第5回 人口3億人の大台に乗る苦悩

-3億人目の「アメリカ市民」は非合法移民の子供か?「自由のフェンス」建設のアイロニーー

 いま、アメリカは、ブッシュ大統領が2002年の年頭教書で「悪の枢軸」と名指しで非難したイラク、イラン、北朝鮮を相手に、それぞれのかたちでの戦いに忙しい。北朝鮮には、とうとう核実験までやられてしまった。しかも、最大の目標としたイラクでの民主主義の定着が一向に実現せず、15万というアメリカ軍撤退のメドもたっていない事実に象徴されるように、いずれの戦線でも、勝利の展望は開けず、その補給線は伸び切っているといっていい。
 「9.11」のショックをテコに、「テロとの対決」という中央突破作戦で、再選を果たし、ここまでアメリカ国民を引っ張ってきた6年間のブッシュ路線に対する審判は、11月7日の中間選挙で下される。
 その分析を来月に書くことを約束したうえで、今回は、その足元で、この「アメリカという国」が迎えている大きな節目について報告する。人口が3億人の大台に乗る中で、「移民の国」アメリカの原点そのものが問われようとしている現実についてである。

ー十月中にも達成ー

 連邦政府の人口調査局が発表した数字によると、本稿執筆中の10月8日現在で、アメリカの人口は2億192万8658人。この数値は今この時も着実に増え続けており、米国国勢調査局がインターネット上で提供する「人口時計」には、刻々と変動するアメリカと全世界の人口が表示されている。
 アメリカ全土で、新生児が7秒に1人誕生、逆に13秒に1人が死亡、これに31秒に1人の割合で出現する移住による新アメリカ市民権獲得者を加えると、11秒に1人のアメリカ人が登場する計算だそうで、3億人台入りは、文字通り秒読み段階である。10月中の達成は間違いないと見られている。アメリカのメディアでは、この「3億人目のアメリカ市民」をつきつめようと報道合戦が始まっている。
 つまり、アメリカは、人口数でも、第1位の中国の13億1500万人台(2005年推定。台湾、香港、マカオを除く)、第2位のインドの11億3300万人台(2005年推定)に続いて、第3位。しかも先進工業国として初めての3億人台という人口超大国の地位も手に入れたわけである。

ー2億人台入りを目撃ー

 私は、この出来事を特別の感慨を持って受け止めた。アメリカの人口が2億人の大台にのった1967年、当時34歳の共同通信ワシントン特派員として勤務しており、アメリカのメディアが大きく取り上げたことを記憶しているからである。あれから39年かと、そのスピードに驚く。いまこうしたブログに書いていることを含めて、未だに「アメリカという国」を追い続けている自らの人生の歩みをかみ締める個人的な感傷と同時に、この人口増のスピードの速さに戸惑い、右往左往するアメリカの姿を他人事ではなく受け止めてしまうからである。
 数字の話を済ませてしまおう。アメリカの人口統計は、1790年から始まる。その時の人口は392万9214人―と記録されている。2年前の1788年に制定されたアメリカ合衆国憲法第1条第2節3項の連邦下院議員の数は、各州の人口に比例して決める、との規定に従って始まったものだ。10年ごとの全国人口調査が、各州の下院議員数の変動、つまり各州の大統領選挙人数の変動、従ってその政治的影響力の変動―に連動するアメリカ民主主義独特のシステムの開始だった。
 ちなみに、この人口数には黒人は南部奴隷州との妥協の結果、実数の5分の3しか数えられず、現住インディアンに記載されてもいない。彼らがこの統計に単独で登場するのは、1890年の人口調査からである。
 人口統計が明らかにするアメリカの「差別」と「排除」の歴史については、2004年の拙著「銃を持つ民主主義―『アメリカという国』のなりたち」に細述してあるので、読んでもらえればと思う。
 この10年ごとの統計で、一億人台に達したのが1920年。いうまでもなく、19世紀を通じての西へ、太平洋へーとの「明白な天命」路線の下での領土拡張と、欧州各国からの移民の波を受け入れてきた130年が産み落とした数字である。ここから、私がその現場にいた1967年を経て、二億人台を公式に記録した1970年まで、わずか50年。それから今度の三億人までが39年。その人口拡大のスピードが、加速されていることがよく分かる。

