2010_09_沖縄現地で見た日米同盟の暗闇 ──見えない「出口」をどう構築するか──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」(二〇一〇年九月号)

 

沖縄現地で見た日米同盟の暗闇

—見えない「出口」をどう構築するか—

 

ジャーナリスト 松尾 文夫

 

 今回の時評は、今までにない暗い気持ちの中で書くことになった。六月中旬、毎日新聞の対談企画で三十八年ぶりに沖縄を訪れ、普天間基地移転問題の解決を完全にブロックしている現地の怒りに直接触れることになったからである。鳩山前首相の「少なくとも県外移転」との食言が火をつけた怒りは、いまや党派やイデオロギーを超え、沖縄の人々の心に深く染み込み、激しく燃えさかっている。

 このため、鳩山辞任という代償が支払われたうえで、辺野古地区移転を改めて確認した五月の日米共同声明の実現も風前の灯と言っていい。わざわざ「いかなる場合でも」とまで明記した工法についての八月末までの専門家合意も、滑走路のV字型・I字型の両論併記でお茶をにごすことになりそうだからである。つまり、九月の辺野古地区が属する名護市の市議会選挙、十一月の沖縄知事選挙の結果を見なくては、何事も決まらないという状況である。

 まさに日米同盟そのものが揺るぎかねない状況である。

 

 復帰記念行事に「琉球処分」の芝居

 

 琉球大学のキャンパスで「安全保障、節目の年に—これから五〇年に向けて」と題して一月から続いていたシリーズの最終回として、我部政明琉球大学教授と行った対談は、これを掲載した六月十六日付の毎日新聞朝刊の前書きが「(二人の)認識にはずれがある。しかし、それぞれに理がある。それが明確になったこと自体にこれからの沖縄安保を考えるヒントがある」と紹介したように、静かな「すれ違い」に終わった。

「辺野古移転は実現しない」と言い切る我部教授と、「米軍の沖縄駐留が中国、韓国、台湾、そして北朝鮮まで含めた東アジアの安定に役立っている『必要悪』としての現実を認めたうえで、沖縄は次の日中韓首脳会談などのホスト役など『和解の島』といった将来への新しい展望を構築すべきときだ」との私の持論とは、結局平行線だった。

 実は、私がこうした沖縄の怒りに接したのは今度が初めてではない。三十八年前の一九七二年五月二〇日、つまり沖縄の本土復帰の日から六日目、私は那覇に入り、三日間滞在した。一九六〇年代末の共同通信ワシントン特派員時代、佐藤内閣の元での沖縄施政権返還交渉を熱心に取材した私は、次の任地となったバンコクへの赴任を沖縄経由とすることで上司の説得に成功したからである。ドル円が一緒に流通する市内やベトナム戦争出撃でフル稼働する米軍基地などを夢中になって取材した。普天間基地は今とは違って周辺の人家もまばらで、ただの滑走路という印象だった。

 その最終日、地元紙の記者に日の丸よりも「沖縄県」ののぼりが目立つ目抜きの国際通り横の劇場にどうしてもと連れて行かれた。なんとそこでは、本土復帰記念行事の一つとして、一八七九年のいわゆる「琉球処分」、明治政府が軍隊、警官隊を九州から派遣して強行した琉球王国を沖縄県として併合する歴史のハイライト、首里城明け渡しの一幕が琉球伝来の方言「ウチナーグチ」で演じられていた。その記者の通訳なしではまったくわからなかった。今から考えれば、現在の沖縄の「レジスタンス」の原点に触れたのだったと思う。

 

 「琉球王国」の実績をバネに

 

 一般住民に軍隊を上回る十数万人もの犠牲者を出した沖縄戦の悲惨な終末の舞台となった魔文仁の丘に立つ沖縄県平和祈念資料館。そこではこの「ウチナーグチ」の使用を厳しく禁じ、罰として大きな「方言札」を首から下げさせた本土化の教育から始まり、祖先信仰の地での神社建立強制、沖縄固有の三文字姓を本土型の姓に改姓改名させた運動まで、「皇民化」の過程が細かく展示されている。「ひめゆり部隊」や「健児隊」の悲劇は、まさにこうした「皇民化」路線の結果だった。

 鳩山食言が火をつけたのは、ここまでさかのぼる積年の怨念である。そして、同時にさらしてしまったのが、その沖縄に本土復帰後も米軍基地を集中させて、経済大国の?栄をおう歌してきた「日本という国」、そのアメリカとの安保体制、同盟関係のもろさである。

 どこに出口があるのだろうか。簡単な答えがあるわけがない。しかし、あえて本土の人間としての反省を前提に発言すれば、沖縄が日本、中国、朝鮮半島、そしてアメリカとも共生し(ぺリー提督は一八五四年、日米和親条約調印の帰途、那覇で琉球王国との間に同様の和親条約を締結している。那覇市内には「米国人は琉球人の永遠の友人である」との同提督の言葉が彫られたぺリー提督上陸記念碑がある)、東アジアの平和な緩衝国としての役割を果たしてきた琉球王国時代の実績に「先祖返り」する発想の中に、突破口があり得るのではないか—と私は考える。積年の怨念を前向きのエネルギーに転化させるアプローチである。

 ここで、はっきりさせておきたいのは、沖縄の米軍基地は最大限の「負担軽減」を実現させたうえで、形はどのようなものであれ、やはり「必要悪」として不可欠な存在だという点である。一九七二年のニクソン—毛沢東の握手が「日米安保体制が日本の再軍事大国化を防いでいる」、つまり沖縄基地は東アジアの安定剤であるとの論理を双方が受け入れた結果、実現した事実は、今も忘れてはならない。その中国がいまや自らの軍事力の傘を東アジア、さらに南シナ海へと広げようとしている。沖縄米軍基地は、皮肉にも二重の意味で安定剤としての役割を果たすことになる。

脱稿前、ルース駐日米大使が八月六日の広島原爆慰霊式典に公式参加するとの朗報が入ってきた。私がかねてから提唱する日米、そして近隣諸国との「歴史和解」の実現のための小さな一歩である。沖縄も「和解の島」として、その大きなうねりの中に加わってもらわねばならない。

(二〇一〇年八月二日記)

© Fumio Matsuo 2012