時代の変化との戦い
─東西通信社事情─
松尾文夫
転換点に立つ世界
世界の通信社は時代の激しい変化への対応を迫られ、早急に答えをだすことを求められている── 一九九〇年十月から十一月にかけてロンドン─モスクワ─ウィーン─ブダペスト─ニューヨーク─ワシントンと回り、各地で通信社の仲間と接した私が、強く感じて帰って来たことである。
ついこの間まで、東西対立という目に見えない壁で仕切られていた地球を、西から東へ、また西へと飛び歩いてみると、情報の壁を筆頭にさまざまな壁が本当に取り払われつつあり、世界が一つになっていることが身にしみてわかる。いま世界全体が西も東も、各国各様に悩みのかたちは違っても、冷戦構造という長く慣れ親しんだ国際秩序が消え去ったあとの新しい時代の新しい生き方を、懸命に模索していた。そして、どこでも湾岸危機が大きなお荷物にたっていた。
モスクワでは、社会主義清算の混乱とグラスノスチ定着の明るさが奇妙に共存するなかで、市場経済への移行がノウハウ・ゼロ、蓄積ゼロのまま強行されていた。日本の幕末とアメリカの南北戦争を一緒にやろうとしているような途方もない試みに見えた。モスクワの街並みのなかで、エリツィン氏の本拠であるロシア共和国政府のビルは、総大理石ばりで、ひときわ高くそびえ、「ホワイトハウス」と呼ばれていた。この歴史的な実験を緊急食料援助をはじめとする、西側からの資本、モノ、技術のテコ入れだけを頼りに行わなければならないところに、ペレストロイカの最大の課題があるように思えた。厳しい食糧難のなかで、欧米からまるごと導入された携帯電話や最新鋭のファクスサービスが幅をきかせ、別世界を築いていた。
ブダペストでは、革命以来七十数年のモスクワに比べて、第二次大戦後四十数年間という市場経済空白期間の短かさは、大きなメリットとなっていた。物資も豊富でモスクワから来ると天国のおもむきがあった。しかし、逆に旧共産党政権下でのコメコンのわく内だけでの中途半端な自由化の成功が、頭痛のタネとなっていた。ここでも日本をはじめとする西側資本が引っぱりダコであった。ドイツ語が声高にしゃべられていた。
一方、本来ならこの「社会主義の敗北」に祝杯を上げているはずのロンドン、ニューヨークも、八〇年代のバブル経済のツケが重くのしかかり、サービス産業主導といわれるこれまでに経験したことのない新型リセッション到来の影におびえていた。
「冷戦勝利」の意識などどこにもなかった。米国の財政赤字対策はもはや、米ソ全面軍縮による「平和の配当」を百パーセントあてにしなければならないところまで追い詰められていた。米世論の大多数がブッシュ大統領の湾岸派兵を支持するなかで、共和党保守派のなかからは、「共産主義が滅びた以上、もうGIが外国で戦う必要などない」といった新しい孤立主義の声も上がっていた。レーガン、サッチャーの「小さた政府の政治」の実験は過去のものとなり、アメリカも、そして統一ドイツを迎えた欧州も、改めてサバイバルのための待ったなしの勝負を迫られていた。転換点に立っているという意味では、東と同じであった。
各国の通信社の経営にも、この大状況の試練がそのまま投影されていた。
東の通信社は、当然のことながら、その存立の基盤そのものが問い直されていた。国営通信社という土俵が根底から揺らぎ始めたからである。
タス、ノーボスチにも競争相手
モスクワでは、タス、ノーボスチという二大エスタブリッシュメントが必死に生き残りの道を探していた。一九九〇年八月一日、検閲の廃止と国家や共産党のマスコミ独占を否定した法律が施行されて以来、両通信社とも「親方赤旗」というこれまでの経営基盤の抜本的な見直しを迫られている。
