2005_09_日米版「ドレスデンの和解」の提案 ブッシュ大統領にヒロシマで花束を手向けてもらおう(中央公論)

『中央公論 2005/09』

特集●戦争責任、60年目の決着

日米版「ドレスデンの和解」の提案

ブッシュ大統領にヒロシマで花束を手向けてもらおう

一〇年前、ドイツはドレスデン空爆の責任を米英に問うた。なぜ同じことを日本はできなかったのか。日本は、果たしてアメリカとちゃんと向き合っているのか。

松尾文夫/ジャーナリスト

 敗戦六〇周年の夏、日本にとって一番求められているのは、現在のアメリカとの友好関係、同盟関係を継続し、さらに強固なものとしていくために、もう一度、「アメリカという国」と向かい合い、いまも日本人の心の隅に突き刺さっている「棘」を完全に取り除く努力のプロセスを始めることではないかと思う。日本とアメリカが戦ったという過去が年々風化していくなかで、敗戦六〇周年の節目は、このずるずると放置されてきた日米間の「歴史問題」にけりをつける最後のチャンスではないか、と思う。

 折から小泉首相の靖国参拝問題に対.する中国、韓国の反発のなかで、再開された北朝鮮核開発問題をめぐる六ヵ国協議では、日本の影は薄い。人民元切り上げで国際通貨大国の仲間入りを果たしたばかりの中国は、ホスト国としての存在感を増し、韓国はオリジナルな南北一体化路線で突っ走る。日本には、拉致問題の打開を含めてアメリカだけが頼みの綱、それもどこまで頼れるかという状況が突きつけられている。イラクに自衛隊を出し、メジャーリーグでのイチロー、松井の活躍が全国の茶の間に流れるなかで、ふと気がついてみると、アメリカとの信頼関係、同盟関係を、表面的なものではなく、「棘」を抜いた本物にしておくことが決定的に重要になってきている、と思いつめるゆえんである。具体的な提言を行ってみたい。

 ドイツとの落差

 私のいう「棘」とは、太平洋戦争末期、アメリカが行った広島、長崎への原爆投下や、東京をはじめとする全国六七都市に対する「夜間無差別焼夷弾爆撃」によって、総計五一万人に近い数の非戦闘員、つまり民間人犠牲者が出た事実に対して、きちんとした鎮魂の儀式が日米間で行われていないという事実である。

 私がこの「棘」にこだわる理由の一つは、私自身が、昭和八年、一九三三年生まれ、空爆という、その容赦ない武力行使の対象となることからアメリカと出会った最後の世代に属し、十二歳だった敗戦直前の七月十九日夜、疎開発の福井市で、B29一二七機の「夜間無差別焼夷弾爆撃」にさらされながら、欠陥親爆弾のおかげで命拾いをした原体験を持つからである。一九六〇年、共同通信外信部の新米記者として、ケネディが当選したアメリカ大統領選挙をカバーして以来四五年、ジャーナリストとしてアメリカを追い続ける私が、最後はそこに戻っていく原点である。

 そしてもう一つ私がこだわるきっかけとなったのは、戦後五〇周年に当たる一〇年前の一九九五年、同じ大戦の敗戦国ドイツで、アメリカ・イギリスの連合空軍による無差別爆撃を受け、一般市民が犠牲者となった東部ドイツ、エルベ川沿いの古都、美しいバロック建築の街並みで知られるドレスデン市で、手厚い鎮魂の儀式が行われていた事実を知ったからである。

 一九四五年二月十三日夜から十四日にかけての二日間、すでにソ連軍が国境を越え、敗色濃いナチス・ドイツ。軍事的価値はゼロで、逃げ込んできた難民があふれるだけのドレスデン市に対して、イギリス・アメリカ合わせて一〇六七機の爆撃機が三波にわたって合計七〇四九トンの爆弾、焼夷弾を投下した。旧東ドイツ時代の市役所の発表として、三万五〇〇〇人

の犠牲者が公式数字となっている。日本に対する「夜間無差別焼夷弾爆撃」の皮切りとなった三月十日の東京大空襲の死者数は、控えめだと批判される警視庁発表でも死者八万三七九三人。ドレスデンよりはるかに多い。

