『世界と議会 2005/02』
【特別論文】
日本版「ドレスデンの和解」をやろう
──日米間の「歴史問題」も忘れてはならない
松尾文夫
(ジャーナリスト・元共同通信ワシントン支局長)
二〇〇五年は、日本がアメリカと戦い、敗れた一九四五年から六十年目の節目の年に当たる。いま日本とアメリカは、歴史も文化も伝統も価値観も異なる国同士としては、世界の歴史でも前例がないといっていいほどの緊密な関係を保っている。外交、軍事面での「同盟」関係のみならず、政治、経済、社会、文化、さらにはスポーツ─と「アメリカという国」は、日本の生活のすみずみまで入り込んでいる。そして、日本の自衛隊は、二〇〇五年の新年をイラクの地で迎えた。
しかし、日本にとって、「アメリカという国」は、まだまだ知っているようで知らない国なのではないか。近いようで遠い国なのではないか─私は、自らの二回にわたる共同通信のニューヨーク、ワシントン特派員時代の仕事、その間のインドシナ特派員の仕事、二〇〇二年に経営側を退いたあと、あえて再びアメリカを追うジャーナリストに「現役復帰」した現在の仕事への自省を含めて、自問自答を繰り返す日々である。そして、現在の表面的な親密さ、物理的な近さとは裏腹に、日本はまだまだ「アメリカという国」をきちんととらえていないのではないか、一八五三年のペリー艦隊来航で始まるアメリカとの関係では、突き詰めると深層では、「すれ違い」といっていい状況を続けているのではないか─この重いテーマとの格闘を続ける日々でもある。
しかし、本稿では、敗戦六十周年の節目に改めて向き合っておかなければならないと思う、日本とアメリカの間に残る「歴史問題」の清算という問題を提起しておきたい。本物の「日米パートナーシップ」を確立し、アメリカとの新たな「すれ違い」を演じないためにも、第二次世界大戦以来、日本人の心の隅に突き刺さっている「棘」を取り除いておくべきではないのか。六十周年の今年は、その絶好のチャンスではないのか。日本とアメリカがあの戦争を戦ったという過去が年々風化していくなかで、あるいは最後のチャンスではないのか─という問い掛けである。
「相殺の論理」の拒否
この「棘」とは、大戦末期、アメリカが行なった広島、長崎への原爆投下や、東京をはじめとする全国六十七都市に対する「夜間無差別焼夷弾爆撃」による多数の非軍事要員、つまり民間人の犠牲者に対して、きちんとした鎮魂の儀式が行なわれていない、という事実である。
私がこのことにこだわるのは、一つは、私自身が十二才の国民学校六年生として、一九四五年(昭和二十年)七月十九日の夜、墳墓の地である福井市に疎開中、B29百二十七機の「夜間無差別焼夷弾爆撃」を受けたというアメリカとの出会いの原体験を持つからである。ナパーム剤が詰まった焼夷弾三十六発を束ねたM69と呼ばれた集束型親爆弾がたまたま欠陥製品で、予定通り地上三百メートルで開かず、そのまま目の前の水田に落下、泥水をしたたかにかぶっただけで九死に一生を得た、という強烈な経験がある。
しかし、それ以上にこだわるもう一つの痛切な経験がある。同じ大戦の敗戦国、ドイツの場合との対比である。ドイツでは、日本と比べると、例外的といってもいいアメリカ・イギリスの連合空軍による無差別爆撃を受け、一般市民三万五千人が犠牲者となった東部ドイツ、エルベ川沿いの古都、美しいバロック建築の街並みで知られるドレスデン市で、敗戦五十周年にあたる一九九五年、きちんとした鎮魂の儀式が行なわれていた事実を知ったからである。
一九四五年二月十三日と十四日の二日間、既にソ連軍が国境を越え、敗色濃いナチス・ドイツ。軍事的価値はゼロで、逃げ込んできた難民があふれるだけのドレスデン市に対して、イギリス・アメリカ合わせて千六十七機の爆撃機が三波にわたって合計七千四十九トンの爆弾、焼夷弾を投下した。旧東ドイツ時代の市役所の発表としては、三万五千人の犠牲者が公式数字となっている。しかし、十三万五千人説を唱えるイギリスのライターもあり、戦史家・泰郁彦氏は、七万人以上という数字が妥当ではないかとの見解を示している。
