2003_03_「アメリカという国」を考える(その五) ──気になるマッカーサー人気──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

渋沢青淵記念財団竜門社

機関誌「青淵」(二〇〇三年三月号)

 

「アメリカという国」を考える(その五)

─気になるマッカーサー人気─

 

松尾文夫(ジャーナリスト)

 

 

 昨年の五月、九月に続いて一月中旬、またアメリカの取材旅行に出ている。ニューヨークからバージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館訪問を経て、国連イラク査察団の安保理報告、ブッシュ大統領の年頭教書を前に緊張するワシントンに入った。ホワイトハウスにほど近い十七丁目のホテルでこの原稿を書き始めている。今国は、続けていた「アメリカという国」の「建国遺伝子」追求をお休みして、旅の報告をお届けする。

 

 

 対イラク武力行使では国論一致

 

 当然のことながら、連日零下十度台という厳しい寒波のなか、ニューヨークでもワシントンでも、対イラク武力行使をめぐる論議が熱っぽく論じられている。新聞やテレビで洪水のように流れる情報に接しながら、いろいろな人と会い、話していると、イラクのサダム・フセイン大統領とその政権の排除、すなわち「レジーム・チェンジ」(政権交代)のためには武力行使も辞さないという点では、国民多数の声が一致していることがよく分かる。

「九・一一」の深いショックの結果、アメリカの将来の安全のために、フセイン政権による大量破壊兵器開発と使用の可能性という「恐怖の芽」を早くつみとるためには、あえて「先制攻撃」を含めた武力行使も辞さないとの明快なブッシュ・ドクトリンへの支持は揺らいでいない。日本にいると、なかなか伝わってこないアメリカの素顔である。

 そのうえで、いま意見が分かれているのは方法論である。あえてアメリカ単独の武力行使に踏み切るのか。国際的にも、国内的にも支持が多い国連決議という錦の御旗をかかげる手順を踏むのか。軍事包囲網を固めることで「亡命」などフセイン大統領の自滅を待つ策に出るのか。さらには、ポスト・フセインのイラクの民主主義化という「ネーション・ビルディング」(国造り)を突破口に中東の新秩序づくりまでコミットするのか。このあたりが、早くも一年後に迫った大統領選挙戦への思惑も含めて、まさに百花斉放といった感じでさまざまに論じられている。しかし、その落ち着く先は本号が皆さんのお手元に届く二月末には、かなりはっきりして来ているはずである。またいずれ、その辺は分析させていただく。

 私がいま報告しておきたいのは、このアメリカ国内でのイラク論議で、どんなかたちであれ、フセイン政権が排除されたあとの米軍などの「占領」モデルとして、太平洋戦争後のマッカーサー元師による日本占領がしばしば取り上げられている、という事実である。日本の軍部独裁の軍国主義はマッカーサー占領によって見事に民主化したではないか、というわけである。私は今回、たまたま日米関係の資料集めの一つとしてノーフォークのマッカーサー記念館を訪問、デービス館長、アーカイビストのゾベル氏と会い、元帥夫妻のお墓もある館内を見学して来たこともあって余計に感慨深い。

 

 

 特別な将軍による日本占領

 

 いまマッカーサー占領の成功を一番口にするのは、昨年の年頭教書での「悪の枢軸」路線以来、対イラク強硬方針に傾斜したブッシュ大統領に強い影響を与えているとみられている通称ネオコン(新保守主義者の略)、または新帝国主義者と呼ばれるグループである。例えば、その若手の論客で、外交問題評議会の上級研究員のマックス・ブーツ氏は昨年秋、私とのインタビューで「第二次大戦後の日本がマッカーサー占領で民主化したのと同じことをイラクでやるのがアメリカの義務である。しかし、現在の米軍部内には、かつてのマッカーサー元師、同じくドイツ占領で成功を収めたクレイ将軍のように、有能な行政官も兼ね備えるような有能な軍人が育っていないことが問題だ。ウエスト・ポイントとアナポリスの教育に問題があるのかもしれない」と語っていた。

 要するに、対イラク武力行使は親米政権のテコ入れをはかったベトナム型ではなく、ナチスや日本の軍国主義を打倒した第二次大戦型と受けとめる考え方の延長線で出て来る発想である。こうしてマッカーサーの名前はこれからの対イラク政策の展開のなかで、キーワードの一つになろうとしている。

 国民学校六年生で敗戦を迎え、マッカーサー占領下で中学、高校時代を過ごした私は、いま四十年にわたってジャーナリストとしてアメリカを追いかけた経験のうえで、いま一つの仮説を立てつつある。

「マッカーサー占領」は果たして「アメリカの占領」であったのかどうか。むしろそうではなかったのではないか。マッカーサーという当時のアメリカ軍部のなかで極めて特別な一将軍の占領ではなかったのか──といったアングルである。マッカーサー記念館訪問もその調査のためだった。

 とりあえず、マッカーサーが一九三五年、マニラに米軍司令官として赴任してから一九五一年四月、トルーマン大統領によって解任され帰国するまで、第二次大戦、朝鮮戦争をはさんで十六年間、一度も米本土の土を踏まなかった事実を記念館で確認して来たことだけを報告しておく。ワシントンからの何回もの要請を断り続けてである。やはり普通の将軍でなかったことは間違いないと思う。ちなみにいま、小泉改革の推進を強く期待するアメリカの対日政策強硬派の結論は、かねてから「マッカーサー占領は日本を変えなかった」というものである。

 そのマッカーサー占領をモデルにするところにも、対イラク「ネーション・ビルディング」路線の危うさが浮き彫りにされていると思う。毎度のことながら、重い気持ちになってワシントンからのANA直行便に乗った。

© Fumio Matsuo 2012