2005_04_「こころの一冊─米国憲法略義 高木八尺」(日本エッセイスト・クラブ/文藝春秋)

米国憲法略義 高木八尺

 

松尾文夫

 

 

 ブッシュ大統領と民主党のケリー候補が激しく競った二〇〇四年アメリカ大統領選挙戦が最終段階を迎えていた十月下旬のある朝、わが家のケーブルテレビ・チャンネルでアメリカのCNNをみていたら、有権者参加の討論番組が始まった。共和党・民主党双方の口達者な選対責任者が、スタジオ内に座ったさまざまな階層、人種で構成された市民からの質問に答える仕組みで、フロリダからの生中継だった。番組の最後になって、女性の司会者が二人の選対責任者に対し、「これだけ両党の対立が深いと、どちらが勝っても、選挙後のアメリカがまとまっていけるのかどうか心配だという意見が多いが」と水を向けた。

 民主党側は「ケリー大統領となれば、和解の政治をやる。心配ない」とそつなく答えていた。しかし、「荒野の七人」などの故スチーブ・マックィーンに似た共和党氏は、「心配する必要はない。われわれの国はこれまで多くの激しい対立を克服して来ている。南北戦争がそうだったし、そもそもアメリカの独立革命そのものがそうだった」といいはなった。これには、参加者の一部からブーイングに似た声が起こり、当の共和党氏も、「すこし楽観的すぎるかな」とてれ笑いでとりつくろっていた。

 私はいまもこの場面を生々しく覚えている。アメリカ社会の二極化を懸念する声に対して、南北戦争と独立革命を持ち出して安心させようとするところに、「アメリカという国」の素顔がぽろりとのぞいたな──、と強く印象に残ったからである。その二週間後、アメリカ国民の多数はブッシュ大統領を再選する道を選択した。上下両院、そして全米五十州の知事も、多数派としての地位の継続を認めた。あの選対氏の発言は、アメリカ国民によって信任されたと思わねばならない。

 この素顔とはなにか。私は、自由と平等の精神を高くかかげるアメリカの民主主義が、現在の二極化のような対立を妥協によって調整する政治制度を持つ一方で、その対立の最終的な決着のためには武力の行使も辞さず、いとわず、ためらわない二つの顔を持っていることだ、と思う。

 特に、私は、このアメリカ民主主義に埋め込まれた武力行使のDNAにこだわり続けている。敗戦直前の昭和二十年七月、国民学校六年生だった私は、墳墓の地の福井市で、B29百二十七機の夜間無差別焼夷弾爆撃を受け、欠陥親爆弾のおかげで九死に一生を得た原体験を持つからである。

 この「アメリカという国」の二つの顔をはっきりと理解するためには、アメリカ建国期の政治インフラ、すなわちアメリカ合衆国憲法までさかのぼるのが手っとり早い。すべてに答えてくれるからである。私が「こころの一冊」に、高木八尺著「米国憲法略義」(有斐閣、昭和二十二年六月初版)を選んだ理由である。

 「米国憲法略義」は、日本のアメリカ研究のパイオニアであった故高木八尺先生が東大時代の一九三一年に発表した「米国政治史序説」に附録としてつけられたアメリカ憲法全文の文語訳が基礎となっている。それに各条項ごとの注釈を新たにつけ加えられただけのコンパクトな内容で、末尾の原文と索引を入れてもわずか百二十三ページの小冊子。

 「昭和二十一年十月中旬」、つまり日本の敗戦から約一年二カ月後の日付で書かれた同書の「序」で、高木先生は「今日諸般の事情は、米国憲法参考の必要を普く感ぜしめる──手頃の小冊子として普及に便ならしめんとすることを目的とする」と書いている。「諸般の事情」とは、アメリカによる占領のことだと思う。日本では、「進駐軍」というまやかしのことばがいまだに使われているものの、実態は現在のイラクと同じアメリカ軍の占領下、「支配者」としてのアメリカと向き合っていた時代に、その憲法を知ろうと静かに呼びかけた高木先生の思いが伝わってくる。