私はたまたま一九九五年二月十三日、ワシントンに出張している時、ホテルのテレビのニュースで、このドレスデン爆撃五十周年の追悼式典が厳粛に開かれ、しかも、その追悼内容が通り一遍のものではないことを知った。そしていまだに一人でこだわり続ける。
ワシントン・ポスト紙は翌朝、この鎮魂と和解の儀式を写真付きで大きく伝えた。またウォール・ストリート・ジャーナル紙は、オピニオン欄のトップに「ドレスデン─我々がソーリーという時─」と題するロンドン・タイムズ紙への寄稿をわざわざ転載した。しかし、日本のマスコミは当時、このドレスデンでの出来事を一切報ぜず、私が帰国後、月刊「文藝春秋」の一九九五年五月号の巻頭随筆に「ドレスデンと東京」と題して寄稿するまで、一般には知られなかった。
通り一遍ではない儀式とはどんなものだったのか。
まず当時の東西ドイツ統一後二代目の大統領、ローマン・ヘルツォークの追悼式典での演説が、きわめて剛直な内容だった。その長い演説の本当のさわりだけを抜粋して紹介する。
「五十年前、わずか数時間でドレスデン市は完全に破壊されました。数万の命が戦火の中で失われ、ヨーロッパ文化のかけがえのない貴重なものが、二度と甦ることなく失われました。それには人間の魂も含まれます」
「ここにお集まりの方々には、告発や後悔、自責を求めないでしょう。ナチス国家におけるドイツ人の悪行をこの出来事によって相殺しようとはしないでしょう。もしそれが目的だったら、ドレスデン住民はイギリス、アメリカの客人たちを、いま経験しているようには暖かく迎えることはしなかったでしょう」
「まず死者に対する哀悼を捧げたいと思います。それは人間文化の最も古いものの一部です。歴史全体を理解しないかぎり、人は歴史を克服できないし、安寧も和解も得ることはできません。そして我々は我々の弔意を、我々ドイツ人が他の国民に対して行なった犯罪行為を自国の戦争犠牲者、追放の犠牲者によって相殺しようとしている、と主張する人に対してはそれが誰であるにせよ抗議します」
「生命は生命で相殺できません。苦痛で苦痛を、死の恐怖を死の恐怖で、追放を追放で、戦慄を戦慄で、相殺することはできません。人間的な悲しみを相殺することはできないのです」
広島、長崎の死者に触れず
ヘルツォーク氏は、一九三四年生まれ。一九三三年(昭和八年)生まれで、国民小学校の六年生で敗戦を迎えた私と一つ違い、つまりナチス支配下で同じように戦火を経験し、生き延びたであろう世代に属する。CDU(キリスト教民主同盟)出身の法律家。旧西ドイツ連邦憲法裁判所長官を経て統一ドイツとしては二代目大統領。
このドレスデン演説は、前任者の初代統一ドイツ大統領、リヒャルト・ワイツゼッカーが、日本にも紹介されている有名な「荒野の四十年」演説(一九八五年)で、過去から学ぼうと訴えたのを、一歩踏み込んだ立派な演説だと思う。すなわち、
「死者の相殺はできない」との論理で、アメリカ、イギリスに対し、非戦闘員爆撃の責任を認めることをはっきり迫り、そのうえで、まず死者を悼んだあとで、かつての敵も味方も一緒になって「平和と信頼に基づく共生」の道を歩もうと、旧連合国との「和解」を宣言する格調の高いメッセージの表明であった。
しかも、驚いたのは、この演説の率直さ、厳しさだけではない。ヘルツォーク大統領が、かつての敵ではなく今日の友人の代表として歓迎した出席者の中に、なんとイギリス女王名代のケント公、それにアメリカからジョン・ジャリカシュビリ統合参謀本部議長、イギリスからは国防幕僚長を交替したばかりのナウマン・インジ将軍、つまりアメリカとイギリスの制服組トップの顔があったのである。もちろん両国の大使も出席していた。ドイツからは、ヘルムート・コール首相、クラウス・ナウマン連邦軍総監らトップが参加している。
