第4回 エルビス・プレスリーと「真昼の決闘」

-小泉訪米での「すれ違い」-

 前回の「タカ派」ヒラリーに引き続き、アメリカを理解する上での難しさについて報告しておきたい。七月初めの小泉首相訪米の際の微妙な「すれ違い」現象である。

 最初に断っておく。私は過去五年間、小泉首相がブッシュ大統領との間で維持した個人的な友情、信頼関係を過小評価するものではない。アメリカという日本にとって決定的に重要な国の首脳と心を開く関係をつくり上げたこと自体、立派な実績だ、と思う立場である。 私は、1980年代初頭の共同通信ワシントン支局長時代、当時の中曽根首相とレーガン大統領の間でPRされた「ロン・ヤス関係」を間近に目撃している。しかし、いま小泉首相が、自らの「はしゃぎすぎ」も受け入れてくれるところまで、ブッシュ大統領の気持ちをとらえたような状態まではいっていなかった。「俳優」レーガンの「演技」の枠内にとどまっていた、と思う。その意味で、小泉・ブッシュ関係は、世界の外交史でもめずらしい事例なのだと思う。 それだけに、知っておかねばならないと思う「すれ違い」の事例を報告しておく。

―ものまねしか報道されず―

 一つは、結果として、今度の訪米での「目玉」となったエルビス・プレスリーをめぐる「すれ違い」である。アメリカ・メディアの報道では、エルビス・プレスリーに対する小泉首相の熱心なファンぶりだけがクローズアップされたことは、周知の事実である。 特に、ブッシュ大統領夫妻がエア・フォース・ワンで同行するサービスまでみせたメンフィスのグレースランド訪問、つまりファンにとっては「聖地」であるエルビス・プレスリー記念館の見学で、小泉首相が大統領夫妻とプレスリー遺族らを前に、プレスリー愛用の黒メガネまでかけて演じてみせたものまねは、新聞各紙やテレビのニュースで全米に紹介された。 ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、優れたニュース選択と要約で知られ、担当記者は編集局長に並ぶ高給を得ている一面の短信欄で、「ブッシュはエルビスを熱愛し、そのものまねを演じる日本の小泉を、彼の首相としては最後になると思われる訪米に当たり、グレースランドへの旅でもてなした」とだけ報じた。包括的な日米同盟を再確認した首脳会談そのものの記事は、どこにもなかった。

―プレスリーの寄付でできたアリゾナメモリアル―

 私はこうしたアメリカ・メディアの対応に接して複雑な気持ちだった。小泉首相のグレースランド訪問のニュースが流れ始めた六月初め、アメリカの友人から思いがけないメールが届いていたからである。それにはこう書かれていた。 「小泉さんは、なぜ真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する戦艦アリゾナ残骸上のアリゾナメモリアルにも足をのばさないのだろうか。なぜならば、アリゾナメモリアルは、1961年にエルビス・プレスリーがハワイでの興行収益六万五千ドルを寄付したことで、それまで難航していた建設が軌道に乗り、一年後に完成した歴史を持つからです。エルビス・ファンの小泉さんがエルビスゆかりのアリゾナメモリアルを訪れ、献花し、戦争の傷跡を消す努力をすれば、エルビス・ファンとしての小泉首相は二重の意味で歴史に名を残すことが出来る。これは、日米関係全体にとって願ってもないことではないでしょうか」

―ブッシュ大統領広島献花実現のために―

 このアメリカ人のメールは、私が昨年八月十六日付けの、ウォール・ストリート・ジャーナル紙に戦後六十周年にちなんで寄稿した「Tokyo Needs Its Dresden Moment」と題する論文を読んだことを告げ、私がその中で、原爆投下に代表される日本各都市への無差別爆撃という日本人の心の底に残るトゲをとるために、ブッシュ大統領に広島の平和記念公園での献花を呼びかけていることにも触れていた。そして、このブッシュ大統領による広島献花の実現のためにもと、小泉首相のアリゾナメモリアル訪問を強く求めていた。 このアメリカの友人の願いが果たされなかったことはいうまでもない。 私も、アリゾナメモリアルにエルビス・プレスリーが絡んでくるとは知らなかった。アメリカからの真摯な提案に接して、改めて戦争という傷を清算することの難しさを思い知った。 その意味で、この「すれ違い」は、小泉首相のみならず、私を含めて日本人全体のアメリカとの「すれ違い」の一例といえるかもしれない、と自戒した次第である。そして、改めて調べたところ、日本の首相はまだ誰もアリゾナメモリアルを訪れていないことも分かった。