 しかも、私は、高木先生に学習院大学で「アメリカ政治史」の講義を聞き、個人的にも親しく指導を受ける幸運を得た。結婚式にも出席していただいた。ジャーナリストとしてアメリカを追い続けて来た私にとって、「米国憲法略義」はお守りのような存在である。共同通信特派員として、ニューヨーク、ワシントン、バンコク、そして再びワシントンと転戦した任地に必らず携行した。いま目の前にあるのは、昭和三十四年発行の第十版で、表紙は黒ずみ、右端のとじ込み部分は、何度もはられたスコッチテープのおかげでかろうじて持ちこたえている。表紙の裏側には、ニューヨークで生まれた長女の最初の落書きと思われる意味不明の丸と線が残っている。

 本題に戻る。あの日のテレビ討論で、あの共和党選対氏が「われわれの国はこれまで多くの激しい対立を克服して来ている」といったのは、決してウソではない。その対立克服のシステムとして機能しているのが、まさにこの合衆国憲法だからである。逆にいえば、アメリカ建国期のさまざまな対立のなかから、その妥協の結果として生まれたのがアメリカ合衆国憲法である。発効は一七八八年。以来二百十七年、二十七回の修正を重ねながら、基幹部分はいまも健在な世界最古の成文憲法である。

 この憲法が出来上がるまで、一七七六年の独立宣言から数えて十二年間、イギリスの正規軍との戦争に勝利を収めて独立を果たした一八八二年から数えても五年間という時間がかかっている。つまり、さまざまな背景と歴史を持つ新大陸への移住者たちがそれぞれに築いた、事実上の独立国だった十三の植民地が、イギリス国王の圧政に連合して反旗をひるがえし、単一の新しい国家の建設を目指す過程では、あらゆる種類の利害の対立を乗り越えなければならなかったからである。その調整に時間がかかったということである。

 具体的には、州政府対連邦中央政府、大州対小州、産業州対農業州、東部対南部、自由州対奴隷州、常備軍と民兵部隊──といった大きな対立枠の調整だった。

 こうして誕生した合衆国憲法は、「妥協の束」と呼ばれた。その特徴は、①旧植民地を州とし、その州権を最大限尊重したうえで連邦制をとる。②外交関係や経済の運営上不可欠となる小さな連邦中央政府を、「必要悪」として設置する。③この連邦中央政府内には、国家元首として行政権を握る大統領、その左右に連邦議会、最高裁判所を配して、三権分立によるチェック・アンド・バランス機能を通じて国民の主権を守る──といったデリケートな調整を身上とする政治インフラであった。

 そして、各州での批准賛否をめぐる討議のなかから、「必要悪」として設置する連邦中央政府の専制化、つまり「新たな国王化」をどうして防ぐかという課題が持ち上がる。そこで、「建国の父たち」は、専制化の懸念を払拭するために、国民一人一人が武器を持って、連邦中央政府の動きを監視するという「国民皆武装」(マディソン、ザ・フェデラリスト第四十六編、斎藤眞・中野勝郎訳、岩波文庫)の権利を含めた権利章典部分を急ぎ追加することで、批准を確実なものにしよう、と考える。憲法発効三年後の一七九一年に陽の目をみた修正十ヵ条がそれである。

 こうして、アメリカ国民がいまも銃を持つ権利を主張し、その規制強化に反対することが可能で、連邦最高裁判所もいまだ明確な解釈を下すことを逃げている修正第二条が、言論、集会、結社の自由を保障する条項などとともに、アメリカ民主主義の正統なDNAとして生み落される。「紀律ある民兵ハ、自由国家の安寧ニトリテ必要ナルを以ッテ、人民の武器を保蔵し又、武装するの権利ハ、之を損フコトヲ得ず」。高木先生の訳による修正第二条全文である。

