1995_05_ドレスデンと東京(月刊文藝春秋・巻頭随筆)

『文芸春秋 1995/05』

ドレスデンと東京

 

松尾文夫

 

 とにかく仕事でたびだび訪れる米国である。一九六〇年代後半と八〇年代初めには、ワシントン、ニューヨークの特派員として二度も勤務した。しかし、二月中旬、この第二の故郷といってもいい二つの街を回った旅では、日本が米国と戦争し、敗れたのだという過去をいつになく身近に感じた。ことしが敗戦五十周年だからだけではない。同じような節目の年を迎えているドイツの方が米国との間にずっと安定した関係を築き上げているのではないか、それに比べて日本と米国は、政治、経済、社会のすべての分野でこれだけ切っても切れない関係となりながら、依然として五十年前の傷跡を十分に修復していないのではないか─こんな自問自答をかかえることになったからである。

 きっかけは二月十三日朝、ワシントンのホテルの部屋で見たテレビだった。前夜、ドイツ東部のドレスデン市で行われた無差別爆撃五十周年追悼行事のニュースが飛び込んで来た。一九四五年二月、既にソ連軍が国境を越え、敗色濃いナチスドイツに「とどめを刺す」ためにと、非軍事都市破壊作戦が計画され、その第一号に美しいバロック建築の街並みで名高かったドレスデンが選ばれた。十三日と十四日の両日、延べ八百機の英米空軍機が三波にわたって三万五千トンの爆弾、焼夷弾を投下、三万五千人の市民が犠牲になったという。「あの爆撃はやり過ぎだった」と語る当時の米空軍パイロットとのインタビューも紹介された。

 墓地の追悼ミサには、ドイツ側からコール首相、ナウマン連邦軍総監。英国からはエリザベス女王名代のケント公、国防幕僚長のインジ元帥。そして米国から制服トップのシヤリカシュビリ統合参謀本部議長といった顔ぶれが並んでいた。ヘルツォーク・ドイツ大統領は別の集会での演説で「誰もナチスの残虐行為を相殺しようなどとは思わない。われわれはいま死者を弔うためだけにここにいる」とさらりとした表現で、爆撃した者とされた者との和解を報告していた。

 即座に私の胸にあふれたのは、三月十日の東京大空襲五十周年の記念日に、これだけの顔ぶれが日米双方から集まり、これだけ踏み込んだ鎮魂と和解の儀式が行われるのだろうか─との思いであった。

 翌日の米各紙もこの「ドレスデンの和解」を写真付で大きく伝え、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、論説ページのトップに「ドレステン──われわれがソーリーという時」と題するサイモン・ジェンキンズ氏のロンドン・タイムズ紙への寄稿をわざわざ転載した。

 ドレスデン爆撃は、ドイツ国内では「ドイツの広島」と受けとめられ、大戦初期のドイツ空軍による英国都市爆撃に対する英空軍の感情的報復説、あるいは戦後処理をにらんだスターリンへの牽制説まで、戦後、ドイツ、英米の双方でその正当性をめぐって長い論議が続いていたようだ。それだけに盛大なけじめの演出が必要だったのかもしれない。それにヒットラーの存在から始まって、ドイツと日本との違いをいいだせば切りがない。

 しかし、私の気持のなかでは、このドレスデンと、そのわずか三週間後に、死者の数だけでも三倍近い犠牲者をだした東京大空襲とを切り離して考えることは難しくなっていた。三月十日を皮切りに敗戦直前まで続いた日本の各都市に対するB29のじゅうたん爆撃、そして広島、長崎への原爆投下─戦争末期における米国の対日無差別爆撃の論理がドレスデンから始まっているように思えたからである。

 帰国後めぐって来た三月十日の東京大空襲記念日には、東京都主催の記念式典に今回初めてモンデール駐日米大使が参列、「ソーリー」と遺憾の意を表した、という。これは大変いいことだったと思う。しかし、やはりこれだけではけじめとはならないのではないか、ドレスデンは済んでも東京はまだ済んでいないのではないか、日米関係そのものが「ドレスデンの和解」を果たしたドイツと米国との間の安定度とはほど遠いところにあるのではないか─としみじみ考える。

 周知のように、ワシントンのスミソニアン博物館での原爆投下機エノラ・ゲイ展示計画は、事実上挫折した。ワシントンで再会したレーガン政権当時の高官は「原爆投下という日米間のトゲをきちんと抜く絶好のチャンスだったのに残念だ。スミソニアン博物館側がもうすこし慎重に案を練ればよかった」と語っていた。広島、長崎は米国人にとっても過去のものとはなっていない。

 私がドレスデンとの差にこだわるのは、私自身や家族が米軍の爆撃を受け、それがまた現在にいたる米国および米国人との出会いの場でもあったからである。昭和八年生まれ、敗戦の年を国民学校六年生で迎えた私は、三月十日の東京大空襲で叔父夫婦と小さな従妹を失い、七月十九日夜には、疎開先の福井市でB29百二十七機の焼夷弾爆撃を浴びた。ナパーム剤が詰まったM69と呼ばれる焼夷弾四十八発をまとめた親爆弾がたまたま不良品で、予定通り低空で開かず、そのまま水田に落ちて、私と母と弟たちは泥水をいっぱいかぶっただけで助かった。

 私と米国との関係はこうして始まった。そしていまや日本と米国は、これだけ歴史や文化や価値観が異なりながら、経済の相互依存、安保条約で結ばれ、野球からディズニーランド、最近ではベストセラーまで共有する世界の歴史でも珍しい二国関係を築いている。

 ニューヨークでは、六〇年代からの「アメリカ消滅」の切なさを巧みにとらえた「フォレスト・ガンプ」の本と映画が大評判だったが、帰って来ると、日本でもその翻訳がベストセラーのトップに位置しているのには驚いた。「ドレスデンの和解」との落差が経済摩擦以上にますます心配になって来た。五十周年の節目はまだ半年以上も残っている。三月十四日の硫黄島での行事のように、日米双方が知恵を出し合う時だろう。ここでも政治はあまり頼りにならない。

© Fumio Matsuo 2012