―ゲーリー・クーパーのアメリカ―

 もう一つの「すれ違い」の方も重い。小泉首相が訪米の公式行事のハイライトであったホワイトハウスでのブッシュ大統領主催の夕食会で、1952年に封切られた映画「真昼の決闘(原題 ハイ・ヌーン)」(フレッド・ジネマン監督)を取り上げたことである。 小泉首相は、英語で行った乾杯の挨拶の最後の方で、こう切り出した。 「私は、アメリカのイメージを、私が大好きな映画「真昼の決闘」で、ゲーリー・クーパー演じる保安官が四人の無法者に勇気と正義のために一人で立ち向かった姿に見出すことがあります。しかし、あの保安官と実際のアメリカでは、大きな違いがあります。いまアメリカは一国だけで悪と対峙しているのではないからです。アメリカは常にアメリカの側に立つ友人たち、そして日本を当てにすることが出来るからです。」 ホワイトハウスが発表したスピーチ全文では、この部分で最初に「笑い」、最後に「拍手」が挿入されている。そして、七月二十二日付朝日新聞朝刊は、「小泉総理、ラジオで語る」の最終回の収録が行われたとの記事のなかで『小泉首相は、日米首脳会談の際の晩餐会で、イラク問題などで孤立する米国を激励したスピーチについて「涙ぐんでくれる人もいた。いい挨拶ができた」と自画自賛した』と報じた。

―マッカーシーイズム抗議の映画―

 確かに涙ぐんだ人がいたかもしれない。しかし、同時に、「真昼の決闘」が製作された1950年代初頭に荒れ狂ったマッカーシーイズムの暗い影を思い起こした人も間違いなくいたはずである。 「真昼の決闘」は、インターネットの百科事典「WIKIPEDIA」によると、全世界の映画中、常に上位250作品の中に入り、アメリカ映画研究書による過去百年の百作品のリストでは第33位に位置し、米合衆国国家映画登録にも選ばれている。保安官を演じたゲーリー・クーパーが1952年度アカデミー賞の最優秀主演男優に選ばれたほか、最優秀編集賞、音楽賞を受賞するなど、A級作品の資格を得ている。 しかし、このブログを書くにあたり、映画の専門家ではない私が勉強した限りでも、「真昼の決闘」が第二次世界大戦直後の、東西冷戦突入初期、国務省、ハリウッド、メディア界を中心に、アメリカ国内をおおった反共ヒステリー、つまりマッカーシーイズムと呼ばれた政治現象と密接に関係した映画だということが良く分かる。 突き詰めて言うと、現在の「ブッシュのアメリカ」における保守派とリベラル派の激しい対立の原点ともいえるマッカーシーイズムとの関係抜きには語れない映画であったということである。

―亡命した脚本家―

 脚本を最後に仕上げたカール・フォアマンは、スペイン内戦までさかのぼって「共産主義者との関係」が追及され、「同調者」の烙印を押すブラックリスト作りの場だった米下院非米活動調査委員会での証言を終えた直後、脚本執筆を前に、こう語ったという。 「私はハリウッドの滅亡について書こうと思う。例え二、三年先にのびたとしても、ハリウッドは外部からの政治的ギャングに降伏するか、彼らによって処刑されるかのどちらかの道をたどる運命にあるからだ」 映画評論家、ジャック・ニランは、この発言をもとに、「真昼の決闘」は、マッカーシーイズムの赤狩り旋風におじけづくハリウッド関係者を、無法者の汽車による到着を前に逃げ出したり、対決をさけて事をおさめようとする町の人々にたとえ、一人残って彼らと立ち向かう保安官ケーンを非米活動調査委員会の公聴会での証言を拒否して戦う人々に見立てた、極めて「意図的な作品」だった、と解説している。事実、フォアマンはこの執筆のあと、イギリスに亡命を強いられ、名誉を回復したのは死後の1997年だった。

