ベトナム撤退のほうがまし──
イラク「出口」戦略の苦悩
べーカー報告書発表後も迷走は続く。北が南を吸収して終結したベトナム戦争と異なり、イラクには「受け皿」がない。皮肉にも一人勝ち故に事態はなおさら深刻だ
松尾文夫/ジャーナリスト
「9・11」同時テロのショックの中で、過去四年間、ブッシュ政権が強行するのを許してきたイラク戦争からの「出口」をいつ、どのようにして見つけ出すのか──。アメリカは、国全体としてこの重い課題を抱えたまま、新しい年を迎えた。まだ展望はなに一つ開けていない。
これまではその多数がイラク戦争を支持してきたアメリカ国民が、初めて拒否反応を示した中間選挙の結果を受けて、ブッシュ大統領は動いた。投票日の一週間前までは抵抗してきたラムズフェルド国防長官の更迭に踏み切り、イラク政策で「新しいコース」を目指すことを明らかにした。十二月に入ると、ブッシュ・ファミリーの指南番、ベーカー元国務長官と、三四年間の下院議員歴を持つ民主党の大立者ハミルトン元下院外交委員長の二人が共同委員長を務め、超党派の元最高裁判事、閣僚、大統領補佐官ら十人が顔をそろえる「イラク研究グループ」(ISG)から、これまでのイラク政策は失敗しているとして、七九項目にわたって見直すことを求めた報告書を受け取り、「真剣な検討」を約した。
しかし、ISG報告書を「完全な敗北のシナリオ」と決めつける政権内外のネオコン・グループからの猛反発もあって、内部調整に手間取り、新任のゲーツ国防長官との協議を理由に、クリスマス前に予定していた「新しいコース」演説を新年に持ち越している。
新年とともに、十二年ぶりに議会多数派に返り咲いた民主党も、当選してきた新人議員たちにリベラル派は少なく、政治信条全体では共和党とあまり変わらない中道から保守寄りの人物が多いこともあって、威勢のいい即時撤退論は影を潜めた。当面、民主党長老が参画しているISG報告書支持で一本化、ブッシュ大統領の「転進」の実態を見守る構えである。注目のヒラリー・クリントン上院議員も、将来の保守票取り込みを意識して、イラク政策では、反戦グループと一線を画し、模様ながめの慎重な発言を続けている。
こうして、一四二頁のISG報告書は、発表と同時にペーパーバックとして全米で発売されたこともあって、イラク戦争からの「出口」を探る国民的な論議のたたき台となった。
その冒頭の「共同委員長からの書簡」は、「イラクの諸問題を解決する魔法はない」との一行で始まっている。現在のアメリカの試練が凝縮されている文書とも言える。
ベトナムより深刻
こうした袋小路を、かつてのベトナム戦争の泥沼化状態と同一視する論評が多い。確かに似ている側面は数多い。しかし、私は、ベトナム戦争と似ているようで似ていないのがイラク戦争だと考える。正確には「似ているところ」の延長で「似ていないところ」が現れるのがイラク戦争の実像だと思う。そして、アメリカ軍の戦死者数こそ、まだ三〇〇〇人弱と、五万人を超したベトナム戦争に比べ格段に少ないものの、現在のイラクの状態は、ベトナム戦争当時よりはるかに深刻だと思う。
ベトナム戦争の場合は、「ベトナム人化」の謳い文句のもとで、南ベトナムの親米政権を見捨てて、アメリカ軍が「名誉ある撤退」を果たすことが可能な「受け皿」が存在していた。一九七五年四月三十日、旧南ベトナム親米政権の首都、旧サイゴン(現ホーチミン・シティ)が陥落したとき、その南ベトナムを「民族解放」の名のもと、丸ごと引き取ってくれる北ベトナムという「受け皿」があった。いま、イスラム宗派間の対立が内戦化するイラクには、この「受け皿」がない。少なくとも、まだ姿を見せていない。「似ていないところ」の代表例である。