タスは、テレビ局開設まで含めた映像ニュースサービスへの進出、経済ニュースサービスの強化と国際的な電子メディアサービスの配信など経営の多機能化、つまり脱国営化による自前の収入確保に追われていた。タスは私の滞在中、電子メディアサービスの一つであるテレレートのネットワークに乗った、共同通信のリアルタイム二十四時間日本語情報サービスの、日本人ビジネスコミュニティー向け発表会を、熱心にやってくれた。共同通信と同じく、テレレートのソ連国内での独占販売権を持つためだが、タス本社内でのこうした営業活動は、史上初めてということだった。これまで「エコタス」と呼ばれてきた経済ニュースサービスを市場経済化の動きに密着した報道に再編成する努力も進められていた。なによりも共同通信のビジネス部門であるKK共同の活動について熱心な取材を受けた。
ノーボスチの場合も、フィーチャー、写真サービス、対外PR活動といったこれまでの仕事の大幅な見直しが進行しており、一般のニュースサービスへの進出、新雑誌、解説パンフレットの発行、映像サービス、データーベースの構築といった収益事業の開拓に全社をあげて取り組んでいた。これに伴って、社内の各部門ごとの競争、対立関係も貝立つようになり、実入りのいい花形部門は給料、ボーナスでも優遇され、分離、独立を口にするなど内部矛盾が表面化していた。
いずれにせよ、両通信社にとってすべてが初体験の大変革であり、社内の空気は緊張していた。とりわけ、タス通信は、現在、ソ連で深刻化している共和国と連邦政府の対立と、その背後にある民族自決運動の影響を真正面から受け、この点でも大きく基盤が動揺していた。
ソ連閣僚会議に直属する国営通信社であるタスは、これまで国内でのニュース、情報の集配を各共和国の通信社を通じて行ってきた。例えば、アルメニア共和国ならアルメンプレス、ウクライナ共和国ならラタウ(RATAU)といった具合に、ソ連邦と共和国との関係と同じように、各共和国の通信社を傘下に収めて国内のニュースカバーを進めてきた。バルト三共和国の独立宣言が続出するなかで、タスもこれらの共和国の通信社から通信施設の引き渡しやニュース交換協定の締結など、外国通信社並みの個別契約をつきつけられる騒ぎとなっている。
最大の問題は、タスが直轄していたロシア共和国まで、エリツィン氏の威をかりて、ロシア共和国通信社設立の方向を打ち出したことである。しかも、ゼロからの出発ではなく、手っ取り早く、ノーボスチ通信社をロシア共和国の通信社に衣替えさせようという大胆な方針まで示された。あわてたタスは、ゴルバチョフ大統領を動かし、大統領令でこれまではジャーナリスト同盟、作家同盟などが母体だったノーボスチの連邦所属を宣言してことなきを得るといったドタバタまで演じている。
連邦政府対共和国の関係が依然不透明な現在、この綱引きにはまだ結論が出ておらず、国際取材網や全国を結ぶ回線を確保しているタスの優位は一応維持されているものの、大きな時限爆弾をかかえていることには変わりがない。
しかし、こうした生き残りに懸命なタス、ノーボスチ両通信社に対して、はっきりした競争相手が出現している。国家や党のマスコミ独占がなくなり、新しい新聞、各種雑誌が各地で続々と発行され、プラウダの購読者が急落、イズベスチヤでさえ用紙割り当てに悩む、グラスノスチ全盛時代が通信社にも及んでいるということである。バルチック・ニューズ・サービス、ポストファトタム・ニューズ・レビュー、デイリー・グラスノスチなど細かく数えると十近くの新通信社が旗揚げしているといわれるが、本格的なのは、「インターファクス」である。
「インターファクス」は最近、日本各社のモスクワ特派員電にも頻繁に引用されるようになっているが、時々「情報紙」などと新聞のような紹介をされているのは間違いである。ファクスで一日何回かニュースを流してくるサービスのスタイルが本格的な通信社といえないことは事実としても、内容はれっきとした通信社である。
