1985_01_レーガン大統領の目(月刊文藝春秋・巻頭随筆)

『文芸春秋 1985/01』

レーガン大統領の目

 

松尾文夫

 

「レーガン大統領はどうしてあんなに人気があるのか」─昨年の夏、二度目の米国勤務を終えて帰国して以来、多の人からこう聞かれる。そのたびに、いろいろと説明したうえで、レーガン大統領の大統領としての安定感も大きな要素だ、と付け加えることにしている。これには意外そうな顔をする人が多い。しかし、私には、こんどのレーガン圧勝もこの辺に原因があるように思えてならない。

 この安定感という言葉は、英語のセキュアー(SECURE)という単語を訳したものである。安心感でもいい。安心していられる──と訳してもいいだろう。

 このセキュアーということばを使って、レーガン大統領を説明することを教えてくれたのは、長年の知己であるポール・ウォンキ氏である。現在のようなレーガン人気が定着する前の一九八二年の話である。ウォンキ氏は、ジョンソン政権の国防次官補(安全保障問題担当)、カーター政権の軍備管理・軍縮局長を務めた民主党リベラル派のいわゆるワシントン、エスタブリッシュメントの中心人物で、当時、レーガン政権と正面から対立していた核兵器凍結運動の指導者の一人でもあった。

 そのウォンキ氏はこう語った。「レーガン政策はほとんど支持出来ないが、レーガン大統領には、大統領、国家指導者としての安定感がある。この点は認めざるを得ない。反共思想、保守主義の原点に忠実で、いろいろと激しいことをいうが、実際の行動は極めて現実的で、最後のところでは安心していられるような気がする」──民主党指導者から飛び出したこの意外なレーガン評価にとまどいながらも、なるほどと考え込んた記憶がある。ウォンキ氏はさらに「こうした安定感のある大統領はアイゼンハワー以来初めてではないか。ケネディからカーターまでそれぞれに優れたところのある大統領だったが、レーガン大統領のように建前と本音の間に巧みなバランスをとることが出来ず、結果として安定感に欠けるという点でいずれも共通していた。民主党にとってこんな手ごわい相手はいない」とまで言ってのけた。ちなみに同氏によると、当時の国務長官のアレキサンダー・ヘイグ氏は、抜群の能力の持ち主ながら、指導者としての安定感に欠けるという意味でかつてのマッカーサー元帥と同じようなセキュアーでない、つまりインセキュアーなタイプの典型だ、とのことであった。

 確かに、この尺度でレーガン内外政を切ってみると、セキュアーと評価することも可能なしたたかた現実主義が浮び上がってくる。

 例えば、大幅減税による米国経済活性化の達成を自慢する陰で、切羽詰まった財政赤字対策のために八二年と八三年の二回にわたって実質的な増税を行っている。最初は大上段にふりかざした石油天然ガス関連機器の対ソ輸出規制、も、同盟国や国内業界の反発が高まると、いつの間にかソロバン路線に逆戻りしている。

 レバノンの主権保全のためにとの大ブロシキを広げ、ベトナム戦争後初めて米海兵隊の海外派遣に踏み切ったレバノン介入にしても、宿舎へのテロ攻撃で海兵隊員二百四十一人が死亡すると、その五カ月後には、完全撤退させてしまう逃げ足の早さをみせた。

 レーガン外交は、その強烈なタカ派イメージにもかかわらず、五万八千人の米兵の血をムダに流したベトナムの過ちだけは繰り返さないとの国民的合意からは一歩も踏み出していない。しかし、同時に、グレナダ侵攻のように、米兵の血を「ムダ」には流さずに(米兵十八人が戦死した)「強いアメリカ」の快感を米国民に満喫させることも忘れていない。愛国的現実主義と呼んでもいいレーガン大統領の外交感覚の原点がここにある。「米国が対ソ軍事抑止力の回復に成功した結果、ソ連との交渉が可能になった」との「レーガンのデタント」路線もここから出て来る。

 レーガン大統領が選挙演説で「私が政権を担当して以来、共産主義者の手に落ちた国は一つもない。同時に、いま米軍は世界のどこにも出動していない」と胸を張っているうちに、ソ連のグロムイコ外相がホワイトハウスにやって来た。この選挙戦真っただ中でのグロムイコ外相との握手は、レーガン再選のひそかな決め手となった。ソ連がこのレーガン外交の土俵に上る合図であったからである。武器輸出の継続をはじめとする台湾との友好関係を維持しながら、中国公式訪問を果たした対中政策同様、それなりの安定感は認めねばならない。全体としてとらえてみても、やはり相当なセキュアー度の大統領である。「ハリウッドの二流俳優上がり」というイメージでレーガン大統領をみる人が依然として跡を絶たない。しかし、私は、ハリウッドの経歴のなかから現在のレーガン大統領をとらえるカギを見付け出すなら、「元全米俳優組合委員長」といった肩書の方がより正確なイメージを提供してくれると思う。

 レーガン大統領がこの俳優組合委員長のポストにあったのは四七年から五年間で、ハリウッドがマッカーシーの赤狩り旋風に揺れ、多くの俳優や監督がハリウッドを追われる最も難しい時期だった。ワシントン・ポスト紙のレーガン番記者、ルー・キャノンによると、「レーガン委員長」(まだ民主党員だった)は巧みなバランス感覚で組織を左右の攻撃から守り、自らも意識しないうちに「実際的な政治家」としての第一歩を踏み出した、という。現ナンシー夫人とのなれそめもこのころで、自分の名前が左翼系紙に「同志」と紹介されたのに困ったナンシー夫人が、委員長のところに相談に行ったのがきっかけである。

 私は、こんどの三年間のワシントン勤務中、三回、レーガン大統領と握手する機会に恵まれた。いずれも、新人時代のサツ回りよろしくホワイトハウスのカバーを続けていたら自然に飛び込んで来たチャンスだったが、面と向かって立ち、握手してみると、いつもやわらかい大きな手とこぼれるような笑顔の向こうで、スキのない青い目が光っているのが印象的だった。レーガン再選決定のニュースを聞いたとき、すぐ目の前に浮んだのは、この大統領の目である。

© Fumio Matsuo 2012