ベトナム戦争でアメリカは、旧ソ連、中国から石油をはじめとする多くの補給、支援を受けていた北ベトナム軍と、ジャングルで戦わねばならなかった。つまり東西冷戦時代の戦争だった。
これに対し、イラク戦争は、東西冷戦が過去のものとなり、アメリカが一人勝ちを果たした中での戦争であった。「9・11」同時テロ自体、アメリカ一人勝ち状況へのイスラム・テロリズムの挑戦であった。同時に、「9・11」ショックの中で、その報復として、議会・世論の多数の支持を得て、ブッシュ政権が事実上単独でイラク戦争を始めることができたのも、同じアメリカ一人勝ち状況のおかげだった。日本はもとより、欧州もロシアも中国も誰もそれを阻止できなかったからである。
ベトナム学習の落とし穴
にもかかわらず、ブッシュ政権のみならず、ISG報告書さえ、いまイラクからの「出口」として描き、目指しているのが、あの「ベトナム人化」と同じ「イラク人化」である。今回、詰め腹を切らされたラムズフェルド前国防長官も二〇〇三年秋の段階から早々と、アメリカの最大の任務だとして、この「イラク人化」計画、つまり各種のイラク人治安部隊の増強、訓練のための支援計画を打ち出していた。ラムズフェルド前長官が「必要なのはアメリカ軍の増派ではなく、イラク人部隊の育成のための援助であり、イラク人が自らの手で自らを守れるようになれば、我々はそれだけ早く引き揚げることができる」(二〇〇三年九月二十九日付『WSJ』紙寄稿)と述べて、治安維持のためには、まずアメリカ軍部隊の増派が必要だとのネオコン・グループの主張と対立し始めたのも、このころである。
ラムズフェルド前長官は、かつては彼の部下であったチェイニー副大統領と共に、ニクソン─フォード政権時代というベトナム戦争の収拾期をホワイトハウスで過ごしており「ベトナム人化」によるベトナムからの「名誉ある撤退」の実績をいやというほど学習していた。いまアメリカがイラクで迷い込んでいる袋小路の一つが、この「イラク人化」というベトナム学習効果だと思う。
私は、旧サイゴン陥落までの三年間を共同通信特派員としてバンコクを基地にインドシナ各地を取材し、アメリカがニクソン─フォード政権のもとで実行に移した、アメリカ軍を南ベトナム政府軍によって肩代わりさせる「ベトナム人化」構築のプロセスを目撃している。
いま振り返れば、グエン・バン・チュー親米政権を切り捨て、北ベトナムに引き渡すための巧妙な「出口」戦略と断定することも可能な、からくりの一幕であった。それまでの「世界の警察官」の義務としての「ベトナム共産化阻止」というスローガンとは裏腹に、アメリカ軍の撤退を実現し、正当化するためだけのなりふり構わないシナリオに接した記憶はいまだに生々しい。
私は、来年の第1四半期までに大部分のアメリカ軍戦闘部隊を撤退させるために、イラク自らの治安能力の強化、つまり「イラク人化」が必要だとして、アメリカ軍事顧問団の増強と、そのイラク軍、警察部隊の中隊レベルまでの「埋め込み」を勧告するISG報告書の行間に、あの時と同じアメリカの内向きのエゴイズムを感じる。
その証拠を示そう。ISG報告書は、これまでアメリカ国内でタカ派、ハト派の双方から出ている三つのオプションに「ノー」の答えを出している。