―痛烈な日和見主義批判―

 私もDVDを入手して、約五十年ぶりに懐かしい「真昼の決闘」の八十五分間の白黒画面を見た。 当時は気づかなかったマッカーシーイズムという1950年代初頭のアメリカ政治の影が全編をおおっているのが、よく分かった。マッカーシーイズムとの自らの戦いをエネルギーに、巧みな「西部劇」に仕上げたフォアマンの気持ちが伝わってくるように思えた。 例えば、保安官と初々しいグレース・ケリーがまぶしく演じる新妻との旅立ちを祝福したばかりの町の指導者たちが、保安官が汽車で戻ってくる無法者たちと対決するため居残ることを決意したのを知ると、とたんに迷惑顔になり、加勢を拒否。町長らしき人物は教会での町民の討議を集約して、こう訴える。 「いまこの辺境の町で騒ぎを起こすと、東部からの資本が入ってこなくなる。無法者とは折り合っていくしかない。即刻、彼らが来る前に立ち去って欲しい」 こうした場面は、マッカーシー上院議員がそのデマゴーグのおかげで、1954年12月、上院で問責決議を採択されて失脚するまで、アメリカ世論を支配した日和見主義に対する告発のメッセージだったのだと思う。この残酷な日和見主義の犠牲者になろうとしていたフォアマン自らの恐怖心がそのままにじみ出ているようにも思えた。

―許さなかったジョン・ウエイン―

 もちろん、フォアマンは、脚本のなかで一人戦う保安官の正義感、自己犠牲の精神、勇気―といった保守派にも受け入れられる筋立てにも気を配っており、1952年の封切り時には保守派からも許容された。その意味で、当然のことながら、保守派の客が多かったと思われるホワイトハウス夕食会での「ゲーリー・クーパー演じるケーン保安官にアメリカをみた」という小泉演説に、「涙ぐんだ人もいた」というのも事実だろう。 しかし、封切り直後から「真昼の決闘」は偏向映画だと強い不満をもらした保守派もいた。マッカーシーの「赤狩り」運動を全面的に支持し、数々の反共映画、戦意高揚映画に主演、共和党保守派のシンボル的存在で、1979年の死後、米議会自由勲章も贈られているスーパー・スター、ジョン・ウエインがその人である。 ジョン・ウエインは「真昼の決闘」で、クェーカー教徒ながら一人を室内から射殺した新妻の協力もあって、四人の無法者全員を見事退治した保安官がバッジを地上に投げつけ、町を去る最後のシーンを、いつまでも許さなかったという。保安官のバッジに対する侮辱だというわけだった。フォアマンのブラックリスト入りにも公然と賛成の立場を明らかにしている。 小泉首相、さらにはブッシュ大統領が、この映画が持つこうした暗い軌跡を知っていたのかどうか―興味深いところである。しかし、夕食会出席者のなかで、このことに気づいていた人はゼロではなかった、と思われる。 「知っているようで知らない」アメリカとの一つの「すれ違い」であることだけは間違いない。

―蓮實氏に感謝―

 小泉首相は、2001年9月11日、米中枢同時テロ直後の始めての訪米の際にも、「真昼の決闘」に触れて同じ趣旨の演説を行っている。この演説が新聞に出た後、私は、高校同窓の映画評論家、蓮實重彦氏から初めて「真昼の決闘」とマッカーシーイズムとの関係について教えてもらった。そのおかげで、私は日米間の「すれ違い」という長年のテーマに、また新しい実例を得ることができ、同氏に感謝している。 ちなみに、蓮實氏は「ハリウッド映画史講義―翳りの歴史のために―(筑摩書房、1993年)」のなかで、作品としての「真昼の決闘」については「脚本の図式性」などをあげて、辛口の評価をしていることを報告しておく。 そしてこの七月には、同氏から、若い映画研究家、上島春彦氏の「レッドパージ・ハリウッド―赤狩りに体制に挑んだブラックリスト映画人列伝―」(作品社)が出版されたことも教えてもらった。同書は、フォアマンを含めた当時のブラックリスト当事者たちの陰影に富んだ生き方を追った労作である。読解するには相当の専門的知識を必要とする。しかし、「アメリカという国」を映画を通じてきちんと理解するうえでは、貴重な教科書でもある。ご一読をすすめる。

(2006年8月5日記)

© Fumio Matsuo 2012