設立は一九八九年九月。モスクワ放送の外国放送情報編集部の幹部がソ仏伊の合併企業「インタークワドロ」からのルーブルと外資の二本立ての資金と設備の提供を受け、「情報の客観性、正確さ、脱イデオロギーを基本とし、事実だけを伝え、賛否の感情をいれないこと」(コミッサール・インターファクス社長)をモットーにサービスを開始した。ペレストロイカ、グラスノスチといった改革路線に乗り、これまでのタスやプラウダなどの官製ニュースに挑戦して、西側並みのニュース報道を目指しており、幹部は海外経験のあるリベラル派で、エリツィンに近い。モスクワはじめ国内各地に約百五十人の記者をおき、明らかに西側の目と関心を意識して、ロシア語のみならず、英語、スペイン語でもニュースを提供している。まだカバーの範囲も狭く、タスと正面から勝負しているわけではない。しかし、改革派の集団であるだけに、市場経済への移行問題をはじめさまざまな新しい動きの報道に強いのが、特色である。
契約社はモスクワの新聞、ラジオ、テレビなどソ連の各種メディアのほか、モスクワ駐在の外国大使館、外国特派員、西側ビジネスマンにも、広がっている。とりわけ諸外国がいま一番知りたいニュースの出所を明らかにして伝えるスタイルが好評で、外国人社会での人気は、上々である。日本大使館当局者もメディアの情報源としては、一番頼りにしていると語っていた。ソ連からのニュース、情報の本物の発信がようやく始まったともいえる。
既に初期投資は完全に回収し、近くソ連史上初の有限会社として独立し、オフィスも現在のモスクワ放送ビル内の間借り状態を清算して、市内目抜き通りに自前のものをオープンするという。「純粋な商業組織であり、需要が供給を決めるというルールを受け入れる」(コミッサール社長)という「インターファクス」の今後は、ペレストロイカ、グラスノスチ路線の実践者であると同時に、これまでの成功が西側の資本とノウハウのおかげであるという点で、マスコミのみならず、ソ連社会全体の変革と市場経済への移行の行方を占うものとなろう。
一月十一日には、国家テレビ・ラジオ委員会からモスクワ放送内のオフィスからの即時退去と資産没収を通告され、送信スイッチを切られ、インターファクス側はロシア共和国の援助で活動を再開するという事件が起きている。
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp
Content-Description: 1991.2.(No.475)新聞研究02.txt
Content-Disposition: inline; filename="1991.2.(No.475)新聞研究 02.txt"
社長公募のハンガリー通信社
ウィーンからハンガリーのブダペストに入ると、東欧民主化の大きたうねりのなかで、各国の国営通信社が自立への脱皮に苦しんでいる姿が肌で感じられた。ブダペストでは、ソ連からの安い石油に頼れなくなり、それに湾岸危機も加わって、政府がガソリン料金を一気に六〇%値上げ、これに抗議するタクシー運転手が民主化後初のストを行い、街は混乱していた。東欧自由化の優等生といわれるハンガリーだが、西側との接触が本格化するなかで、自慢の貿易黒字も五〇%以上がソ連を筆頭とする旧コメコン諸国に依存していた限界が露呈され、外面の豊かさのなかで四苦八苦していた。
国営ハンガリー通信社(MTI)では、社内外から有能な人物と高い評判を受けていたパーロッシュ前社長が活発な共産党員だったとの理由で解任され、後任を一般国民から公募するという異例の手続きが進行していた。私の訪問時には、十五人の候補が最終選考に残っていたが、昨年末になってMTI社員の三候補にしぼられたうえ、結局、ウィーン、ブカレストの特派員を務めたことのあるオルトバンビ・オット氏が新社長に昇格した。オット氏は六十歳で、非党員。チャウシェスク政権崩壊時にブカレストで活躍したということ以外、社内でもあまり知られておらず、早くも暫定指導部との声が出ているという。タクシーストの指導者たちと政府首脳との団体交渉が、そのままテレビの画面で延々と生中継される民主化路線の徹底ぶりを目にして、こうした選び方もなるほどと納得した。