まずネオコン・グループ、そして共和党の次期大統領候補指名争いに名乗りを上げているマケイン上院議員が要求している、首都バグダッドの治安回復のためのアメリカ軍の一時的な増派案を、アメリカ軍全体の兵力不足とイラク国民の政治的和解達成に逆効果であるとの理由で拒否している。逆に民主党のリベラル派が主張する即時撤退論も、「事を始めた」アメリカが、急に「引く」のは無責任であり、イラク国内の宗派間対立の激化を招き、やがてアメリカ軍が帰ってこなければならなくなる──と拒んだ。そしてバイデン次期上院外交委員長が主張するクルド・シーア・スンニの三派による分割統治構想も、境界線の設置が不可能で、隣国の介入を招き、中東全体の混乱を生む──と退けた。そして第一の勧告としてイラン、シリアとの直接交渉、イスラエルとパレスチナ、レバノン、シリアとの和平交渉の再開などの「外交攻勢」を提唱している。
要するに、アメリカが改めて責任をとり、面子を失うような事態を回避し、ひたすら「イラク人化」と政治的・外交的な努力の中で「出口」を確保しようという路線である。これまでブッシュ大統領が乗ってきたネオコン・グループの主張、すなわちイラクを手始めにやがては中東全域に民主主義の「ビーコン」を灯し、テロの土壌を払拭することがアメリカの責任であり、義務である──との強烈な使命感を伴ったイデオロギー路線とは、一八〇度異なる現実主義の処方箋である。三十数年前、私はインドシナの地で同じ変身を見ている。
「名誉ある撤退」のための切り捨て
当時、取材した行事の一つに、七三年三月二十九日、旧サイゴン近郊のタンソニュット空港で行われたアメリカ軍撤退式がある。南ベトナム高官や軍幹部の冷ややかな視線の中で去っていく最後のアメリカ援助軍司令官ウェイアンド大将以下のアメリカ軍部隊に、立ち会いの北ベトナム軍将校が愛嬌をふりまき、輸送機に乗り込む最後のアメリカ兵には、ホー・チミン大統領の絵葉書と竹のすだれ細工を贈っていた。
このアメリカ軍撤退式は、その年の一月、チュー大統領の大抵抗にもかかわらず、キッシンジャー国務長官の強引な交渉の結果、アメリカと北ベトナムとの間で調印された、パリ和平協定という名の取引の一部であった。三日後には、現在のマケイン上院議員を含むアメリカ軍捕虜四〇〇人のハノイからの帰国が完了する。停戦、アメリカ軍撤退、相互の捕虜釈放──というプロセスが「ベトナム人化」計画の成功の名のもとで「名誉ある撤退」として演出された一幕だった。
「ベトナム人化」計画とは、一九六八年の大統領選挙で、ケネディ─ジョンソンと続いた民主党政権がベトナム反戦デモと反体制運動の高まりの中で自滅、「法と秩序」のスローガンでホワイトハウス入りを果たしたニクソン大統領が編み出したベトナム「出口」戦略だった。民主党政権から引き継いだ「勝ち目のないベトナム戦争」の現実に対して、「北ベトナムからの侵略ははね返した。南ベトナムに対する約束は充分守った。アメリカ兵の血は十分流れた。これ以上流さない。あとは自らを守れるようになった南ベトナム政府軍にバトンを渡せばいい。彼らを米軍事顧問の手で強くすればよい。決して負けて帰るのではない」との論理で組み立てられた。
ニクソンは、まず毛沢東との握手による米中和解の達成という大芝居で舞台を整えた。そのうえで「南ベトナム政府軍の立場を強くし、その不安を取り除くために」との理由で、北ベトナムへの爆撃強化、ラオス、カンボジアへの進攻といった実質的な戦火拡大を躊躇なく行った。アメリカ軍のベトナム戦争戦死者の半数近くを占める二万七六二三人の血が、ニクソン政権下、特にその訪中後の「ベトナム化」計画推進政策のもとで流された。
反戦運動を封じ込め、保守化した中産階級の支持を固め、ウォーターゲート事件の影の中での自らの再選を確実にするためにも、このベトナムからの「名誉ある撤退」という「出口」の確保が至上命令だったからである。