ー1965年移民帰化法が加速の引き金ー

 私はこのスピード・アップの原因も目撃している。1965年に当時のジョンソン大統領がその政治力のピークの時期に、いわゆる「偉大な社会」政策の一つとして、成立させた「1965年移民帰化法」である。20世紀に入って、様々な形での移民流入へのハードルを高め、いわゆる国別の割り当て制が定着していた移民政策を大きく転換、第三世界をはじめとする全世界からの移民に対して、アメリカへの「寛大な扉」を開いた法律だった。
 「偉大な社会」政策は、暗殺に倒れたケネディ大統領の「ニュー・フロンティア政策」継承に成功したジョンソン大統領が展開した諸政策で、今では民主党最後のニューディール型リベラル政治と位置づけられている。現在の黒人の地位向上に道を開いた、公民権法など「大きな政府の政治」の下での「アメリカの夢」の実現を目指した。「65年移民帰化法」もその一つ。
 ジョンソンはこの勢いに乗りすぎて、「東南アジアにも偉大な社会を」と、世界の警察官を自負して、ヴェトナム軍事介入の泥沼にはまり込む。この結果、1968年の大統領選挙では、共和党のニクソンが登場、以来、民主党のリベラル政治はアメリカ政治の主流から姿を消す。
 しかし、この「65年移民帰化法」のおかげで、「アメリカ市民」の数は自然出生率の年々の低下にもかかわらず、増え続ける。1967年からの39年間で増えた一億人の53%が、同法の恩恵に浴したいわゆる「新移民」と彼らから生まれた子供達だーとUSAトゥデイ紙は伝えている。しかも、そのほとんどが隣国メキシコを中心とする中南米諸国からのヒスパニック系移民によって占められる結果となった。人口全体の中では3分の2を占めるヒスパニック系以外の白人層も、人口増加の中で占める割合では、5分の1に過ぎない。
 分かりやすい数字を挙げると、人口が2億人に達した1967年には、1000万人弱に過ぎなかった外国生まれの市民が、全体人口の20分の1だったのに対して、2006年では約3600万人に膨れ上がり、人口全体の8分の1を構成するところまできている。

ー「非合法移民」をめぐる対決ー

 皮肉なことに、「小さな政府」の政治をスローガンとするブッシュ共和党政権の下で、アメリカは今、この40年前の「アメリカの夢」を売った「寛大な」移民政策のツケを払わされようとしている。すなわち、今年のアメリカ議会で激しい対立をむき出しにして論じられ、いまだに結論が出ていない「非合法移民」をめぐる深刻な国内政治の溝が、それである。
 メキシコとの国境を勝手に越えてくる不法入国者中心に、他の国からのビザ期限切れ滞在者を含めて、最大1300万人ともいわれる「非合法移民」に対し、共和党が多数を握る下院が、強制退去も辞さない強力な取締りを求める法案を可決してしまったのが始まりだった。あわてたブッシュ大統領は、5月の国民へのテレビ演説で、「アメリカは法治国家だが、同時に移民の国でもある」と述べて、メキシコ国境の警備強化と同時に、長年にわたって永住してしまい、家族までいる犯罪者以外の「非合法移民」に対して、市民権を段階的に与える穏健な解決策を呼びかけた。上院では、イラク戦争では真正面から対立する民主党のケネディ上院議員も大統領に協力し、強硬派がアムネスティだと非難する、市民化を前提とした法案を可決してしまった。結果として上下両院が同じ共和党の支配下ながら、真正面から対立する騒ぎとなったわけである。
 ブッシュ支持の保守派を含めた下院強硬派の主張は「非合法移民がアメリカ市民の職を奪っている」というもので、逆に彼らの低賃金を「アメリカ経済の成長に不可欠な貴重な財産だ」と位置づける農業、サービス業などを中心とする経済界全体と全面的に対立する。

ーとりあえず「自由のフェンス」建設だけの合意ー

 中間選挙投票日までに妥協立法を成立させ、得点をかせぐことを目論んだ、ブッシュ大統領の調整工作も難航。結局、西はカリフォルニア州サンディエゴから東はテキサス州ブラウンスビルに至る、3168キロのメキシコとの国境線のうち、南西部の1120キロに、不正入国阻止のための恒久的なフェンスを築くことで、上下両院がとりあえず歩みよったところで議会の会期切れ。全ては中間選挙後に持ち越されることとなった。
 ちなみに、この1120キロにのぼるフェンスは「アメリカの自由のフェンス」と呼ばれるのだという。「アメリカという国」がその建国以来、依存し続けていた無限のフロンティアが物理的にも、精神的にも限界に近付きつつある現実を、浮き彫りにしていると思う。
 イラクでは、民主主義のための戦争を続けながら、国内では「移民の国」の伝統に目をつむって、国境でのフェンス建設に踏み出すアメリカを見たとしたら、建国の父達は何を考えるだろうか。
 そして一番のアイロニーは、いま「三億人目のアメリカ人」の名誉が、この目の敵にされるヒスパニック系の「非合法移民」の女性が出産する子供の1人に与えられる可能性が少なくないという事実である。

© Fumio Matsuo 2012