 私はたまたま一九九五年二月十三日朝、出張先のワシントンのホテルで、テレビのニュースが、この追悼式典のもようを伝えるのを目にした。そして日本に比べて数が少なく、またドイツに対する爆撃全体としては、例外的なケースといえるドレスデン爆撃に対する追悼内容が通り一遍のものではないことを知った。『ワシントン・ポスト』紙は翌朝、この鎮魂と和解の儀式を写真付きで大きく伝えた。また『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙は、オピニオン欄のトップに「ドレスデン──我々がソーリーという時」と題する『ロンドン・タイムズ』紙への寄稿をわざわざ転載した。しかし、日本のマスコミは当時、このドレスデンでの出来事を一切報じなかった。以後一〇年、私は一人この通り一遍でない儀式にこだわり続ける。

 「相殺の論理」を認めず

 まず当時の東西ドイツ統一後二代目の大統領、ローマン・ヘルツォークの追悼式典での演説が、きわめて剛直な内容だった。そのさわりだけを抜粋しておく。

 「五〇年前、わずか数時間でドレスデン市は完全に破壊されました。数万の命が戦火の中で失われ、ヨーロッパ文化のかけがえのない貴重なものが、二度と甦ることなく失われました。それには人間の魂も含まれます」

「ここにお集まりの方々には、告発や後悔、自責を求めないでしょう。ナチス国家におけるドイツ人の悪行を、その他の出来事によって相殺しようとはしないでしょう。もしそれが目的だったら、ドレスデン住民はイギリス、アメリカの客人たちを、いま経験しているようには温かく迎えることはしなかったでしょう」

「まず死者に対する哀悼を捧げたいと思います。それは文明の起源にまでさかのぼる人間感情の表現です。歴史全体を理解しないかぎり、人は歴史を克服できないし、安寧も和解も得ることはできません。そして我々は我々の弔意を、我々ドイツ人が他の国民に対して行った犯罪行為を自国の戦争犠牲者、追放の犠牲者によって相殺しようとしている、と主張する人に対してはそれが誰であるにせよ抗議します」

「生命は生命で相殺はできません。苦痛を苦痛で、死の恐怖を死の恐怖で、追放を追放で、戦慄を戦慄で、相殺することはできません。人間的な悲しみを相殺することはできないのです」

 ヘルツォーク氏は、一九三四年生まれ、私と一つ違い。つまりナチス支配下で同じように戦火を経験し、生き延びたであろう世代に属する。CDU(キリスト教民主同盟)出身の法律家。旧西ドイツ連邦憲法裁判所長官を経て統一ドイツとしては二代目大統領。このドレスデン演説は、前任者の初代統一ドイツ大統領、リヒャルト・ワイツゼッカーが、日本にも紹介されている有名な「荒野の四〇年」演説(一九八五年)で、過去から学ぼうと訴えたのを、一歩踏み込んだもので、立派な演説だったと思う。

 すなわち、「死者の相殺はできない」との論理で、アメリカ、イギリスに対し、非戦闘員爆撃の責任を認めることを言外に迫り、そのうえで、まず死者を悼んだあとで、かつての敵も味方も一緒になって「平和と信頼に基づく共生」の道を歩もうと、旧連合国との「和解」を宣言する格調の高いメッセージの表明であった。

 しかも驚いたのは、ヘルツォーク大統領が、かつての敵ではなく今日の友人の代表として歓迎した出席者の中に、なんとイギリス女王名代のケント公、それにアメリカからジョン・ジャリカシュビリ統合参謀本部議長、イギリスからは国防幕僚長を交替したばかりのナウマン・インジ将軍、つまりアメリカとイギリスの制服組トップの顔があったのである。もちろん両国の大使も出席していた。ドイツからは、ヘルムート・コール首相、クラウス・ナウマン連邦軍総監らトップが参加した。

 日本にはなかった外交努力

 アメリカ、イギリス側が、ヘルツォーク演説の前か後に何か発言していないか──私は調査を重ねた。しかし、何も発言していないことが確認された。つまり、演説を黙って聴いただけなのである。それで十分だったのではないか。「相殺」の論理は認めない、と暗に旧連合軍の責任に言及したうえで、死者を弔おうという大統領の言葉に耳を傾けるだけで、「鎮魂」と「和解」のけじめがきちんと果たされた立派な儀式だったのではないか。少なくともドイツとアメリカ、イギリスとの間に残っていた戦争の「棘」は取り除かれたのではないか……。

 こうした巧みな外交ショーをドイツ側とアメリカ、イギリスの旧連合国側のどちらが仕掛けたのか、私はまだ結論に達していない。しかし三国の間で相当の外交努力が払われたことは、アメリカ、イギリス側の出席者の顔ぶれから明らかである。少なくとも日本とアメリカの間にはなかった外交努力であったことは間違いない。