しかし、MTIの老幹部は「既に社の財政は破綻しており、新社長のもとで大幅な人員削減が行われないかぎり、自立した経営は成り立たない。新社長が人員整理に踏みきらなければ、私は辞める」と思いつめていた。そして、電子メディアなど収益部門の確保が第一の課題だと力説、現在は法律上、競争相手のロイターとテレレート双方のサービスを一手に扱うことが保障されている国営通信社の特権を生かして、やがてくるマスコミ自由化に備え最大限の実績を上げておかねばならないと、この時ばかりは意気盛んだった。
ロイター、テレレート別々のセールス、カスタマーサポート・チームを組織して、続々と駐在員を送り込んでくる西側諸国の金融、ビジネス関係者に売り込むのだという。もちろん銀行代表二人を含め四十人にふくれ上がった、日本人ビジネスコミュニティーも、その有力な対象である。
他のMTI幹部によると、他の東欧諸国の通信社も似たり寄ったりの状態だが、MTIは電子メディア配信の実績を持つだけまだ楽だという。かつては、第三世界通信社の雄であったユーゴのタンユグ通信社は、ユーゴの連邦解体の危機のなかで、タス以上にそのインフラがまひしてかわいそうだ、とマユをひそめた。
ロイター、東欧に野心
民主化時代を迎えたものの、自主的な対応を果たし切っていないこの東欧各国通信社の現状に目をつけたのが、ロイターである。各通信社からのニュースをロンドンでひとまとめに受信し、ロイターの手で編集し直し、「イースト・ウエスト・リポート」と名付けた新しいパッケージサービスとして、東欧のみならず全世界に売りだそうという計画である。もちろん協力する通信社には一定のペイ・バックを保証するシステムで、いかにも戦前の植民地支配時代を含めて長い海外ニュース事業の伝統を持つロイターならではの発想である。ロイター側からみれば、東欧各通信社との共存共栄のサービスということになるが、東欧側は、結果として自らの対外マーケットをロイターに手渡してしまうことを意味する。
ロイターが最初に各通信社に打診しはじめた一九八九年秋の段階では、ソ連のタスを含めた大東欧圏ニュースのパッケージサービスの構想であった。しかし、タス、MTIが最初から不参加の態度を打ちだしたため、具体化は遅れに遅れている。それでも、私の訪問時、MTI幹部が語ったところによると、その後、チェコのチェテイカ(CTK)、ポーランドのポーランド通信社(PAP)、ブルガリアのブルガリア通信社(BTA)、ルーマニアのロムプレス(ROM)の各社が参加の意向を示し、ソ連からは、「インターファクス」が参加するとの情報もあり、今年中にサービス開始となる可能性が強いという。
事実、ロイターは、この「イースト・ウエスト・リポート」計画との直接の関係は不明ながら、一九九〇年十月から東欧各国の通信社記者をロンドンに招待、ロンドン市立大学のジャーナリズム講座の講義に参加させたあと、ロイターの研修室で、海外ニュース、金融ニュースの取材、書き方について訓練するプロジェクトをスタートさせている。同四月、このプロジェクトを発表した際、ロイターのウッド編集主幹は「東欧各国のジャーナリストたちが歴史的な変革を報道しなければならない時期に、協力の手をさしのべたい」と語っていた。こうしたロイターの東欧での勢力圏確保の動きは、ちょうど、十九世紀末から第一次大戦にいたるロイターとアバス(フランス)、ヴォルフ(ドイツ)三通信社による欧州大陸のニュース市場をめぐる支配競争時代をほうふつさせるものである。
しかし、この歴史的アナロジーに従えば、欧州大陸でロイターを迎え撃つはずのフランスのAFP、ドイツのDPAには、いまその力はない。この両社にかぎらず西欧諸国の通信社は、あまりにもロイターに引き離されている。
一九九〇年一月に就任したばかりのクロード・モアジAFP社長は、「AFPの政府からの独立、経営の多機能化と近代化」を唱えている。しかし、一九七九年に、当時のアンリ・ピジャ社長が始めた多機能化路線の結果、各種経済情報サービスなどの「新しい顧客層」からの収入が今年中には全体の一〇%に達すると予測されるまでになりながらも、ピジャ社長、それに続いたギヨー前社長の命取りとなった慢性的赤字経営は、いぜん克服されていない。
