2008_03_のしかかるアメリカ建国の呪縛 ──「銃を持つ民主主義」英訳本を抱えての旅──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

のしかかるアメリカ建国の呪縛

─「銃を持つ民主主義」英訳本を抱えての旅─

 

ジャーナリスト

松尾文夫

 

 

 昨二〇〇七年十一月。興味深いアメリカの旅をした。拙著「銃を持つ民主主義──アメリカという国のなりたち─」の英語版が十月にバークレー・ストーン・ブリッジ・プレス社から出版されたのを機会に、ワシントン、ニューヨーク、そして西のスタンフォードなど合計四ヵ所で、サイン会、講演会を行い、私のアメリカ論を直接アメリカ市民に語り、その生の反応に接するチャンスに恵まれたからである。

 昨年だけで三回、ジャーナリスト復帰を果たした二〇〇三年以来の通算では十五回、と「アメリカの旅」を繰り返している私にとっても、新鮮で貴重な経験となった三週間だった。改めて学んだことは数多い。一ヵ月たったいまでもその余韻さめやらずといったところである。

 本稿では、その中から日本人にとって、その理解が一番難しい、アメリカの銃規制問題をめぐるアメリカ市民との「対話」について報告する。私にとって驚きだったのは、銃規制推進派と規制反対派がその解釈で真正面から対立し、アメリカ世論を二分するアメリカ合衆国憲法修正第二条についてのニュースが、この「対話」の直後の旅の途中で飛び出したことである。

 アメリカ最高裁が十一月二〇日、「修正第二条はアメリカ市民に銃を持つ権利を認めているのかどうかについて、二〇〇八年七月までに、権利を認めるとの下級審判決について審理し、立場を明らかにする」との発表を行ったからである。

 これは玉虫色の内容のため、結果としてアメリカ国内の対立をあおることとなった一九三九年の最高裁「ミラー判決」以来、事実上放置されていた修正第二条の解釈問題について、最高裁が六九年ぶりに新たな解釈を下すという画期的な決断をしたことを意味する。アメリカのメディアは大きなニュースとして報じた。私は文字通りアメリカのフトコロに飛び込んでいたわけである。

 

 

 修正第二条論をぶつける

 

 「対話」の場となったのは、十一月七日、私の今度の行脚の振り出しとなったワシントンの日本大使館広報文化センターでの、「著者に聞く」と題した講演会だった。一九八〇年代初期の共同通信ワシントン支局長時代、レーガン・ホワイトハウスの取材で知り合って以来の友人でCBCテレビの著名なホワイトハウス詰め記者、ビル・プラント氏がモデレーターを買って出てくれたこともあり、八〇人以上が集まった。私は、この参加者に日本人が「知っているようで知っていない」アメリカの素顔の一つとして、アメリカ建国の父たちが合衆国憲法の批准を確実にするための妥協策として約束、一七九一年に制定された修正第二条が二一六年たった今も居座っている問題を、正面から取り上げた。

 現在のイラク戦争に至る「民主主義のための武力行使」というアメリカの対外干渉の系譜、およびアメリカ国内で年中行事のように繰り返される痛ましい乱射事件にもかかわらず、全アメリカ・ライフル協会(NRA)を中心とする銃規制反対勢力にブッシュ政権もはっきり加担する中で、本格的な銃規制が宙に浮いている事態を理解するためには、アメリカの建国そのものまでにさかのぼらねばならない、との拙著での分析をそのままぶつけた。

 つまり、現在の銃規制問題をめぐるアメリカの苦悩は、イギリスからの独立を闘い取った後の連邦中央政府を「必要悪」としてのみ受け入れ、万一の専制化の場合には、市民がその排除のために銃を持って立ち上がる権利を持つという歯止めを修正第二条に託した建国の父たちのアメリカ型民主主義のオリジナリティーへのこだわりに源流がある。そこまで「先祖返り」して理解しなければならない、と論じた。同じ民主主義といっても、中央権力が「刀狩り」を前提としていた日本とは、対極に位置する理論を知ることが、日本のアメリカ理解にとって不可欠だと述べた。

 

 

 銃規制推進派も出席

 

 これに対し、会場からは活発な反応があった。拙著英語版の表題(Democracy with a Gun -America and the Policy of Force)のせいか、「銃暴力の阻止のための百万人の母親たちの行進」代表ら銃規制推進派の人たちも来ていて、プラント記者もいきなり修正第二条についての自らの立場を聞かれていた。

 印象的だったのは、こうした銃規制推進派の人たちを含めた会場からの発言が極めて冷静で、外国人である私のNRA寄りともとられかねない建国責任論に対しても反発はなく、むしろアメリカにとっての問題解決の難しさ、根深さを理解してくれた分析と好意的に受けとめられた感じだった。そして彼らが今、「ブッシュのアメリカ」の中では、少数派であり、民主党の大統領候補たちも保守票を意識して規制強化には熱心でない現実を正直に認めていたことに、私は改めてアメリカ建国の「呪縛」の深さをかい間見た思いだった。

 閉会間際になって一人の中年女性が手をあげて、ノエル・ベリンというアメリカ人学者が一九七九年に書いた「鉄砲を捨てた日本人」(邦訳名・中公文庫)という本を知っているか、日本が徳川時代に火器の開発をやめ、武器を刀だけにして平和な時代を築いたという彼の分析をどう評価するか─と聞いてきた。読んでいないのでコメントできないと正直に答えながら、アメリカの銃社会の中にいる彼女が徳川時代や戦後の「平和憲法」下の日本に救いのシャングリラを求める気持ちがくみ取れ、改めて日本の現実とアメリカ建国の呪縛との間の「すれ違い」に重い気持ちになった。

 ブッシュ政権下でロバーツ長官ら二人の保守派判事が送り込まれた最高裁が七月までに、修正第二条にどんな新解釈を示すのか。早くも全開となった大統領選挙戦への影響を含めて、今年の「アメリカ・ウオッチ」の目玉である

© Fumio Matsuo 2012