私は、アメリカ、イギリス側が、ヘルツォーク演説の前か後に何か発言していないかどうかについて調査を重ねた。しかし、何も発言していないことが確認された。つまり、演説を黙って聴いただけなのである。それで十分だったのではないか。
「相殺」の論理は認めない、と暗に旧連合軍の責任に言及したうえで、死者を弔おうという大統領の言葉に耳を傾けるだけで、「鎮魂」と「和解」のけじめがきちんと果たせられた立派な儀式だったのではないか。少なくともドイツとアメリカ、イギリスとの間に残っていた戦争の「棘」は取り除かれたのではないか─私はそう思う。
こうした巧みな外交ショーをドイツ側とアメリカ、イギリスの旧連合国側のどちらが仕掛けたのか─私はまだ結論に達していない。しかし、三国の間で相当の外交努力が払われたことは、アメリカ、イギリス側の出席者の顔ぶれから明らかである。少なくとも日本とアメリカの間にはなかった外交努力であったことは間違いない。
そして、どうして日本で、この「ドレスデン和解」と同じような「鎮魂」と「和解」の儀式をアメリカとの間で持つことができなかったのか。このヘルツォーク演説と同じような演説を、アメリカ政府、軍部の代表を前に、B29の「夜間無差別焼夷弾爆撃」による日本全国六十七都市の焦土作戦の幕開きとなった東京大空襲の記念日である三月十日、あるいは原子爆弾が投下された広島の八月六日、長崎の八月九日、つまりドレスデンをはるかに上回る犠牲者を出したそれぞれの現地で、あるいはそのすべてを代表するいずれかの都市で、日本の首相が行なうことができなかったのか。「死者の相殺はできない」との論理のうえで、非戦闘員の犠牲者を悼み、ドイツと同じように、日本とアメリカとの間の「棘」を取る儀式を持つ発想がなぜ日本側から出なかったのか。少なくとも自衛隊のイラク派遣は、この日本版「ドレスデンの和解」が行なわれたあとでのことではなかったのか─私は、自らのジャーナリストとしての責任を含めて、こだわり続ける。
特に心が痛むのは、ドレスデン爆撃が、ドイツ国内では多くの民間人の犠牲者が出たことで「ドイツのヒロシマ」と呼ばれていることである。イギリスのチャーチル首相も爆撃直後から「やりすぎだ」との批判的な発言を行なっており、戦後、ドイツ国内のみならず、イギリスその他の欧州諸国でも、ドレスデン爆撃はその正当性をめぐって長い議論が続いていた。一九九二年、イギリス皇太后がドレスデン爆撃を強く主張したハリス・イギリス空軍爆撃軍司令官の銅像の除幕式をロンドンの国防省前で行なった時には、当時のコール首相はじめ、ドイツ各界指導者から抗議が相次いだ。そのために「ドレスデンの和解」のような盛大なけじめの演出が必要だった、と思われる。
しかし、アメリカ国内では、日本の本物のヒロシマ、ナガサキで、原爆投下によって十四万人、七万人という死者が出た事実でさえ、いまだにきちんと国民の前に示されていない。現在、ワシントンのダレス国際空港横にオープンしたスミソニアン航空宇宙博物館別館、オハイオ州デイトンの空軍博物館でそれぞれ完全に復元され、ピカピカに磨き上げられた、広島原爆投下のB29エノラ・ゲイ、同じく長崎投下のボックス・カー号が展示されている。その前に置かれた説明板では、B29が史上初めて気密室を持った最優秀の爆撃機であったかが記述され、対日戦末期に原爆を投下したというところで終わっている。広島十四万人、長崎七万人という犠牲者はどこにも触れられていない。
「ドレスデンの和解」が行なわれたのと同じ一九九五年、戦後五十周年の節目を意識して、スミソニアン航空宇宙博物館の原爆関係の展示を企画したとき、アメリカ在郷軍人会や空軍協会から、その内容に横やりが入った。特に説明板への死者数言及の賛否で紛糾した。結局スミソニアン博物館館長が辞任に追い込まれ、展示そのものが流れてしまい、説明板にも死者数は触れられなかったという経過がある。