一方、ドイツの通信社DPAは、旧東ドイツ内に自らの記者を送り込んで独自の取材網確立に全力を挙げている。これに対し、旧東ドイツのADN通信社がどう対処するかが注目されていた。しかし、こうした国内対策に手をとられてか、DPAが東欧に展開する動きはまだ出ていない。
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp
Content-Description: 1991.2.(No.475)新聞研究03.txt
Content-Disposition: inline; filename="1991.2.(No.475)新聞研究 03.txt"
二巨人も足踏み
しかし、そのロイターも破竹の快進撃が小休止といったところである。私が旅行中の十月三十一日、ロイターはコンピューターによる外国為替自動取引システム「ディーリング2000-2」のサービス開始を少なくとも半年遅らせるとともに、全世界で三百人の人員削減を行うと発表した。
「ディーリング2000-2」はコンピューターマッチングとも呼ばれ、完全稼動の暁には、ロイターは全世界の為替の取引ごとに、いながらにして手数料という名の収入を手中にする「究極のシステム」である。この金のタマゴの開発が安全装置の不調などで遅れているとの情報が昨年夏から流れ、折からのバブルマネーの崩壊、金融直撃型リセッションの到来とも相まって、一年前には英国一の優良株と折り紙つきだったロイター株は、四〇%を超す大暴落を記録していた。確かに過去二十年間、倍々ゲームの成長を続けてきたロイターにとって、初めてといっていい停滞の局面である。
しかし、電子メディアの先達として、いち早く通信社の多機能化をなしとげたロイターの優位は変わらない。収益の低下と先行投資プロジェクトの不振があっても、電子メディアの莫大な収益によって、本来のニュースサービスや、写真、映像配信などメディアサービス部門を強化、拡大することに成功した「ロイターの奇跡」は揺らぎそうにない。年末には、過去十年間、社長としてこのロイター情報帝国を築き上げたレンフル氏が今年三月の引退を発表、後任に四十九歳のピーター・ジョブ・アジア総支配人を指名した。思い切った若返りで、新たな展開を目指そうという決定とみられている。
ニューヨークに入ると、サービス産業主導型、ホワイトカラー主導型リセッションの実像が一段とはっきりした。金融関係や不動産業界のみならず、身近なマスコミ界にも不況風が吹きつのっていたからである。新聞はもとよりテレビ局も景気が悪く、ABCなど三大ネットも次々と支局閉鎖やレイオフを発表していた。
一九八七年のブラックマンデー以来、七万五千人もがレイオフされたというウォール街では、まだまだ「出口なし」の状態であった。かつては、この町にマネーゲームの戦士として高給を求めて密集したヤッピー弁護士たちが、いまや安くても安定した収入に魅力を感じて、ワシントンの司法省に職を求め始めたという。司法省には、全米各地の貯蓄信用組合の不正追及の仕事が山積みになっていて、弁護士の数が不足なのだという。同じ弁護士が攻守ところを替えるブラックユーモアまがいの話である。
ロイターの電子メディアと真正面から競争するダウ・ジョーンズ社も、このウォール街を最大のマーケットとするだけに、大いに苦労していた。長い歴史と権威を誇るウォールストリート・ジャーナル紙と、昨年完全買収したばかりのテレレートというダウ・ジョーンズ社傘下の新旧二大部門が、いずれもこのリセッションの大波をかぶっているからである。前者では広告の減少、後者ではウォール街でのキャンセル、過去十年の急成長を相当に支えてきた貯蓄貸付組合の不振、それにロイターの向こうをはるディーリングシステム(TTS)への多額の先行投資──といったところが理由である。ロイター同様、収益の伸びが鈍っていた。株価も下がり、ここでもウォールストリート・ジャーナルの一部支局閉鎖など緊縮政策が打ち出されていた。そして、ロイターより二か月先行するかたちで、過去十五年間、ダウ・ジョーンズ社の成功を指導してきたフィリップス会長が今年以降の段階的引退を発表、カーン社長─バランガ執行副社長という若手コンビに次の時代の経営を託する体制を発表した。
