2005_07_「アメリカという国」を考える(その二十七) ──敗戦六十周年と米中関係──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」(二〇〇五年七月号)

 

「アメリカという国」を考える(その二十七)

 ──敗戦六十周年と米中関係──

 

松尾文夫(ジャーナリスト)

 

 

 先月号を休んで、またアメリカを回って来た。大きな目的は、昨秋に引き続き次の著作についての資料集めである。しかし、今回は、四月十日に成田からロサンゼルスに出発したころから、燃えさかり始めていた中国の反日デモの激化を背にしていたせいか、アメリカと中国との間の「きずな」について考え、そしてちょうど六十周年の節目を迎えた、この二つの国に対する日本の「敗北」という過去をかみしめる旅となった。いまこのアメリカと中国との間の十九世紀にまでさかのぼる「日本との間にはない」関係は、日中関係がこれだけぎくしゃくするなかで、あまり注意を払われていない。

 

 

 ドーリットル隊副操縦士との対面

 

 きっかけは、旅の前半で、ドーリットル爆撃隊の生き残りとの対面を果たす数奇な経験をしたためである。六十三年前の一九四二(昭和十七)年四月十八日、つまり日本中がまだ約五ヵ月前の真珠湾攻撃以来の連戦連勝ムードにひたっていた時、太平洋上の空母から発進したB25双発爆撃機十六機が東京、川崎、横浜、名古屋、神戸の五都市を「初空襲」したことで知られる。

 私は当時、山手線新大久保駅近くにいまも残る戸山小学校(そのころは国民学校)三年生。土曜日の半どんの授業が終わった直後、たまたま校庭に出たところで、目の前を超低空で西の新宿方向に飛んだドーリットル隊長機を目撃、操縦席手前(右)側にいた、大きな鼻の副操縦士の横顔を目に焼きつけた。後になって分かったのだが、それはリチャード・コール中尉だった。

 このことを昨年上梓した『銃を持つ民主主義─「アメリカという国」のなりたち─』で触れたところ、友人の小林陽太郎氏(富士ゼロックス取締役会長)から「コール中尉は存命ですよ」と知らされ、結局小林氏の紹介を得て、四月十一日、ロサンゼルスからコール氏の住むテキサス州サンアントニオに飛んで、対面を果たすことになった。そしてさらにコール氏の招きで四月十八日の爆撃記念日に、コネチカット州の港町ミスティックで、合計八十人の隊員のうち健在な九人の元隊員や家族らが開いていた「第六十三回ドーリットル爆撃隊年次懇親会」にもニューヨーク経由で参加した。この私の旅は六月二日夜、テレビ朝日の報道ステーションで「戦後六十年企画第一弾」として放映された。またその詳報は来月の総合雑誌に寄稿の予定である。

 

 

 「同盟国」、「戦勝国」であった米中

 

 ここでは、私がコール氏以下ドーリットル爆撃隊生き残りとの約一週間の触れ合いを通じて、なぜか「中国の影」を強く感じて、考え込んで帰って来たことを報告しておきたい。

 一つは、このころ、つまり太平洋戦争中はアメリカと中国、つまり蒋介石政権および延安を拠点とした「毛沢東の中国」を含めて日本軍占領地域以外の中国は、「同盟国」の関係にあり、アメリカ軍「初空襲」から三年後の一九四五年の日本敗北時には、「戦勝国」としてともにミズリー艦上での降伏文書に調印している歴史的現実を思い起こさせられた、ということである。

 なぜなら、B25という陸軍航空隊の陸上爆撃機を海軍の空母から発進させるというアメリカ軍の歴史の中でも「最初で最後」の記録を残したドーリットル爆撃隊は、この「同盟国」としての中国を着陸地として予定していたからである。空母の本土接近はキャッチして、空母艦載機の来襲を予想していた日本側の裏をかき、超低空で日本本土に進入、東京などを爆撃したあと、中国側の飛行場に着陸、十六機をそのまま蒋介石空軍に供与し、中国からの日本空襲に役立てるという作戦だった。

 つまり、中国着陸を前提にした作戦の発想そのものに、日本側は虚をつかれたわけである。実際は、日本側監視船に空母部隊が発見されたため、予定より半日早く発進。燃料切れ寸前の夜に入っての中国上空到着となり、十五機が機体放棄や不時着に追い込まれ(一機はウラジオストックに着陸)、全機使用不能となり、B25引き渡しは出来なかった。

 しかし、不時着時に死亡した三人、日本軍側に捕まった八人(うち三人はのちに民間人銃撃を理由に銃殺刑)を除いて、六十四人の乗組員が中国側に生還した。そして、当日、東条首相はのんびりと栃木、茨城、群馬三県視察を続けており、その乗機が宇都宮から水戸に向かう途中、ドーリットル隊の一機と最短約二十キロの距離ですれ違っている。結局、日本側は一機も落とせず、以後、この空母活用の作戦への怯えから、約二ヵ月後のミッドウェー海戦という墓穴を掘る。

 

 

 米中関係の濃さ

 

 もう一つは、中国側支配地域にたどり着いたドーリットル隊員たちが、現地住民から歓迎を受け、日本軍の捜索からかくまわれ、重慶に集結することを可能にしたという、当時の米中関係の濃さを肌で感じることになったからである。ミスティックでの年次懇親会諸行事に、「名誉隊員」として九人の元隊員と、行動をともにする車椅子の中国人老紳士がいた。劉タン・シエン氏。八十七歳。いまは米国籍の航空工学者。上海南部の東シナ海沿岸部から西の南昌にかけての浙江省、福建省、江西省一帯にパラシュート降下、または不時着した隊員たちにとって、点と線とを支配する日本軍の追及から守ってくれた多くの中国人住民は命の恩人。劉氏はその代表格で、毎年招かれている。

 戦後、元隊員たちの助力でアメリカに留学、学位を取ったという。近くこのグループ全体が中国を訪れ、かつての降下地などを見て回って六十三年前の友好関係をしのぶ計画も検討されているという。日本にはない関係である。

 確かに米中関係は、戦後の国共内戦、中華人民共和国の成立。朝鮮戦争を経て一九七二年のニクソン訪中にいたるまで冷え切った時期があった。しかし、中国が経済発展の結果、将来は「第二のアメリカ」にもなり得る大国として発展し、拒否権を持つ五大国としてアメリカとともに国連安保理に座っている現状の中で、必要なのは、そのもう一つ前の時代の、つまりドーリットル爆撃隊のころの米中蜜月関係を忘れてはいけないのではないか。

 コール氏によると、中国に降下したあと一番心強かったのは、中国の村落に根をおろしていたアメリカ宣教師たちの支援だったという。これまた十九世紀にまでさかのぼる日本にはない米中間の関係である。

 ニクソンは七二年の毛沢東との会談で開口一番、「伝統的友好関係に戻ろう」と呼び掛けた。反日デモこそ中国側によっておさえ込まれたものの、いぜんとして「外交戦争」が続く日中関係を前に日本がもう一度かみしめてみるべきことばだと思う。そして、日本の拉致問題が浮き上がってしまっている六ヵ国協議でのアメリカと北朝鮮の間にも日本の朝鮮併合時代までさかのぼれば、同じような、日本にはない関係があることを忘れてはいけない。

(二〇〇五年六月五日記)

 

© Fumio Matsuo 2012