渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」(二〇〇五年五月号)
「アメリカという国」を考える(その二十六)
──旧サイゴン陥落から三十年の旅──
松尾文夫(ジャーナリスト)
三月下旬、感慨深い旅をした。アンコール・ワットの門前町、シエムラップで開かれた米アジア協会主催の第三十三回ウイルアムスバーグ会議に参加するのに先立ち、ホーチミンシティー(旧サイゴン)、ハノイ、ディエンビエンフー、プノンペン──と駆け足で回った。そして会議出席とアンコール・ワット参拝のあとは、バンコクに三泊して帰って来た。
私にとって、これらの土地は、三十年前の「古戦場」であった。アメリカのインドシナ軍事介入がとどめを刺される一九七五年四月三十日の旧サイゴン陥落までの三年間、私は共同通信特派員として、バンコクを基地に、インドシナ各地を取材した経験を持つからである。六〇年代末の最初のアメリカ特派員時代に目撃したジョンソン民主党政権の憑かれたような対インドシナ武力行使、エスカレエーション政策の末路を見とった場所だったからである。その意味では、アメリカの軌跡を追う旅でもあった。
もちろん、「古戦場」といっても、ベトナムの首都ハノイ、フランスの植民地支配に終止符を打った戦いとして知られるディエンビエンフー、そしてカンボジアのシエムラップは、初めての訪問であった。当時は、「アメリカ側」で取材していたわれわれにとって、「敵」側に属していたからである。
特に、シエムラップをはじめアンコール・ワット全域一帯は、悲惨な強制労働と大量虐殺で歴史に名を残すクメール・ルージュ(後のポルポト政権)の支配下にあり、近づくことさえ出来なかった。
「ドイモイ」政策の定着
しかし、私の身構える気持とはうらはらに、ベトナム、カンボジアそれぞれ国や地域によって濃淡はあっても、いたるところに「アメリカ」があっけらかんと腰をすえていた。
旧サイゴンのタシソンニヤット空港に着いたとたん、目に入ったのはサンフランシスコからのUA直行便到着のサインだった。ホテルの部屋にはCNN、ドルはどこでも使え、新しいホテルやビルも林立し、女性のアオザイ姿がすっかり消えた街は活気に満ちていた。
しかし、ハノイの方は空港からの道路などインフラ整備はこれからである。八六年以来、ベトナム共産党が採用している社会主義に市場経済システムを導入する「ドイモイ」(刷新)政策がすっかり定着している点では同じだった。これはアメリカ流のマーケット・エコノミーが中国と同じく一党独裁のもとで花開いているということであり、インドシナ戦争では敗れたアメリカが東西冷戦では勝利し、いまや「一人勝ち」の地位を占めている事実の重さを改めて肌で感じた。
影薄い日本人観光客
反米スローガンはどこにもなく、政府管理下にあるマスコミの、アメリカの枯れ葉作戦の後遺症訴訟問題をめぐる報道が、冷静なトーンで貫かれているのが興味深かった。旧サイゴンの戦争証跡博物館やハノイのホーチミン博物館でのアメリカとの戦争部分の展示内容も、かつての物量を誇るアメリカ軍との執ような戦いぶりを知る私には、随分抑制されていると思えた。拍子抜けするほどだった。
ホーチミン主席が六九年の死の直前まで過ごした質素な執務室やベッドも間近かに見ることが出来、「ドイモイ」政策の自信を反映しているように思った。ハノイで唯一つ「社会主義」を実感したのは、市内中心部にレーニン像がきちんと維持されていることぐらいだった。
むしろ戦勝記念という意味では、五四年五月のアメリカとの戦争よりもアメリカCIAの秘密支援を受けたフランス軍一万五千人を、ボー・グエン・ザップ将軍の「人民の戦争」で撃破したディエンビエンフーの戦跡の方が立派に保存され、黄金色の大きな戦勝記念塔が建設中だった。
私には、こうしたアメリカとのクールな関係を維持しているところに国境を接し、七九年には戦争までした中国との地政学的な抑止力効果を計算しながら、ポスト冷戦のグローバライゼーション、すなわちアメリカ主導のマーケットエコノミーの波としっかり共生し、アメリカをつかまえておこうというベトナム指導部のしたたかさが浮き彫りにされているように思えた。アメリカへの輸出は昨年度、繊維を中心に大きく伸び、それまでの日本を抜いて第一位の実績を記録したという。
インドシナ戦争たけなわのころ、アメリカ国内世論内に反戦運動という「第二戦線」を構築することに成功させ、ジョンソン政権を手玉にとったホーチミンの腕前がいまも継承されているのだ、と思う。ちみなに、ボー・グエン・ザップ将軍も九十四歳ながらまだまだ元気で、在郷軍人の会合で、国家の繁栄のために不屈の戦闘精神で貢献するように呼びかけていた。
カンボジアでは、通算二十五年にわたった悲惨な内戦もようやく終わり、「カンボジア王国」という立憲君主制で再スタートを切ってからまだ十一年あまり。ここでも外国投資というかたちでのグローバライゼーションがいや応なしにゼロからの国造りの根幹となっていた。市内中央部にあるクメール・ルージュによる虐殺博物館も貧弱な施設で、彼らを裁く特別法延設置で国連とも最終合意しながら、約五千六百万ドルもかかるコスト高から、地元紙には、その資金を開発に回すべきだ、との声も掲載されていた。
それでも地雷除去にもメドがつき、アンコール・ワットは第一級の世界遺産としての威厳を取り戻し、クメール民族再生の夢の支柱となろうとしていた。シエムラップは、押し寄せる観光客相手にホテルの新築が相次いでいた。驚いたのは観光客の多様さ、特にアジアの人々の多さで、一番目につくのが中国人、韓国人グループ。日本人観光客は欧米人並みといった感じで、影が薄かった。
三十年ぶりのバンコクは、高速道路、スカイ・トレーン、地下鉄、林立する高層ビル─とインドシナ戦争当時、国内に七つのアメリカ軍基地をかかえこみ、その「戦争特需」で経済近代化の離陸を果たそうとしながら、結局は基地経済の矛盾に悩んでいたタイの姿はもうない。バンコク・ポスト紙には、アメリカの新任大使の「アメリカにとっての第一のプライオリティーはタイとFTA(自由貿易協定)を結ぶことだ」との談話が掲載されていた。
ふとアメリカのインドシナ敗退が明らかになり始めた七三年十月、アメリカが造った高速道路沿いに進出した日本企業に対する反発がタイ学生による日本商品ボイコット運動として火を吹き、あっという間に軍事政権を失脚させた出来事を思い出した。いま日本とアジアの関係はどこまで自前の強じんさを持っているのだろうか─なぜか気の晴れない成田への深夜便だった。
(四月十二日記)