 そして、どうして日本で、この「ドレスデンの和解」と同じような「鎮魂」と「和解」の儀式をアメリカとの間で持つことができなかったのか、少なくとも自衛隊のイラク派遣は、この日本版「ドレスデンの和解」が行われたあとでのことではなかったのか……、私は、自らのジャーナリストとしての責任を含めて、こだわり続ける。

 アメリカとの関係でのドイツと日本の違いをいえば切りがない。ドイツ人は、独立戦争に際し、イギリス国王側の傭兵として三万人が参戦して以来の新大陸での長い定着の歴史を持つ。第二次世界大戦でも、強制収容所入りを命じられた日系人のような扱いは受けなかった。戦争責任の取り方も自殺したヒットラーにすべてが帰着したドイツと日本の場合とは異なり、アメリカは、一九九三年、大統領令でワシントンの中心部にホロコースト・ミュージアムを建設、ナチスの犯罪を永久に語り継ぐインフラをつくった。ドイツ側もこれを容認し、協力した。「ドレスデンの和解」は、この日本とは違うドイツと米英との長い歴史のうえで組み立てられたものともいえた。

 ルメイ将軍に勲一等

 日本側の対応の責任にも触れておかねばフェアーでない。日本政府は、ドレスデン爆撃を強く主張したアーサー・ハリス空軍爆撃司令官の銅像が一九九二年、ロンドンの英国防省前に建立されたとき、当時のコール首相が先頭に立って抗議したドイツ政府とは対照的に、一九六四年十二月、東京をはじめとする日本の都市の焼夷弾による焦土作戦を立案し、実行したカーチス・ルメイ将軍に対して「勲一等旭日大綬章」という最高級の勲章を贈っている。ルメイ将軍自身が戦後、「もしわれわれが負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸いなことに私は勝者のほうに属していた」と率直に語っているのに、である。

 同じことばを二〇〇三年になって、あのロバート・マクナマラ元国防長官がエロール・モリス監督のドキュメンタリー映画『戦争の霧—ロバート・マクナマラの人生からの十一の教訓—』のなかで述べていることも報告しておきたい。マクナマラ氏は戦争末期、グアム島のルメイ司令部で働き、日本の六七都市に対する夜間焼夷弾爆撃を効果的に行うための仕組みづくリと数学上の計算に従事したことを初めて告白、アメリカが戦争に負けていたら、ルメイ将軍も私も戦争犯罪者だったと述べたあと、「これだけの都市の人口の五〇%から九〇%を焼夷弾爆撃で殺傷したうえで、原爆を投下したのは余計なことでもあった」と語っている。

 戦後、空軍参謀長にまでのぼりつめたルメイ将軍に対する日本政府の勲章授与の理由は、「戦後の航空自衛隊育成への貢献」だった。このルメイ将軍への勲章授与については、東西冷戦下では、日本の国益であった対米協調外交の一環だったと説明することも可能だろう。一九六四年十二月�ニいえば、佐藤内閣成立直後で、翌年早々の初訪米直前、沖縄返還の実現を目指した布石の一つと解釈することもできるかもしれない。

 しかし、いま振り返れば、マッカーサー占領下に生まれた「軍隊」破棄の平和憲法をテコに、経済大国としての立国に成功し、アメリカに次ぐ富を身につけることになった戦後日本のサクセス・ストーリーの陰で、「敗戦」を「終戦」と呼び、「占領軍」を「進駐軍」と言い換え、あの戦争の結果にきちんと向き合うことを避けてきた日本全体の生き方の一部であったことは間違いないと思う。経済的なサクセス・ストーリーの下で、戦争そのもの、あるいは敗北の事実そのものと真正面から向き合い、政治的ケジメをつけることを怠ってきたことの証拠の一つに挙げることができる。

 一人で静かに花束を

 この日本に対して、ブッシュ大統領は、いまどこまでも心地よいメッセージを送り続ける。二〇〇三年十一月のワシントンでの「民主主義のための国家基金」二〇周年の記念演説を皮切りに、しばしば大戦後のドイツと日本での民主主義の定着を「誰も信じなかったアメリカのサクセス・ストーリー」と位置付け、イラク戦争、つまりフセインを排除してイラクに民主主義を植え付けるための武力行使を正当化する理由として使う。大戦初期でのドイツと日本との戦いが苦難に満ちたものであったことや、東西冷戦初期でのベルリン大空輸や、ギリシャ内戦の例を武装勢力の抵抗に手を焼く現在のイラクでの状況とだぶらせて、アメリカ国民の忍耐を呼び掛けている。七月のイラクヘの政権移譲一周年の演説でも、アメリカ軍撤退の期限設定を拒否するなかで、同じ論理が展開されている。.