電子メディアという通信社の新しい事業を開拓してきたロイター、ダウ・ジョーンズ社という二巨人は、高度情報化社会が本格化する二十一世紀を前に、そろって新しいリーダーを選び、新しい時代を切り開こうとしている。
風前の灯、UPI
マスコミを直撃しているリセッションの波は、組合主義通信社の伝統を立派に守るAPにも押し寄せていた。昨秋発表されたAPの一九九一年度予算の前年比伸び率はわずか三・八%増。過去三年間の最低水準であった。九〇年、九一年のインフレ予測率をはるかに下回っている。湾岸危機の膨大な取材コストもあり、苦しい台所となっているが、キーティング理事会長は加盟社の苦しい財政事情からやむを得ないとして、厳しい経費削減策で乗り切る方針を明らかにしている。
事実、APが十月から十一月にかけてダラスで開いた恒例のAP加盟社編集局長会議(APME)の参加者も、加盟社側の経費節約がひびいて過去十年間で最低の出席率となったという。ボガーディ社長は、創造的な経営でこの事態を乗り切る方針を明らかにし、ダウ・ジョーンズ社と提携して編集している経済ニュースサービス「AP・DJ」の積極的な販売など、多機能事業に力を入れることを表明している。昨秋には、ボガーディ社長がモスクワに乗り込み、タス通信に対するAP・DJの配信契約を結んだ。
しかし、もっとも深刻なのは、創業以来百年近い実績を持ち、アメリカの新聞界発展の歴史とともに歩んできたUPIの危機である。
ニューヨークに着いた夜、最初に耳にしたのが、UPIの親会社であるインフォテクノロジー社とケーブルテレビ番組政策会社FNN両社の社長であった、アール・ブライアン氏が、両社の流動資金不足の責任をとって辞任したとのニュースであった。ブライアン氏はUPIの会長でもあり、最高責任者であった。こうして、UPIはまた身売りに出されることになった。しかも、UPI経営陣は、組合に対し、十一月十五日から三か月間、一律三五%の賃金カットをのまなければ、会社は即時解散するとの「最後通告」をつきつけた。二月十四日までの三か月間に「新しい買い取り手」を見つける努力をするためには、「会社を生かしておく」ことが必要で、そのために資金がいるというのが、この大幅カットの論理だったという。
組合は、苦悩に満ちた議論の末、このすさまじい会社側の要請を受け入れた。ホワイトハウス詰め記者団の長老としていまも活躍するヘレン・トーマス女史ら現場の記者たちが、「UPIの灯を消してはならない」と涙ながらに訴えたあとの決定だったという。「通信社記者魂」に救われたUPIというところである。いま日本を含め、世界中で買い手探しが展開中といわれるが、一月中旬現在、まだなんの発表もない。
ここまでUPIが追い詰められた原因としては、七〇年代に入る段階で、電子メディアに乗り遅れたのをはじめ、さまざまな多機能化事業ですべて後れをとったことが上げられている。元UPI幹部が語ってくれたところによると、ダウ・ジョーンズ社が一九六六年、APと組んで「AP・DJ」をスタートさせたとき、最初はUPIをパートナーとして考え、アプローチしてきたのだという。しかし、当時のUPI幹部は「もうかるとは思わない」と断ったという。このチャンスを自ら逃したUPIは、その後、調査部をABCテレビ、海外写真サービスをロイターと切り売りコースをたどる。UPIの不幸な現状は、この不幸な過去の延長線上にある。
冷戦時代から「世界は一つ」の時代へ、八〇年代から九〇年代へ、二十世紀から二十一世紀へ──東でも西でも、通信社の経営が時代の変わり目に立つ時、このUPIの悲劇はかけがえのない教訓である。
旅の終わりにワシントンで六年ぶりに再会したジェームス・レストン記者からは、時代に対応するメディアの責任を強く説かれた。