そのまま十年の月日が流れたということである。当時、私が再会したレーガン政権時代のホワイトハウスの高官は、「原爆投下という日米間の棘をきちんと抜くいいチャンスだったのに残念だった。スミソニアン側がもう�ュし慎重に企画を立てればよかったのかもしれない」とコメントしていたのを思い出す。
アメリカ人と「対話」を始めよう
アメリカとの関係でのドイツと日本の違いをいえば切りがない。ドイツ人は、独立戦争に際し、イギリス国王側の傭兵として参戦して以来の新大陸での長い定着の歴史を持ち、第二次世界大戦でも、強制収容所入りを命じられた日系人のような扱いは受けなかった。戦争責任の取り方も自殺したヒットラーにすべてが帰着したドイツと日本の場合とは異なり、アメリカは、一九九三年、大統領令でワシントンの中心部にホロコースト・ミュージアムをつくり、ナチスの犯罪を永久に語り継ぐインフラをつくり、ドイツ側もこれを容認し、協力した。「ドレスデンの和解」はこの日本とは違うドイツとの独特の関係の実績のうえで組み立てられたものともいえた。
しかし、ブッシュ大統領はいま、しばしば大戦後のドイツと日本の民主主義化をアメリカのサクセスストーリーと意義付け、イラクに民主主義を植え付けるためのアメリカの武力行使正当化の理由として使う。大戦初期でのドイツと日本との戦いが苦難に満ちたものであったことを、武力勢力の抵抗に手を焼く現在のイラクでの状況とだぶらせ、アメリカ国民の忍耐を呼び掛けている。
にもかかわらず、「ドレスデンの和解」を果たし、同盟国としての「棘」を抜いたドイツは、イラク軍事介入にははっきりと距離を置き、アメリカ、イギリスもそれを受け入れて基本的な友好関係は崩れていない。これに対して日本は一〇〇%ブッシュ路線を支持して、自衛隊の派遣に踏み切った。日本版「ドレスデンの和解」も果たさずにである。
それどころか、ドレスデンなどいくつかの例を除き、基本的には軍事目標に向け、照準爆撃の戦術がとられたドイツとは異なり、夜間無差別焼夷弾爆撃という非戦闘員、一般市民を巻き込むことを前提にした戦術をあみ出し、戦後は空軍参謀総長までのぼりつめたカーチス・ルメー将軍に対し、日本政府は一九六四年十二月、「航空自衛隊の育成に貢献した」との理由で、勲一等旭日大綬章を授与している。ドイツとのこの激しい「落差」ははっきり噛みしめなければならない。
私は、反米主義者ではない。逆にアメリカとの友好関係こそ日本にとって最も重要な二国関係だと強く思う。それにアメリカに謝罪を求めるものではない。ただただ、ドイツと同じように、「死者による相殺はできない」という論理で、東京を皮切りとする六十七都市での焦土作戦、広島、長崎での原爆投下による死者の霊を共に弔うけじめの儀式をいつかどこかで行ない、アメリカとの関係における「棘」を抜くことが、日本とアメリカとの関係でいままでになく重要になってきたと思うだけである。戦後六十周年の今年、日本版「ドレスデンの和解」以上の記念行事はないのではないか、と思う。
最後に、この日本版「ドレスデンの和解」のTPOについては、エノラ・ゲイ号やボックス・カー号の展示説明文に広島、長崎の死者を記録することに反対した保守派を含めてアメリカ側ときちんと話をすれば、彼らも受け入れる可能性が決してゼロではないと、私は思う。アメリカ人は、最後にはこうしたフェアネスを好む(注)。いま必要なのは、アメリカ人とこのテーマでの「対話」を官も民もいろいろなレベルで始めることだと思う。私もジャーナリストとしての立場で実践したい。それはまたアジアの近隣諸国との間で依然として抱える「歴史問題」を清算する意外に有効な踏み石にもなるのではないか、と思う。
(完)
(注)こうしたアメリカ人の本音と建前については二〇〇四年三月に小学館から発行された拙著『銃を持つ民主主義─「アメリカという国」のなりたち』(第五十二回日本エッセイストクラブ賞受賞)の中で詳述した。ご参考にして頂ければ幸いである。