 日本は、このブッシュ・ドクトリンに懸命にたえている。「ドレスデンの和解」を経て、同盟国としての「棘」を抜いたはずのドイツがイラク軍事介入にはっきり距離をおいているにもかかわらず、日本は一〇〇%ブッシュ路線を支持して、平和憲法を最大限拡大解釈して、自衛隊のイラク派遣に踏み切り、五〇億ドルのイラク復興支援資金を拠出した。

 したがって、私はここで、二つの具体的な提案をしたい。歴史も文化も価値観も違う二つの国がここまで築き上げてきた、世界の歴史にも例がない日米の特別な友好関係を新しい発展の土台に乗せるためにである。

 一つは、ドイツと米英両国との「ドレスデンの和解」の精神をモデルに、具体的な方法では日米のオリジナルなやり方で、「棘」を抜き、永遠の和解を果たすべきだとの提案である。私は、まず原爆を投下された広島、長崎、全国六七都市での「夜間無差別焼夷弾爆撃」、さらには、その他の多くの都市での艦載機の爆撃による民間人犠牲者全体を弔う意味で、そのシンボルとしての広島の平和記念公園にブッシュ大統領自ら花束を手向けてもらいたい、と思う。一〇年前ヘルツォーク大統領が呼びかけ、米英代表も「沈黙の参加」で応じた「死者を弔うという文明の起源までさかのぼる人間感情」の原点に、アメリカ大統領が立ってほしい、という提案である。

 大がかりな儀式ではなく、アメリカ大統領が初めて広島の地に立ち、一人静かに花束を捧げるシンプルな行動だけで十分なのではないか、日米両国民の心、そして全世界の人々の心に対して最も強烈な「鎮魂」のメッセージを発信することになるのではないか。演説も必要ないのではないか。時期については、もちろん敗戦六〇周年の今年中が望ましい。しかし年数や日にち合わせは問題ではない。行われることが重要である。ブッシュ大統領の次の訪日時で十分ではないか。

 ここで「アメリカという国」を学び続ける私が思い出すのは、一八六三年十一月十九日、激戦のあと生々しいゲティスバーグでのわずか二七二語の短いスピーチによって、リンカーン大統領が南北戦争というアメリカ史上最大の死傷者を出した武力行使の悲劇を、和解とアメリカ民主主義の新しい出発点としてしまった輝かしい故事である。リンカーンのゲティスバーグ演説と同じように、ブッシュ大統領の広島での献花というシンプルな行為は、日米関係の歴史に、本物の相互信頼のページを切り開くことになるだろう。そしていまテロとの戦いで試練に立つアメリカの指導力にとっても、プラスの出発点を提供することになるのではないか。

 アメリカ側に対しては、「ブッシュの花束」への返礼と位置付けて、日本の首相が真珠湾の地で、しかるべきタイミングで同じく静かに花束を捧げればいい。

 エノラ・ゲイ説明文に死者数明記を

 もう一つは、現在、ワシントンのダレス国際空港横にオープンしたスミソニアン航空宇宙博物館別館とオハイオ州デイトンの空軍博物館でそれぞれ完全に復元され、ピカピカに磨き上げられ展示されている広島原爆投下のB29エノラ・ゲイ号と長崎投下のボックス・カー号の前に置かれている説明板についての注文である。B29が史上初めて気密室を持った最優秀の爆撃機であったことが記述され、対日戦末期に原爆を投下したところで終わっている。広島約一四万人、長崎約七万人という一瞬のせん光のもとでの死者の数についてはなにも触れられていない。この数をきちんと明記してほしいというのが提案である。

「ドレスデンの和解」が米英とドイツ間で行われたのと同じ一〇年前の一九九五年、スミソニアン航空宇宙博物館が戦後五〇周年を記念して原爆関係の展示を企画したとき、アメリカ在郷軍人会や空軍協会がその内容に反対、特にこの死者数への言及の賛否で紛糾、当時のスミソニアン博物館長が辞任して、展示の計画そのものが流れてしまった。その結果、説明板には死者数が触れられないまま一〇年の月日が流れた。当時、私が再会したレーガン政権時代のホワイトハウス高官は「原爆投下という日米間の棘をきちんと抜くいいチャンスだったのに、残念だった」とコメントしていた。

