1997_09_タイガー・ウッズのアメリカ(月刊文藝春秋・巻頭随筆)

『文芸春秋 1997/09』

タイガー・ウッズのアメリカ

 

松尾文夫

 

 タイガー・ウッズの話題に接するたびに、そのゴルフよりも米国という国のエネルギーといった重いテーマを考えてしまう。

 きっかけは、四月に出張先のニューヨークのホテルのテレビで見たマスターズ制覇直後の表彰式だった。ウッズがあいさつやインタビューで、米ゴルフ界での黒人差別の壁を大舞台で破ってみせた喜びをあらわにしながらも、終始冷静で、余裕たっぷりだったからである。なに一つ高ぶりの気配をみせず、テレビの司会者やゲストの方が「歴史的、歴史的」と興奮し

ていた。差別を克服した苦労のあとはどこにもなく、聡明さと自信がにじみ出たエリートの顔だった。

 たまたま次の日、ニューヨーのシェイ・スタジアムでメジャー・リーグ初の黒人選手、ジャッキー・ロビンソンを偲ぶ会がクリントン大統領も出席して盛大に開かれた。大統領は前夜、大統領専用機の提供まで申し出て、ウッズの参加を求めたという。しかし、ウッズはこれを断った。

 大統領とも、差別撤廃の運動とも一線を画し、ゲットーの少年野球教育基金のためにと、莫大なコマーシャル収入をひたすら積み上げる手堅さと使命感──このウッズの独特のスタイルは、米スポーツ界がこれまでに生み出してきた数々の黒人ヒーローたちにないものだ。一味も二味も違う。

 ワシントン在住の長年の米国人の友人にこの観察を伝えると、「サラダ・ボール国家としての米国の生き方が定着して来た証拠だ」との答えが返って来た。国民一人一人がそれぞれに異なる人種や民族や肌の色を認め合い、自らのルーツを大事にしながら、いろいろな色や形の野菜が混り合うサラダ・ボールのように共生していこう、という考え方で、一九七六年、アレックス・ヘイリーの「ルーツ」がベストセラーになったころから広まりだした、という。

 二十一世紀中には、白人が数のうえではマイノリティーになる。米国は永久に多民族国家として生きていかざるを得ない。この誰の目にもはっきりしている現実のなかで、人種対立をたな上げ出来るサラダ・ボールの比喩は都合のいいスローガンとなりつつある。おかげで、かつての米国社会統合のキー・ワード、メルティング・ポット(米国への移民はそれまでの生活を絶ち切って米国というルツボに同化し、星条旗に忠誠を誓うというテーゼ)は、いまでは死語に近い。

 従って、このサラダ・ボール時代では、黒人は「アフリカン・アメリカン」と呼ばれる。いまや大統領をはじめ公式の場ではほとんどの人が使う。メディアも同様である。インディアンの血も混った黒人の父と中国系の血を引くタイ人の母を持つウッズは「アフリカン・アンド・エイシャン・アメリカン」である。

 優勝のたびに、必ず最初に父や母と抱き合い、母の国タイを大切にするウッズは、まさにサラダ・ボールの優等生である。一九七六年、父親がウッズの誕生直後から始めたゴルフ英才教育の軌跡は、米国社会のサラダ・ボール化の進行と歩みを同じくする。その意味で、ウッズは米ゴルフ界の差別とは戦ったとしても、自らの生活ではほとんど差別とは無縁の人生のはずである。ウッズに漂うエリート臭の秘密がここにある。

 つまり、サラダ・ボール社会では、非白人のマイノリティーからは、数々の優遇措置のおかげもあってエリートが輩出する。しかし、人種の対立そのものはシンプソン事件のように深く沈澱し、あとに残る。マイノリティー内部での貧富の差も拡大する。それにサラダ・ボールそのものに入れないマイノリティーが大都市のゲットーにあふれている。クリントン大統領が二期目のお題目に、教育改革と同時に人種融合を掲げるゆえんである。

 ただ、サラダ・ボール社会で一つだけはっきりしている効能がある。競争のエネルギーが生まれていることである。米国建国以来の移民による競争の伝統に、非白人マイノリティーを含めた競争が加わり、より多様化し、激しいものになっている。

 既成の経済理論では説明がつかなくなって来たといわれる現在の米国経済の快進撃は、こうしたサラダ・ボール社会のマルチ人種のマルチなエネルギーとその競争によって支えられている。インフレを起こさない秘訣、安いコストの労働力を常時供給する構造が出来上がっているからである。「ノー・ワーク・ノー・ウェルフェア」(働かざるものに福祉なし)のスローガンのもと、いまクリントン政権が弱者切り捨てによる財政改革という共和党も顔負けの荒療治に成功しつつあるのは、好景気継続のおかげだといわれる。しかし、その経済の好調は低賃金をいとわないマルチ人種の競争原理によって下支えされているわけで、その辺が米国ならではのふところの深さである。

 とにかく、米国を訪れるたびに感じるのは、マルチ人種パワーの定着である。寿司に続いて、タイ料理、ベトナム料理も市民生活のなかに根を下ろした。ハーレムにも黒人の一流ジャズバンドが演奏する店が戻って来た。最近のクリントン政権をめぐる献金疑惑でも、名前が出て来るのはアジア系の金持ちたちばかりで、これもマルチ人種の活力のあらわれだと皮肉る友人もいた。一昨年の野茂にはじまり、長谷川、柏田、そして伊良部と続くメジャー・リーグでの日本選手の活躍も、この一部としてごく自然に受け入れられている。

 私は一九六〇年代後半の最初の米国特派員時代、マルコムX暗殺(六五年二月)、ロサンゼルスのワッツ暴動(同年八月)、キング師暗殺後のワシントン暴動(六八年四月)──と黒人と白人のむきだしの憎悪がぶつかり合う現場を直接取材した。ブラック・パワー運動の指導者の一人、ストークリー・カーマイケルとのインタビューでは、いきなりネクタイを握られ、「日本人なのになぜ白人と同じ格好をするのか」と問い掛けられた経験もある。

 あれから三十年、米国はまだまだ多くの悩みをかかえながらも、あの人種対立の憎悪を競争のエネルギーに転化させるところまで来た。サラダ・ボール社会が妥協の産物であったとしても、よくここまで持って来た、とつくづく思う。一九六八年のメキシコ五輪では、メダルを手にした米黒人選手が表彰台のうえで米国歌と星条旗の栄誉を受けるのを拒否した。いまでは、星条旗をかかげての米黒人選手のウイニング・ランは五輪の風景の一部である。

 米国は、ウッズのゴルフと同じように、このすさまじいマルチ人種のエネルギーによって、ポスト冷戦時代の新しいかたちのスーパー・パワーとして生まれ変わりつつあるのではないか。日本のみならず、世界中の人種、民族のエネルギーを飲み込もうとしているのではないか。いま米国から迫られている第三の開国では、かつての黒船来航、マッカーサー占領時以上の覚悟が必要なのではないか。

 ワシントンから成田に向かって飛ぶANA直行便の機中で、私はこの問いにこだわり続けた。

© Fumio Matsuo 2012