのか。ひとことでいえば、いろいろと無視できないところまで来ているからである。
まず第一に、経営的には、いまこの部門がどこの国でも最も収益性が高く、既成メディアにとっては、金のタマゴといえる存在となっている。特に世界各国の通信社にとっては、この傾向が強く、代表例として、一九八六年の世界総売り上げが前年比四三%アップの約千五百億円、そのうち九〇%以上がモニターを中心とするリアルタイム・インフォメーション・サービスからの収益で、新聞、ラジオ、テレビという「オールド・メディア」からのものは、九%にすぎない、というロイター通信の最新数字を報告しておけば十分であろう。
こうした金のタマゴの状況は、先に触れたように、このサービスが世界経済全体の情報化、ソフト化、さらには日本政府のNTT株売却の動きに象徴されるような財政のマネーゲーム化のなかで、必需品となっている現状と表裏一体の関係にある。つまり、大きくとらえると、郵政省の電気通信審議会が六月に発表した「電気通信高度化ビジョン」のなかで、情報通信産業は昭和六十六年には七十五兆円産菜になり、昭和六十年代中に自動車産業を追い抜き、日本の新しいリーディング産業になると予測している状況の一部であるということである。このため、米国や欧州では、巨大な銀行資本や産業資本がこのリアルタイム・インフォメーション・サービスの分野に参入しはじめている。ジャーナリズムの市民権を守るためには、経営の安定と成長が欠かせない以上、やはりこの金のタマゴは、われわれの手中に収めておかねばならない、と、私は思う。
しかし、第二に、これ以上に大きいのが、速報性というジャーナリズムの原点の一つで、リアルタイム・インフォメーション・サービスが他の追従を許さない威力を発揮している点である。
情報の受け手が送り手でもあるリアルタイム・データの仕組みや、ニュースのコンピューター速報の速さについては、すでに述べたが、最近では、新聞やテレビなどの既成メディアがその取材ソースとして、このサービスを活用しようという姿勢がはっきり出ている。すでに、NHKやテレビ朝日、テレビ東京では、ニュース番組で、モニターやテレレートを使って最新の為替レートなどを伝えるようになっているが、経済関係の出先記者クラブ内でもサブスクライバーになる動きが出始めている。
リアルタイムの威力についての実例を挙げよう。十月の「暗黒の月曜日」後の円高・ドル安の動きを決定づけた十一月四目のベーカー米国財務長官のダウ・ジョーンズ社とのインタビュー発言は、日本時間十一月五日午前十時五十四分、まずテレレートのニュース画面にAP・DJの速報ニュースとして登場した。このニュースを受けて、開いているアジア、太平洋各地の市場が即座に反応、円買いが一気に進んで刻々とレートが変わり、一ドル百三十五円台に突入する様子が同じテレレートの外国為替相場一覧画面上に手にとるように現れる。「円高更新」というこの日のトップニュースが誕生した瞬間である。これをテレビ、ラジオが伝えたのは昼のニュース以降、新聞は夕刊である。このリアルタイムのスピードにはだれも太刀打ち出来ない。しかも、この画面は、メディアであると同時に、実際に円高なら円高というニュースをリアルタイムでつくり出す市場でもあるわけで、テレビ局や出先記者クラブが取材面で依存を強めている理由もここにある。その意味で情報
の受け手が送り手でもあるというリアルタイム・インフォメーション・サービスの特質は、ニュース面にも及んでいる。
こうした影響力は、現在のところ経済、特に金融の分野にかぎられているが、専門家によるコメント情報や経済以外の時事問題についての毎日書き換えられる解説記事、さらにはスポーツ記録など新聞と同じような一般ニュース、情報の入力機能も拡大していく傾向にある。そのプリントアウト機能ともあいまって、事実上の「電子新聞」化も可能な状態となっている。
リアルタイム・二十四時間・グローバルサービス
第三に、全世界同時受信、どこからでもの発信能力、二十四時間休みのないサービスというグローバルな影響力を持つメディアだ、という点である。グローバルなカバー体制ということだけいえば、現在の国際通信社のネットワークも同じである。しかし、ベーカー発言の例でも明らかなように、ニューヨークの夜に発信されたニュースが東京の市場を動かし、その結果がロンドン、ニューヨークへと時差を追ってはね返り、また自らの手で新しいニュースを生み出していくリアルタイムの世界ネットワークの実力は、既成メディアには見当たらない。
いまのところ、こうした実力が物をいうのは国際金融面にかぎられているが、なにからなにまですべて国際化が一番の課題となる二十一世紀の世界への展望のなかで、このメディアが持つグローバルな二十四時間サービスの実績は、今後ますます威力を発揮することは間違いない。七月に始まったNHKの本格的な二十四時間衛星テレビ放送や日経テレコン、クイックの海外進出、さらには朝日、読売、日経各紙の海外印刷といった日本からの動きも、グローバルな二十四時間サービスを指向するという点で、このリアルタイムインフォメーション・サービスの後を追い掛けるものととらえることも出来よう。
もう一つここで注目しておきたいのは、リアルタイム・インフォメーション・サービスが、世界各国間にパーセプション・
ギャップを生まない点ではただ一つといっていいメディアだ、ということである。