したがって、アメリカ軍の撤退完了後、アメリカ連邦議会はインドシナでのアメリカ軍活動費の支出禁止、対南ベトナム政府援助に十億ドルの上限設定と南ベトナム政府軍の支援、すなわち、「ベトナム人化」計画に足かせをはめる決議を次々と可決、大統領の拒否権まで覆す。一九七四年八月八日、ウォーターゲート事件で大統領辞任に追い込まれたニクソンが、最後に署名した法案の一つが、この十億ドル上限法であった。しかし、その十億ドルも、ニクソン辞任後には、七億ドルに削られた。ニクソンが秘密のうちに続けていたカンボジア領内のホーチミン・ルートに対するB52の爆撃も議会決議で打ち切られる。
こうして一九七五年新春、南ベトナムへの浸透を十分に果たした北ベトナム軍の一方的な制圧作戦が始まり、「ベトナム人化」した親米政権軍は、あっという間に崩壊、古都フエ、ダナン、そしてサイゴンと、将棋倒しのように陥落、アメリカ大使館屋上からのアメリカ軍救出ヘリに群がる脱出ベトナム人の惨状をテレビ映像が全世界に伝えた。
「ベトナム人化」の名分のもとで、親米政権を見捨て、北ベトナムによる南ベトナムの吸収というプロセスを受け入れることによって、アメリカの「出口」戦略が完結した日でもあった。先に述べたように、いま、イラクに第二の北ベトナムはいない。ベトナム戦争とまったく「似ていないところ」である。
米軍事顧問の安全は?
ISG報告書が、その二十一番目の勧告で、イラクのマリキ政権に厳しく注文をつけ、「イラク政府が民族和解、治安、統治の維持などの目標達成に具体的な進展を示さない場合には、アメリカはイラク政府に対するその政治的、軍事的、経済的な支援を減らすべきである」と明言している事実に、私はニクソン・ドクトリンの論理の再来を感じる。案の定、タラバニ大統領をはじめとするイラクの政府首脳がこれに激しく反発した。七三年のパリ和平協定締結以来、キッシンジャー国務長官と南ベトナムのチュー大統領との間で、サイゴン陥落まで続いた激しいさや当てを知る私としては、また同じ道が始まったのかと思う。
しかし、「イラク人化」によって、「ベトナム人化」で成功したのと同じ「出口」戦略を描くことが不可能である現実の中で、いまイラク軍に顧問として配属されるアメリカ軍将校の間では、そもそもイラク軍や警察官の中にイラク人という意識があるのかどうか、シーア派、スンニ派といった宗派意識が先行しているのではないか、という軍事顧問としての仕事に対する根源的な懐疑心が広がっているという。
そして、現在約四〇〇〇人の顧問団を約一万人に増やそうとしているアメリカ軍幹部を一番悩ませているのが、イラク軍に「埋め込まれる」アメリカ軍顧問団自らの安全をどうして守るのか、具体的にはアメリカ軍顧問に対する自爆テロ攻撃をどうして防ぐか、一人一殺の狂気のテロをどう阻止するか、といった課題だと、『WSJ』紙バグダッド特派員は伝えている。現在検討されている案は、二〇人単位で行動する案だという。ベトナム戦争末期、特に七三年のアメリカ軍撤退後も現地に残ったアメリカ軍事顧問団は、とても部隊に「埋め込まれる」状態ではなく、独自に行動し、サイゴン陥落までの崩壊期には、一番先に撤収したことはよ
く知られている。
こうしたアメリカ一人勝ちの中での「受け皿」のないイラク戦争をめぐるアイロニーの、終わりのないサイクルを知ってか知らずか、ブッシュ大統領はISG報告書の発表前、「われわれは決して優雅な出口など求めない」と述べた。しかし、いまアメリカにとって、党派を超えて、優雅であるか否かを問わず、「出口」を見つけること自体、容易ではない。
早くも十九ヵ月後に迫った次期大統領選挙の行方が「アメリカという国」にとって、決定的に重要な意味を持つことになるゆえんである。
(中央公論 2007年2月号掲載)