1988_11_惜しまれて勇退 マンスフィールド大使 -真の友好関係構築に情熱 軍事大国化を懸念-(信濃毎日新聞)

信濃毎日新聞 (1988年11月18日)

 

惜しまれて勇退 マンスフィールド大使

-真の友好関係構築に情熱 軍事大国化を懸念-  (松尾文夫共同通信社国際金融局長)

 

「私は日本では、プロ・ジャパニーズ(日本びいき)の議員として通っているらしいが、これは大変迷惑なことだ。確かに私は日本および日本人を尊敬している。日本が抱える問題も理解しているつもりだ。しかし、もし私の発言や行動が日本のためになっているとしても、それは私が米国のためになると思ってやったことの結果にすぎない。沖縄返還も米国のためになるから賛成しているのだ。私はごく普通の愛国的な米国人でしかない。ただのプロ・アメリカン(米国びいき)にすぎない。」

 マンスフィールド駐日米大使の勇退発表を聞いて、すぐ思い出すのは、大使がまだ民主党上院院内総務を務めていた1969年2月、私に語ったこの言葉である。

 ニクソン政権の発足からちょうど二ヶ月後、沖縄の施政権返還がようやく実現へ向かって動き出し、その熱心な支持者であった同院内総務を訪れる日本側要人が目立って増え始めたころのことである。ワシントン特派員としての四年間の勤務を終えることになり、何度もインタビューに応じてくれたお礼に訪れた私に、いつもは「イエス」「ノー」「そうかもしれない」「そう期待する」「知らない」「言えない」と判で押したようなそっけない答えで、あっという間にインタビューが終わってしまうマンスフィールド氏がなぜかいつになく冗舌であったことが昨日のようによみがえってくる。

 「米国びいき」が「日本びいき」としても通用する相互依存の日米関係、「米国のためになることが日本のためにもなる」本物のパートナーシップの構築-マンスフィールド氏の駐日大使としての十一年間は、あの日の冗舌に込められた思いを実践に移す日々であった、と私には思える。

 マンスフィールド氏自身、カーター外交の残した唯一の業績ともいわれる駐日大使任命について、「本当に引退するつもりだった。日本以外のポストだったら受けなかっただろう」と述懐していた。その意味で「日米関係の安定を果たして大手を振って帰れる」(十四日の勇退発表)という氏にとって、七十四歳から八十五歳までの最長在任記録はしんどいがまた楽しくもある日々であったろう。

 いま必要なのは、このマンスフィールド大使が作り上げたと自負して去る「日米兄弟関係」の中身を正確に理解することである。

 一つは、日本経済の構造的な対外依存の体質、つまり「貿易立国」「経済立国」しかない生存の条件を米国民が理解し、日本もまたその国際化に全力を挙げて、保護主義の阻止という日米共通の利益を守らねばならないというテーゼである。1954年の上院本会議演説で「日本が自由かつ平和な隣人として生きていくためには、どうしても漁業と貿易を営まねばならない」と述べて以来、このマンスフィールド氏のアプローチはいささかも変わっていない。

 最近では、「日本の市場はいまや閉鎖されていない。日本株式会社はもはや存在しない。より国際化された新しい世代の消費者の時代が近付いている」(十月二十七日の東京での講演)とまで持ち上げてくれている。

 もう一つは、日本が第二次世界大戦前のように軍事大国化することはアジアの安定にプラスとはならず、絶対にこれを防がねばならないという信念であり、判断である。具体的には、日米安保体制で日本の軍事大国化にタガをはめることが米国と中国との間の共通の利益であり、米中、日中、日米の三つの関係の安定という史上初めての成果をもたらしているという認識である。

 マンスフィールド大使は、この論理を使って、米国内での日米安保ただ乗り論や防衛責任拡大要求を押さえ込む一方、自衛隊の質的向上や防衛費の国民総生産(GNP)1%突破などは、日米安保体制の積極運営の枠内として容認するパフォーマンスを演じてきている。「米国民はアジアを十分に理解する努力をしたことは一度もなかった」との反省から極東史の専門家(ちなみに政界入り前教壇に立っていたモンタナ大学での修士論文は「19世紀末の米国と朝鮮の外交関係」である)として中国封じ込め政策からベトナム介入にいたる米アジア政策を深く自己批判したうえで打ち出された日本軍事大国化への不安は深い。

 しかし、「日本の防衛費はどの欧州諸国より高い」(十月二十七日の講演)といった説明は、日本の市場開放弁護とともに、いまの米議会、世論には綱渡りのパフォーマンスであることは間違いない。

 マンスフィールド氏は、いまハッピーな充足感を抱いて東京を去ろうとしている。しかし、残された日米関係とりわけ、老大使の情熱と深い思いに依存していたワシントン、東京の両政府にはハッピーとは裏腹な空白が待ち受けている。

© Fumio Matsuo 2012