渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」(二〇〇六年九月号)
時評
「人と人」から「国と国」へ
──再生国際文化会館への期待
松尾文夫(ジャーナリスト)
拉致問題をかかえる北朝鮮のみならず、小泉首相の靖国参拝をきっかけに中国、韓国ともぎくしゃくした関係が続き、「同盟」を組んでいるはずのアメリカとさえ「擦れ違い」が起こりかねない状況を目の当たりにして、やはり紹介しておかねばと思うことがある。
北朝鮮が七発のミサイルを日本海に打ち込んだ二日後の七月七日、本館保存再生工事の完成を祝った財団法人国際文化会館(高垣佑理事長)が持つ歴史的な役割についてである。六十一年前の悲惨な敗戦の経験から学び、明治以降の日本に欠けていた世界各国との本物の国際知的交流の達成を目指すというその創立の志についてである。
松本重治さんの戦い
廃墟の東京に国際文化会館を生み落とした戦後日本の指導者たちのなかで、初代専務理事、のちに理事長として中心的な役割を果たした故松本重治氏から、私は、ジャーナリスト、アメリカ研究者として直接指導を受ける幸運に恵まれた。松本さんが「人と人」との交流、相互理解、信頼の構築から「国と国」との友好、共存関係を生みだそうというプログラムの実践に、ゼロから挑戦されている姿を間近にみた最後の世代に属する。会館図書室が一番の勉強場所だった。
松本さんは、一九五五年、麻布鳥居坂の旧岩崎小弥太邸跡に、戦後の日本を代表する建築家、前川国男、板倉準三、吉村順三の三氏の共同設計で竣工した、美しい会館を舞台に、国境を越えた「人と人」の輪の構築に全力をそそがれた。グロビウス、トインビー、ネール、オッペンハイマー、リースマン、ケナンといった巨星の招請だけではなく、愛妻花子夫人の全面的協力を得て、毎週木曜日、会館ロビーで、外国人宿泊客や会員、一般来訪者と歓談する「ハウス・ティー」も続けた。
いまから考えると、いつもパイプをくゆらし、悠々迫らぬ温和な表情のかげには、国際交流の仕事に、単身、素手で戦う烈々たる気迫が込められていたのだと思う。そして重要なのは、この松本さんの情熱を支えていたのが、過去に対する自責、自省の念だったということである。アメリカ、欧州で深く学んだ戦前の数少ない国際派エリートの一人として、また近衛文麿首相に近いジャーナリストとして、日中戦争の拡大から真珠湾攻撃にいたる日本の悲劇への道を見守りながら、それを阻止することが出来なかった、という痛切な思いが肌で伝わって来た。
奇しくも蘆溝橋記念日
公職追放解除後、吉田首相からの駐米大使就任の要請を断り続けたのもそのためだったと思う。第二次抗日国共合作のきっかけとなった西安事件の国際的スクープという同盟通信上海支局長時代の勲章についても、松本さんはいつも、もし七ヵ月後の蘆溝橋事件をきっかけとする日本軍の侵攻開始がなければ、あまり歴史的意義を持つものではなかったかもしれない、と控え目に語っていた。
つまり、中国も、中国人も知らず、理解せず、その中国とペリー来航より半世紀以上も前に関係が始まっていた「アメリカという国」についてもきちんととらえず、破局への道を走った戦前の日本の不毛な国際関係を目撃して来た松本さんにとって、大使ポストではなく国際文化会館での国際交流事業への献身が、一つの責任の取り方だったのだと思う。
この辺の気持を語る松本さんの肉声に、國弘正雄元参議院議員が聞き手となってまとめた『昭和史への一証言』のなかで、接することが出来る。最近、たちばな出版から再版された。日本全体が忘れ始めている敗戦の反省の中から生まれた戦後日本の再出発の原点の一つを知るうえでも貴重な記録である。一読をおすすめしたい。
国際文化会館は、国際的バンカーである高垣理事長のもとで、「日本と諸外国の人々との知的交流を通じて相互理解を深め、人々が地球上での共生の道を切り拓くためのカタリスト」になると宣言して、新しい道を歩みだした。大いに羽ばたいていただきたい。
七月七日の完成祝賀レセプションには、天皇、皇后両陛下もご臨席になり、会員および招待客たちと歓談された。そのなかには駐日大使の何人かもおり、王毅中国大使の姿もあった。ハンサムでおしゃれな王毅大使は、遅くまでレセプションに残り、立派な日本語で多くの会員たちと話し、未来志向の日中関係への期待を熱っぽく語っていた。
奇しくも七月七日は、松本さんが日本の運命の分かれ目とした一九三七年の蘆溝橋事件発生の日から六十九年目の記念日。新生国際文化会館スタートの日にふさわしい日だったと思った。