 現在、全米ライフル協会(NRA)など「ガン・ロビー」と呼ばれる銃規制反対グループが「建国の父が建国に際して神のように手に入れ、つくり上げてくれた権利だ」と称え、その運動の錦の御旗としてかかげる条項である。ブッシュ政権は、百パーセント彼らと同じ立場で、一九九四年に成立したAK47など強力な殺傷兵器の販売を規制した犯罪対策法を最後に、いまアメリカ国内の新たな銃規制は、少なくとも連邦レベルでは完全にストップしている。同法も十年の期限が来た二〇〇四年、「ガン・ロビー」の意を受けたブッシュ政権と議会の反対で、その延長法案は否決されてしまった。

 「九・一一」のショックのなかで、強い大統領として再生したブッシュ大統領が、イラク戦争を始め、その開戦の理由とした大量破壊兵器が一向に見つからず、アメリカ兵の死者も千人の大台を越すといった「逆風」にもかかわらず、堂々と再選を果たす事実は、こうした「アメリカという国」の武力行使のDNAにまでさかのぼって理解するとわかりやすい。

 従って、あのマックィーン似の共和党氏が、二極化克服の根拠として南北戦争の実績を挙げたのも、これまた正しい。

 南北戦争は、一八六一年から六五年までの足かけ五年間、南部諸州を主戦場に戦われたアメリカ史上最大の戦争である。まさに武力行使による対立の決着例であった。南北双方で二百九十万人が参戦、双方の戦病死者数約六十二万人という悲惨な長期の戦争であった。この数字は、その後の第一次、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などすべての戦争の死者を足しても遠くおよばない。

 この内戦の直接の理由は、奴隷制の廃止を求める北部諸州と、これに低抗する南部諸州の衝突であった。しかし、本質的には、合衆国憲法制定時から続いていた連邦制度に対する温度差、連邦中央政府の機能の「必要悪」の度合いをめぐる北部と南部との間の長年の対立が武力によって精算されるプロセスであった。北部、南部の植民地が最後には協力し合って来た「建国の父」の世代が去り、彼らがあみだして来た「妥協」の方式を、第十六代リンカーン大統領があえて拒否、断固として連邦制維持の態度をとったからである。

 とにかく、南北戦争は、「妥協の束」の行き詰まりを、武力行使のDNAの発動によって解決したいという意味で、アメリカ民主主義を象徴するような出来事でもあった。そして、北軍の勝利で終わり、奴隷制廃止が実現し、連邦制を不動のものとした結果、「アメリカという国」は近代国家、世界国家としてのスタートを切る。北部諸州で本格化していた産業革命がこの武力行使の場で百パーセント花開き、鉄道、電信といったインフラはもとより、回転式ピストルの大量生産、連射ライフルなど新銃器、新型大砲、機関銃、潜水艦の登場、さらには「民兵ではない常備軍」としての合衆国軍隊を初めて定着させた選抜徴兵制の実施──と近代戦争のさきがけとなる新技術、ノウハウが誕生した。その意味で南北戦争は、今日の独り勝ち超大国、一大軍事大国としてのアメリカの基礎を築いた戦争であった。

 そしてもう一つ、この南北戦争の結果、合衆国憲法では、下院議員選出の基礎となる各州の人口算定の段階から明記されていた黒人差別が、一八六三年、戦火の中でリンカーン大統領が発した奴隷解放宣言によって、制度的には姿を消すことになる事実にも触れておかねばならない。悲惨な内戦という途方もない武力行使が介在することによってしか、黒人差別というアメリカ民主主義の原罪は、消えなかったわけである。それに直接の殺戮の対象となったネイティブアメリカンの「排除」はまだ終わっていない。「アメリカという国」が持つ武力行使のDNAをめぐる強烈なアイロニーである。

 高木先生は「米国憲法略義」で修正第二条については、なぜかなんの注釈もつけておられない。

 いまイラクに自衛隊を送り込み、政治、経済、軍事のみならず、社会、文化、スポーツ──と生活のすみずみまで「アメリカという国」が入り込んで来ている日本にとって、その「知っているようで知らない」素顔をとらえることは、至上命令といっていい、と思う。

© Fumio Matsuo 2012