1996_04_レストン記者との思い出(新聞研究・随想)

随想

レストン記者との思い出

 

松尾文夫

 

 

 一九六〇年代後半と八〇年代前半の二回、ワシントン特派員として勤務したおかげで、あのジェームス・レストン大記者から直接教えを受ける幸運に恵まれた。昨年十二月、八十六歳で鬼籍に入られたレストン氏をしのんで、いまもけんけんふくようする金言と懐かしい思い出を報告しておきたい。

 最初の出会いは、私が新米のワシントン特派員だった六六年五月、社の大先輩で、米国の勉強の師でもあった故松本重治氏がワシントンに立ち寄られたときである。ある朝突然、「これからレストン君のところに行く。君も来なさい。ためになるから」といわれて、ついて行った。

 そのころ、レストン氏はばりばりの現役で、ニューヨーク・タイムズ紙ワシントン支局長、その名物コラムはワシントン・ジャーナリズムの最高位に位置していた。松本さんのあとについてオフィスに入り、握手してもらったときの高揚した気分はいまも昨日のことのように覚えている。松本さんが、当時のジョンソン大統領が続けていたベトナム戦争エスカレーション政策の非をじゅんじゅんと説かれるのを、レストン氏は丁寧にメモしていた。

 辞去するとき、私が五か月前にワシントンに来たばかりだと知ると、わざわざ立ちどまり、「議会をよく取材することだ。ワシントンの取材は議会から始まる。だれか自由に話が出来る議員をみつけるのがいい」と忠告してくれた。そのときの鋭い眼光はいまも忘れない。私が、その後、論文集のお手伝いまでするようになったマンスフィールド上院議員(当時の民主党院内総務、のちの駐日大使)のオフィスをアタックするようになったのはそれからである。

 直接指導を受けるようになったのは、八一年から支局長として再びワシントンに戻ったときだった。レストン氏は七四年にニューヨーク・タイムズ紙副社長のイスを退き、週二回のコラム執筆に三九年までさかのぼるワシントン取材の蓄積をぎょう縮させる悠々たる日々を送っておられた。

 既にベトナム戦争は過去のものとなり、米国はレーガン大統領のもとで「強い米国」路線を走っていたが、レストン氏の話は時代の変化を超えてどこまでもクールだった。仕事にこの上なく役立った。ソ連圏の崩壊についての予言はだれよりも早かったと思う。意外なことに、ウオーターゲート事件で名を上げた調査報道には懐疑的になっており、「新聞の責任とはただあばくだけではない」とのことだった。APのスポーツ記者出身だったため、通信社の仕事にも理解があり、よく励まされた。

 拙宅のパーティーにもサラ夫人とともに二度来ていただいた。家内の手科理が気にいられ、真珠湾攻撃直前の野村吉三郎大使とのインタビューの思い出にまでさかのぼりながら、同席の日本大使館員らと日米関係の難しさと特別さについて、夜遅くまで論じられた。

 このころの一番の思い出は、八三年十月の信濃毎日新聞社百十周年記念の紙面用に、「新聞の将来」と題した特別インタビューに応じてもらったことだ。コネチカット通りに近い自宅にうかがい、じっくり話が聞けた。「新聞の将来」については「コンピューターによる技術革新のおかげで、新聞は安く、早く発行できるようになり、テレビとの共存も果たし、かってなく安定したメディアとなった。教育事業の一つともなった」と、とにかく楽観的だった。この原稿を書くため、信毎の恒川昌久編集局長から当時の紙面のコピーを送ってもらったが、十三年後のいまでも十分通用する示唆に富んだ内容である。

 八四年七月、私が帰任するときには、記念に「砂のうえでのスケッチ」と題した六七年出版のエッセー集をいただいたが、いきなり「東京に帰ったらなにをやるのか。ライターか管理職か」と聞かれた。「まだわからない」と答えると、「この選択は難しい。私も編集の全権を握る執行副社長のポストをオファーされ、受けようかと思ったこともある」と生ぐさい話もされた。

 九〇年十一月、ワシントンのメイフラワー・ホテルにあったお気に入りのフランスレストラン「ニコラス」で昼食をご一緒し、前年に他界された松本さんの思い出話などをしたのが最後となった。

 レストン記者と松本さん──このお二人が築かれたような日米ジャーナリストのきずなを次の世代につなげて、恩返しをしなければ、と肝に銘ずる日々である。

© Fumio Matsuo 2012