2005_09_「アメリカという国」を考える(その二十九) ──続々 敗戦六十周年と六カ国協議──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」(二〇〇五年九月号)

 

「アメリカという国」を考える(その二十九)

 ──続々 敗戦六十周年と六カ国協議──

 

松尾文夫(ジャーナリスト)

 

 

 一年一ヵ月ぶりに再開された北朝鮮の核開発問題をめぐる六ヵ国協議は、本稿執筆中のいまも継続中である。共同文書の作成に入ってはいるものの、朝鮮半島の非核化という大目標で一致しているだけで、各論では六者六様の駆け引きが続いている。展望は定かでない。

 しかし、一つだけはっきりしている動きがある。アメリカと北朝鮮との二国間協議が、かつてない頻度で行われていることだ。公表されたものだけでも七月中に六回。次席レベルでの接触が北京市内の北朝鮮経営のレストランで行われたとの情報もあり、実質的には北朝鮮が最初から望んでいた通りのアメリカとの二国間協議が進行している。

 本稿では、このアメリカと北朝鮮との関係にしぼって報告しておきたい。今回の六ヵ国協議がどのような結果に終わろうとも、少なくとも拉致問題を合意文書に折り込むことさえままならぬ日本にとって、目を離せない動きであることは間違いないからである。先々月号から私がこだわり続けている「アメリカにあって日本にはない」東アジアでの水面下の状況の代表的な例だと思うからである。

 

 

 ▽金日成助けた米教会

 

 まず、歴史をさかのぼってみたい。現在の金正日書記の父親であり、いまも北朝鮮建国の父としてあがめ続けられる故金日成主席が、太平洋戦争前の日本統治時代、アメリカの影響力を肌で感じ、支援を受けながら育ったという事実を忘れてはいけない。金日成主席の父親はソウルのミッション・スクールで学び、主席自身も、一八九〇年代に米プロテスタントの有力宗派、メソディスト派のアメリカ人宣教師によって創立されたジョン・ドン教会の四代目牧師、ソン・ジョンドン師に、旧満州吉林での学生時代、援助を受けている。すなわち、日本統治下の朝鮮半島では、アメリカ人宣教師とその後に控えた「アメリカという国」は、日本の支配に苦しむ朝鮮の人々、特にそのインテリ層にとっては頼りになる存在だった、ということである。

 一九九四年十月、クリントン前政権下でまとまった先の米朝合意、つまり北朝鮮の実験用原子炉などの凍結と引き替えにアメリカが関係改善をコミットすることで取引が成立した「米朝枠組み合意」が調印された背景には、金日成主席個人が決して忘れなかったこの少年時代のアメリカヘの「敬意」もあったとみられている。事実、「米朝枠組み合意」成立後の米朝蜜月時代、金日成主席は、アメリカで医者をしているソン・ドンジョン師の子息を平壌に招いて、手厚くもてなしている。

 二〇〇〇年十二月、任期切れ直前のクリントン前大統領が当選が確定したばかりのブッシュ現大統領の反対で、平壌訪問を断念するまで続いたこの米朝蜜月時代のアメリカ側人脈は、この際、掌握しておいた方がいい。

 

 

 ▽「トラック�」実行の実績

 

 まず金日成主席の父親が学んだソウルのミッションスクールの創始者を祖父に持つ韓国系アメリカ人のK・A・ナムカン氏は、「米朝枠組み合意」の「トラック�」と呼ばれ、北朝鮮に資金援助など核凍結の「見返り」を折り込んだ秘密付属文書の実行面で、活躍した。ブッシュ政権で関係が冷却化したあとも昨年一月、寧辺(ヨンビョン)の核開発施設で「プルトニウム」だという物質を見せられ、結果として北朝鮮の「核抑止力」の存在を証言するメッセンジャー役を努めたスタンフォード大学国際安全保障協力センター教授のジョン・ルイス氏は、いまも米朝チャンネル役として健在である。その後も訪朝を続けている。もともと中国の専門家であったルイス教授は、九〇年と九一年の二回、平壌でアメリカ、韓国の当局者と北朝鮮指導部との対話セミナーを主催したことで知られ、ナムカン氏と同じく「トラック�」の実施では多くのアメリカ企業や財団から援助を引き出した実績を持つ。

 議会内にも、二年前、ブッシュ政権が北朝鮮を「悪の枢軸」に加える強硬姿勢に転じたあとも、一貫して「交渉による解決」を主張しているハト派が上院外交委員会に腰をすえている。委員長であるリチャード・ルーガー上院議員スタッフのキース・ルース氏。野党民主党の筆頭委員、ジョセス・バイデン議員スタッフのフランク・ジャヌジ氏。この二人は二〇〇三

年に訪朝、帰国後、ブッシュ政権に北朝鮮との公式非公式の接触を拡大するように求めた超党派の報告書をまとめていた。

 こうして、アメリカ側での北朝鮮との対話チャンネルは、公式レベルでの激しい対立の陰で意外に深く、長い。しかも、北朝鮮はニューヨークにれっきとした国連代表部という出先を持つ。ニクソンと毛沢東が日本の頭越しに握手した一九七二年のアメリカと中国と比べて、米朝間のコミュニケーションの密度ははるかに濃い。

 

 

 米財団の資金でIT研修

 

 私がこの辺を肌で感じたのは、ジャーナリストに復活直後の二〇〇二年九月末、直前に行われた小泉首相の電撃的な平壌訪問と金正日書記との会談をテーマに、ニューヨークのジャパン・ソサエティで開かれていたシンポジウムに出席した時である。当時の韓国大使とその後アメリカのメディアに北朝鮮のスポークスマン役としてたびたび登場する韓成烈国連次席大使が仲良く最前列に座っているのを目にした。韓次席大使は、シンポジウム後のレセプションで、私とも気軽に名刺の交換に応じるスマートな外交官だった。その後、もともとは韓国系の団体だったニューヨークのコリア・ソサエティの夕食会には、ブラック・タイで出席したという。

 しかし、約半年後の二〇〇三年四月、再びニューヨークを訪れた私は、この韓次席大使を含めた北朝鮮国連代表部がアメリカと北朝鮮との民間交流に深くかかわっていたことを知る。この時期はイラク戦争の最盛期で、北朝鮮の核開発問題でも、米朝中の三ヵ国協議が次回開催のメドも立たないまま終了し、米朝間に緊張が高まっていたころである。

 平壌の金策工業総合大学のIT専攻リサーチャーをニューヨーク北部のシラキュース大学(一八七〇年にメソディスト教会が創立)が招いて、システム・アライアンスの基礎研究を約一ヵ月研修、その資金を、戦前から親中、反日の立場で知られた週刊ニュース誌「タイム」の創業者、ヘンリー・ルースの遺産を受け継ぐ財団が提供したという。この日本にとっては聞き捨てならない動きについては、「青淵」二〇〇三年十二月号の本欄で、その概要を紹介している。

 ここでは、その後、金策工業総合大学、シラキュース大学、コリア・ソサエティ、そして北朝鮮国連代表部の四団体代表が両大学間の「集積情報技術分野における双務的研究協力」と題する報告書を共同でまとめていることだけを新たに報告しておく。

 いま実質的には米朝二国間協議となり、中国がそのまとめ役を演じる北京での六ヵ国協議の背景には、こうした「日本にはない関係」が確立している事実を肝に銘じておかねばならない。

© Fumio Matsuo 2012