いま新たな開国を迫られている日本にとっての最大の課題が、米国との関係をはじめとする諸外国との間のパーセプション・ギャップ、あるいはコミュニケーション・ギャップの克服であることはいうまでもない。特に、日米間の摩擦が深刻化するなかで、日本の正しい対米理解のために日本のメディアが負う責任はかぎりなく大きい。二度にわたる米国特派員の経験から、これはいまでも私にとって、他人ごとではない。
そして、ある日、情報やニュースの受け手がそのまま送り手でもあるリアルタイム・インフォメーション・サービスでは、一切パーセプション・ギャップが生まれ得ないことに気が付いた。少なくとも経済には国境がないということだが、同時に、グローバルな二十四時間サービスに国際化の一つのきずなを見る思いでもあった。こうしたサービスの存在が大恐慌の再来を防げるのかどうかもとより定かではないが、少なくとも一九二九年にはなかった安全弁であることは確かであろう。
NHK衛星テレビ放送編集長であった末常尚志氏は、七月の本格放送開始後の読売新聞とのインタビューで「BBC、ABCなど外国のニュース素材を丸ごとリアルタイムで見せるのが二十四時間衛星テレビ放送の最大の特色です」と述べ、従来の定時ニュース番組のように、世界のニュースの流れを日本の視聴者向けに編集し直すのではなく、他の国がそこの価値観、世界観で選んだものを順序の入れ替えもせずに送ることで、はじめて外国のことがきちんとわかるようになると確信する、と強調している。同氏は、米国テレビの生中継をみてはじめてイラン・コントラ事件でのノース中佐の人気が理解でき たことを、その実例として指摘している。末常氏は私のニューヨーク、ワシントン時代の先輩特派員だが、パーセプション・ギャップを克服するうえでのリアルタイム、二十四時間、グローバルサービスが果たす役割を映像ジャーナリズムの立場から鋭くとらえておられると思う。
ジャーナリズムの市民権とは何か
こうしたリアルタイム・インフォメーション・サービスの現実の力と将来展望を紹介することで、私の問題提起の試みは、ほとんど使命を終えることになる。つまり、いま問われているのは、この現状に対してわれわれ既成メディアの側がどう対処するのかということである。野放しにしておく段階はすでに過ぎていると思う。
確かに、いわゆる「ニュー・メディア」を含めて、こうした新しいメディアにジャーナリズムという市民権を与えるための条件は、まだ完全には整っていない。塚本教授の定義によれば、ジャーナリズムとして認知されるための条件としては、報道性、批判性、日常性、公開性、定期性という五つの要素が挙げられるという。このうち報道性、日常性、定期性では、
及第点をおさめることが出来よう。残るのは、批判性と公開性ということになる。
事実、論説サービスもないし、調査報道も出来ない。キャンペーンをはるわけにはいかない。サブスクライバーになるためには、高額の料金を払わねばならず、その結果、実際に使えるのはまだディーラーといわれるマネーゲームの戦士たちに限られていることも否定できない。
そして、情報の受け手が送り手でもあるというコンピューターの手を借りた「直接取材」がシステムの基幹ともなっているため、情報選択、および発信が記者という名のジャーナリズムの担い手を経由していない、という問題点も残っている。事実、「ロイター通信のモニター開発者の一人は、このシステムについてロイターは電子化された郵便局のようなものであり、伝達情報に対しロイターは一切手を加えなかった。ロイターが管理したことといえば、ハードの技術面でのチェックのみであった」と自ら記者のチャンネルをバイパスしたことを自賛している。
しかし、こうしたジャーナリズムとしての欠陥点が決定的とも思われない。
権力への批判という点でも、ひけをとらない面がある。記者の目をくぐらない生データの方が、百の形容詞、論説、解説記事よりも明快な権力批判、政策批判となるケースが多いからである。例えば、ドル相場に大きな影響を与える貿易赤字など毎月の米国経済統計指標は、レーガン経済政策に対する最も厳しい審判者だが、これらの数字を最も早く伝え、また伝えることを間違いなく全世界で待たれているのがテレレートであり、モニターである。そして、その伝達の結果、即座にドル相場を動かし、世界経済の歩みを左右する場となるのも、これらのリアルタイム・インフォメーション・サービスである。
高料金による閉鎖性の欠陥にしても、端末装置のPC化など日進月歩の通信革命の流れのなかで、低コスト化は時間の問題となりつつある。これはちょうど衛星放送の受信機のコスト問題と同じような状況下にある。記者の目のバイパスについても、発表ジャーナリズムが批判される最近の状態を考えれば、最後は相対的な問題ともなってしまう。
要するに、リアルタイム・インフォメーション・サービスとジャーナリズムの間には、基本的な矛盾はない。かつて活字ジャーナリズムも、映像ジャーナリズムもそうであったように、一つの発展段階にある、と考えられないだろうか。少なくとも、このコンピューターという途方もない媒体をまだ人間の脳が支配しているうちに、そしてこの経営にとっての貴重な金のタマゴに外部の巨大資本が手を伸ばしてこないうちに、ジャーナリズムが自らの領域だと認知することが必要であろう。われわれがこの課題に挑戦しなければ、だれかが支配し、手中に収めてしまう。
その意味で、いま一番大切なのは、ジャーナリズムが自らの市民権の重さを自覚し、ジャーナリズムの市民権とは何かについてきちんと手本を示すことであろう。問われているのは自らである。