渋沢青淵記念財団竜門社
機関誌「青淵」(二〇〇三年十月号)
「アメリカという国」を考える(その十一)
─成熟した「帝国」と若い「帝国」─
松尾文夫(ジャーナリスト)
八月末、アメリカをテーマとする著作のための最後の資料集めとロンドン留学中の三女の激励を兼ねて約一週間、イギリスを旅して来た。そして、公式にはグレートブリテン・北アイルランド連合王国と名乗るこの「イギリスという国」の「帝国」としての成熟ぶりに感じ入ると同時に、かつてこのイギリス帝国から生まれ落ちた「アメリカという国」のもう一つの顔を見たような気持ちになって帰って来た。
イギリス訪問は初めてではない。一九六八年六月、パリでベトナム和平会談と「五月革命」の取材を終えてワシントンに帰る途中ロンドンに立ち寄ったのが最初で、以後五、六回は訪れている。五年前の訪問の時には、某銀行の友人に、現在ブレア首相のイラク情報操作疑惑追及の独立調査委員会が開かれている王立裁判所にほど近い旧市街で、開業したばかりの「バンク」という総ガラス張りの超モダンなレストランに連れて行ってもらった。
そこでご馳走になったフィッシュ・アンド・チップは、六八年に新聞紙につつまれたものをぱくついた同じ料理とはとても思えない優雅な味と姿だったことを思い出す。EUの影がはっきり感じられる新しいロンドン、新しいイギリスの姿にもそれなりに接していたつもりである。
五十四カ国の顔
しかし、今回、一番印象深かったのは、ロンドンの街でさまざまな皮膚の色が混ざるマルチ人種社会が定着している姿であった。一瞬、ニューヨークかと思うほどだった。全世界にまたがる英連邦加盟五十四カ国のそれぞれの顔がそれ相応にきちんと代表されていた。見事といっていい感じだった。しかも、この五十四カ国のうち十六カ国は、依然としてイギリス女王エリザベス二世が元首を兼ねているのだという。
かつてその軍事力で支配した七つの海の「臣民」たちを英連邦という「新しい帝国」の器におさめ続けている、この小さな島国の力量を改めて見た思いだった。
夏休みで一般開放中のバッキンガム宮殿を見学できた。チャールズ皇太子のあいさつも聞こえてくるイヤホーン・ガイドを耳に、きらびやかな部屋から部屋へと歩いていると、「イギリスはアメリカ植民地を独立に追いやった大失敗から学んで、英連邦の結成で活路を見出した」との恩師故松本重治氏のことばがよみがえって来た。次の日の夕刊紙には、バルバドス出身の十九歳の黒人女性が初めて女王の騎馬警護隊員に選ばれた、という記事が出ていた。
スクルービイ訪問
取材では、一六二〇年、メイフラワー号に乗って大西洋を渡り、アメリカ民主主義の原点といわれるプリマス植民地を開いた分離派ピューリタン、ピルグリム・ファーザーズ旗上げの地、スクルービイを訪れた。
スクルービイは、ロンドンから北へ列車で一時間半。ロビン・フッド伝説で有名なシャーウッドの森の東北部に沿って広がる農村地帝の小集落。スコットランド・エジンバラに向けてのびる旧街道「グレート・ノーザン・ロード」に面し、十世紀ごろから国王や大司教の荘園邸宅「マナーハウス」があったという。
しかし、歴史に名が残るのは、ピルグリム・ファーザーズの最長老で実質的な指導者であったウィリアム・ブリュースターがこのスクルービイの出身で、のちにプリマス植民地第二代総督として貴重な記録を残したウィリアム・ブラッドブォード、オランダ逃亡を経てメイフラワー号出発までのロンドンのベンチャー・ファンドとの交渉を担当したジョン・ロビンソン牧師ら一行の指導者がひそかに分離派ピューリタン教会を設置し、集会を開いていた場所だからである。一六〇六、七年ごろの話である。
現在の人口は約三百人、パブ兼レストランが一軒あるだけ。まったく観光地化しておらず、ブリュースターらが国王と国教会の追手におびえながら、「教会の自主的運営による神と直結する信仰」という分離派ピューリタンの教義を論じたといわれるマナーハウスも一部が残っていて、現在の所有者が居住していた。前庭では洗濯物が風に踊り、その先の牧場では馬が数頭、草をはんでいた。
「帝国」講義の注文
あまりにも静かで普通の風景にややとまどっていると、案内してくれた郷土史家のマルコム・ドルビー氏はそれを察したかのように、「あのころの時代、彼らは純粋であるがゆえに過激な、異端のグループだったのです。国教会の腐敗と権威主義を教会内部で改革しようとするピューリタンのさらにその外側で、教会の制度、秩序そのものからの分離を求めて彼らは本当に激しい弾圧を受けました。オランダへの脱出、さらに当時ほとんどのイギリス人が正確にその存在を理解していなかった新大陸への旅立ちはそれこそ決死的で過激な行動でした」と語った。
約四世紀も前のイギリス帝国の過激分子が生み落としたアメリカ民主主義は、いま東西冷戦一人勝ちのあと、九・一一のショックを経て、その「自由の帝国」としての使命感と義務感そのものに試練が訪れている。イギリス「新帝国」の空気に触れていると、「アメリカという国」がまだまだ若く、未熟で、そしていまもなお過激な「帝国」であることがよくわかる。
サンデー・タイムズに「最近、プリンストン大学をはじめとするアメリカの一流大学からイギリスの大英帝国史専門の学者に対して、講義の注文が数多く舞い込んでいる。イラク戦争後のネーション・ビルディングでのあまりの不始末に、アメリカはイギリスから帝国維持のノウハウを学びたいということらしい」という記事がのっていたことを報告しておく。