 私の主張は、死者の数を説明板に追加するというこれまたシンプルな作業を一日も早く終えることをスミソニアン当局に改めて考えてほしいということである。日米関係がここまで深まっているなかで、アメリカの保守派が説明文の内容の「政治性」を懸念する時期は間違いなく去っている。ブッシュ大統領の広島での花束と同じく、あの広島、長崎での悲惨な結果を、事実として直視し、記録に残して、次の世代に伝えることは、全世界に「アメリカという国」のインテグリティーを示すいいチャンスではないか。現にアメリカは大戦中の日系人の強制収容に一九八八年の「一九八八年市民的自由法」で正式に謝罪し、一人当たり二万ドルを補償した立派なフェアネスの実績を持っているではないか──と説得することは可能だと思われる。

 アメリカ世論の多数がトルーマン大統領の広島、長崎への原爆投下の決断が結果として日米双方の死者を少なくすることに貢献した、と考えていること自体は留意しなければならない。しかし、この立場とエノラ・ゲイ、ボックス・カー両号の説明板に、核兵器の悲惨さを伝える広島約一四万人、長崎約七万人というそれぞれの死者の数を明記することとの間には、なんの矛盾も対立もないはずである。少なくとも原爆犠牲者に対する最小限の「鎮魂」の証としてねばり強く求め続けねばならない。一〇年前の不幸な行き違いの結果、スミソニアン博物館当局と日本側の市民代表レベルでの対語がいぜんとして成立していない現実から、私はスミソニアン博物館が国立の機関であることでもあり、この原爆死者数の記載問題は、日米両国の外交レベルで、きちんと協議すべき段階にきている、と思う。

 「日本になかった」米中関係

 私はこの四月、こうした日本版「ドレスデンの和解」が日本にとって不可欠だと確信する旅をした。

 六三年前の一九四二年四月十八日、つまり真珠湾攻撃から四ヵ月後、まだ日本がフィリピン占領など連戦連勝に酔っていたころ、日本に接近した空母ホーネットから発進、超低空で東京、横浜、名古屋、神戸などを初空襲したB25一六機のドーリットル爆撃隊の隊長機を当時八歳であった私は、新宿区の戸山小学校(当時は国民学校)の校庭から見上げた。その副操縦士、リチャード・コール中尉の大きな鼻が目に焼き付いていたことから、四月十日、米�eキサス州サンアントニオで八十九歳ながら元気な元中尉と対面を果たした。そしてコール氏の招待で、その週にコネチカット州ミスティックで開かれていたドーリットル爆撃隊生き残りの第六三回年次懇親会の行事に、初めての日本人として参加し、歓迎された。

 私はこの対日戦勝行事でのアメリカ人との数奇な出会いの場で、二つのことに感慨を覚えた。

 一つは、ブッシュ大統領からの祝辞も読み上げられた正式夕食会で、挨拶に立った地元ミスティックの代表が、ドーリットル爆撃隊の勇気を、独立戦争真っ只中の一七七八年二月十三日、フランスとの同盟交渉のためイギリス海軍の包囲網の中を小型フリゲート艦「ボストン」号で突破したアメリカ建国の父、ジョン・アダムスのそれと結びつけ、大きな拍手を受けるのを聞いた時である。アメリカ建国以来の党派を超えた愛国インフラを垣間見た気持ちになった。六四年前、日本が戦争を始めたとき、理解していなかったのが、民主主義という建前のため危険を冒すこと、すなわち武力の行使も躊躇しないこのアメリカの素顔だったとつくづく思った。現在のイラク戦争まで連なる『銃を持つ民主主義』の原点を見た思いで、六〇年前の夏、B29の容赦ない無差別焼夷弾爆撃を浴びた夜の記憶が思わずよみがえってきた。このアメリカをしっかりとつかまえたうえでの友好関係でなければならない。広島でブッシュ大統領の花束を受けることは、このアメリカを知らずに戦ったあの戦争の犠牲者の「鎮魂」のためには、やはり不可欠な儀式だと思って帰ってきた。

 そしてもう一つは、アニュアル・リユニオンに参加した生き残り隊員九人の席に、「名誉隊員」と呼ばれる車イスに乗った中国人老紳士、リュー・タン・シェン氏がいたことだった。八十七歳。いまは米国籍の航空工学者。上海南部の東シナ海沿岸部から西の浙江省、福建省、河南省一帯にパラシュート降下、または不時着した隊員たちにとって、点と線とを支配する日本軍の追及から守ってくれた多くの中国住民は命の恩人。リュー氏はその代表格。戦後、元隊員たちの助力でアメリカに留学、学位を取った。毎年のリユニオンに参加しているという。

