渋沢青淵記念財団竜門社
機関誌「青淵」(二〇〇三年六月号)
「アメリカという国」を考える(その八)
─チェイニー、ラムズフェルドとの出会い─
松尾文夫(ジャーナリスト)
一ヵ月足らずでフセイン打倒を実現してしまった「ブッシュ・ドクトリン」の実行力を目の当たりにして、いま前号で触れたネオコン(新保守主義者)論議がかしましい。今後、彼らがこの調子で、どこまでブッシュ政権を引っぱっていくのか、と心配なのだと思う。私もいろいろなメディアからインタビューを受けることしきりである。
しかし、折角のインタビューで言いたいことのすべてが伝わるとはかぎらない。その一例が、ブッシュ政権の実力者、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官とネオコンとの関係である。確かに二人とも考え方はネオコンに近く、彼らの政策提言集団「新しいアメリカの世紀のための計画委員会」(PNAC)の設立声明にも署名している。
しかし私は、二人は「ネオコン」そのものではなく、きわめて優秀な「能吏」だととらえておくべきだと思う。こう言いきるのも私自ら、かつてチェイニー、ラムズフェルド両氏と直接触れ合った経験を持つからである。
ラムズフェルドは恩師
話は一気に三十四年前の一九六九年九月の下田にさかのぼる。現国際交流センター理事長の山本正氏のさい配で開かれた第二回日米民間人会議、通称下田会議で、当時三十七歳、シカゴ選出の下院議員四期目でニクソン新政権の経済機会局長に就任したばかりのラムズフェルド氏を取材した。彼より一歳下の私は、共同通信ワシントン特派員としてニクソン政権の誕生を見届けて帰国したばかり。会議の議事終了後、山本氏らと下田市内のすし屋に出掛け、ニクソン政権談議に花を咲かせた。プリンストン大卒で元海軍のパイロット。オール海軍のレスリングチャンピオン──と、ラムズフェルド氏は絵に書いたようなパワー・エリートの自信と野心に満ち満ちていた。
再会したのは十二年後、一九八一年五月。シカゴ郊外にある製薬会社G・D・サールの社長室。私が共同通信支局長として二度目のワシントン勤務に向かう途中、わざわざ立ち寄ったもので、発足したばかりのレーガン政権の全体像をきちんと教えてくれるワシントンのニュース・ソースを紹介してほしいと頼み込んだ。ラムズフェルド氏は下田での一別後、ニクソン・ホワイトで重用されたあと、七三年からは駐NATO大使に就任。これが幸いしてウォーターゲート事件には巻き込まれず、七四年のフォード政権発足と同時に首席補佐官、一年後には史上最年少の国防長官に就任。しかし七六年の大統領選挙でフォードがカーターに敗れたあと、野に下り、同社社長のポストにあった。
快く私の頼みを聞いてくれた彼が即座に秘書に命じて呼びだしたのが、当時のチェイニー下院議員のオフィスだった。「ニクソンについての本を書き、ニクソン回顧録も訳した男だ」と丁寧に紹介してくれ、下院議員会館の電話番号と秘書の名前まで書いてくれた。手抜きをしない、親切で手堅い人だと思った。ワシントンに戻ってこないのか、と聞くと「いつかはね」と片目をつぶってみせたのをいまでも覚えている。
チェイニー議員は、すぐ会ってくれた。当時四十歳、打てばひびくという表現がぴったりで、これは大変なやり手だということが一目見てわかった。最初から打ち解けて、「ラムズフェルドは私のメンター(恩師)。彼のいうことなら、なんでも聞く。どんどん質問してくれ」とおどけてみせた。
ワイオミング大卒業後、ニクソン・ホワイトハウスでの研修生を経て最初に得た職がラムズフェルド氏の特別補佐官のポスト。つまり、日本流にいえば親分子分の関係である。この関係が、副大統領と国防長官と序列が逆転したいまも続いていることを忘れてはいけない。
フォード政権ではラムズフェルド氏のあとの首席補佐官に抜てきされた。フォード落選後、下院議員に転じて当時は二期目、結局私の八四年までの勤務中、四回会った。いつも親切で、的を得た答えが返ってきた。
「レーガンを馬鹿にするな」
一番印象に残っているのは、彼が「レーガンを馬鹿にしてはいけない。反共思想、保守主義の原点に忠実で、ソ連を"悪の帝国"などと激しいことばで決めつけるが、実際の行動は現実的で、最後のところでは安心していられる。米国が対ソ軍事抑止力を回復させた結果、ソ連との交渉が可能となっている。レーガンは冷戦の激化ではなく、その終結を目標としている」と繰り返し語ってくれたことである。当時、日本ではレーガンを「二級の俳優上がり」と馬鹿にする人が多かった。私にどれだけ大きな価値があるコメントだったことか。
このチェイニー氏は、ブッシュ父政権で国防長官をつとめ、パウエル現国務長官(当時は統合参謀本部議長)と組んで湾岸戦争を仕切ったのは周知の事実。いま再びラムズフェルド氏との師弟関係を復活、レーガンの「強いアメリカ」の成功物語の再現を説くネオコンの主張にうなずく彼の姿が目の前に浮かんでくるようである。そして、見逃してはいけないのは、このコンビが下院議員を経験した「政治家」であるということである。理論家集団であるネオコンとは一味も二味も違う、伝えられるパウエル氏との確執も最後はブッシュ大統領をたてて折り合って来ていると思う。
断っておくと、この二人との接触は、残念ながら私がワシントン勤務を終えた八四年以降、切れている。二人とも十九年の年月のなかで変わったかもしれない。成功の足元で、そのおごりによって墓穴をほる故事を繰り返すのかもしれない。
しかし、テレビでみる二人、とくにチェイニー氏はめっきり老けたものの、その発言の「切れ味」の鋭さは昔のままである。レーガンと同じように、最後のところでは、「安心していられる」ようであってほしい。