 つまり日本がアメリカと戦争を始めたころ、中国、正確には蒋介石政権、および延安を拠点とした「毛沢東の中国」を含めた、日本軍占領地域以外の中国とアメリカは、「同盟国」の関係にあったという歴史を改めて思い知らされた。ドーリットル爆撃隊の日本本土初空襲で、日本側が完全に虚をつかれ、一機も撃墜できなかったのは、B25という陸上爆撃機を空母から発進させ、爆撃後の着陸地として中国を考えるという作戦の発想だった。

 以後、日本軍部はこの空母と中国を結ぶ作戦の再来におびえ、二ヵ月後、ミッドウェー島攻略作戦を強行して破滅への一歩を踏み出す。しかも、中国にたどりつき、不時着したり、べールアウトした六四人の乗組員を助け、歓迎したなかには、中国人だけではなく、十九世紀以来、中国の村落に根を下ろしていたアメリカ人宣教師のグループがいた。

 こうして、対面の旅は、アメリカと中国の間には、十九世紀までさかのぼる「日本にはなかった関係」が存在した歴史をかみしめる機会となった。米公文書館の開示記録によると、ニクソンが毛沢東と歴史的握手をかわしたあとの米中対話を総括して、キッシンジャーは一九七三年三月三日、日米安保条約が日本の拡張主義と軍国主義に対する歯止めとなることを中国側に二〇ヵ月かけて認めさせた、と誇らしげに報告していたことを思い出した。

 北朝鮮の核問題をめぐる六ヵ国協議の再開も米国と北朝鮮との実質的な直接交渉で決まり、日本人拉致問題は、日本の意に反して事実上たな上げされる公算が強い。この北朝鮮とアメリカの間にも、日本の朝鮮併合時代までさかのぼれば、故金日成主席が戦前の学生時代、日本支配下の満州吉林で米メソディスト教会の支援で生き延び、その時以来のアメリカヘの「敬意」が一九九四年のクリントン政権下での米朝合意の下敷きになったといった具合に、日本にはない「良い関係」があった。このことも、今、日本としては忘れてはならない。

 近隣諸国にも花束を

 小泉首相の靖国参拝問題という不幸な摩擦もあって、いま中国、韓国との間に流れる冷たい空気は「日本にだけあって、アメリカにはない」という事実を肝に銘じておかねばならない。いま中国、南北朝鮮が日本の国連常任理事国入りにそろって反対するなかで、アメリカも万全の支持を寄せてきていない。

 ネオコンのコラムニストで、本誌二〇〇四年新年号でも対談したマックス・ブーツ氏は二〇〇三年秋、訪日し、靖国神社遊就館を訪れたあと、同年十二月一日号の『ザ・ウィークリー・スタンダード』誌への寄稿で「日本の戦争に対する後悔の欠如は、日本軍よりももっと多くの苦難を自国民に与えている中国、北朝鮮の共産主義者にアジア諸国の「反日感情」を操作するチャンスを与えてしまう。日本は自衛隊イラク派遣など新しい日本の国際貢献をアジア諸国に受け入れてもらうためにも、第二次世界大戦の亡霊を眠らせてしまうことだ」と忠告している。この発言は真剣に受けとめておくべきだろう。小泉首相の靖国参拝問題に対する中国、韓国からの強い反発に、アメリカからも同調する声がでる可能性を示唆しているからである。

 今、日本に求められていることは、あの不幸な戦争経験にもう一度正面から向き合い、日米版「ドレスデンの和解」を果たすことで、アメリカとともに歩む、そのサクセス・ストーリー「パートⅡ」のスタート台に立つことだと思う。この「パートⅡ」はあくまでも軍事大国化拒否、核武装拒否をつらぬいてきた「パートⅠ」の延長でなければならない、と私は思う。

 そして近隣諸国に対しては、かつて日本が「加害者」であったというシンプルな事実を認めることから次々と「歴史問題」という「棘」を抜いていかねばならない。そのためにはブッシュ大統領に求める広島での花束と同じように、死者を弔うことで未来を目指す「ドレスデンの和解」を教訓に、北京、ソウル、そしていつの日か平壌でも、日本の花束が改めて手向けられねばならない。

© Fumio Matsuo 2012