1979_01_「ニクソン回顧録」解説 ──ニクソン時代とはなんであったか── (小学館)

 

ニクソン回顧録解説

 

ニクソン時代とはなんであったか

 

松尾文夫

 

 

 「ニクソン時代とはなんであったか」──依然としてかみしめてみる価値のある問いである。

 ウォーターゲート事件による大統領辞任というアメリカ史上に初の汚点をとどめる幕切れにもかかわらず、忘れ去るわけにはいかない問いである。現在のカーター政権の外交戦略も、国内政策も、そしてカーター大統領の誕生そのものも、このニクソン時代が残した遺産を抜きにしては、その実像に迫れない。ましてや、八〇年代のアメリカについても語れない。一九六九年一月二十日から一九七四年八月八日まで、ワシントンの権力を握っていたリチャード・M・ニクソンの政治は、いまもアメリカの内政治にはっきり痕跡を残している。その不名誉なピリオドゆえに、そのインパクトは、陰にこもって深く、多岐にわたっている。

 リチャード・M・ニクソンが第三十七代アメリカ大統領に就任する宣誓を行ってからまる十年、そのニクソンが第二期の任期半ばに辞任を発表してから五年──この時間の経過の恩恵を生かして、その汚名ゆえに不鮮明な、しかし決して無視するわけにはいかない、ニクソン時代の素顔を冷静にとらえてみるときと思われる。

 とりわけ、日本とアメリカの関係が、日中平和友好条約の締結とアメリカと中国の国交樹立によって、アメリカ、中国、日本の三国を結ぶかつてない友好の三角関係に組み込まれ、新しい時代を迎えようとしているとき、この作業は日本にとって決定的な重要性を持つ。一九七二年二月の歴史的なニクソン訪中が、日本が進路をゆだねたこの新しい国際潮流の原点だったからである。

 

 

 「競争者」への変身

 

 第一に、ニクソン時代とは、アメリカが「世界の警察官」から、なりふりかまわない「競争者」へと変身した時代であった。

 ニクソンは、一九七一年七月六日、すなわち、キッシンジャーを北京秘密訪問に送りだした直後、ミズーリ州のカンザスシティーで、中西部十三州のマスメディア代表者を前に一つの演説を行っている。この演説は、ニクソン自身が回顧録で述懐しているように(上巻317ページ下段)、キッシンジャーを迎えようとしていた北京が大きな関心で受けとめた以外は、アメリカ内外でほとんど注目を浴びなかった。しかし、きわめて重要な意味を持つ内容であった。中国との関係正常化の決意が「競争者」としてのアメリカの闘争を宣言するアッピールの一環として示されていたからである。ここでニクソンが組み立てた論理は次のようなものであった。

 ──①アメリカが軍事的にも、経済的にも、世界のナンバー・ワンであった時代は二十五年前に終わった。二つの超大国だけが支配する時代も終わった──②少なくとも経済的にみると、アメリカ、日本、西欧、それにソ連と中国を加えた五大経済大国の激烈な経済競争が今後五年ないし十年後の世界の支配的な状況となる──③現在はともかく、長期的には孤立化を脱した中国は巨大な経済大国になる可能性がある。現在では人口一億の日本の生産の方が人口八億の中国よりまさっているが、中国人は世界でもっとも優れた民族の一つであり、将来、大変な国となる可能性を秘めている──④ニクソン政権が中国の世界共同体からの孤立を終わらせるために、最初の措置をとることが必要だと考えるのはこのためである。ソ連が現在、こうした措置をとれない以上、われわれがとらねばならない。アメリカはソ連以外で、こうした措置をとれる唯一つの国である──⑤これまでわれわれがして来たことは、旅行、貿易面でとびらを開けるだけだった。しかし、いまや問題は彼らの側で開くその他のとびらがあるかどうかということである。少なくともとびらは開かれねばならない。アメリカの長期的な政策目標は、中国の孤立化を終わらせ、関係を正常化することである。今後十五年か二十年のうちには、ソ連との対決には終止符が打たれよう。そのとき中国を孤立化させておくことは、中国および全世界にとって認めることのできない危険である──⑥したがって、この措置はいまとられねばならない。相手側の対応に従い、その他の措置もきわめて的確に、きわめて慎重にとられねばならない──⑦アメリカは、いまや第二次大戦直後のように、自分のポーカー・チップを相手にくばってゲームをしていた地位にはなく、挑戦してくるこれら大国との競争に打ち勝ち、五年後のアメリカ建国二百年記念の年には、政治的、経済的、社会的、道徳的に世界一の大国としての地位を確保しなければならない。いま柱だけを残すギリシア、ローマの文明のように、滅亡の道を歩んではいけない──。

 ニクソン回顧録では、このカンザスシティーの演説は、中国の部分の一部しか紹介されていないが、まさにアメリカの生き方そのものの転換を説くアッピールであった。「人間の自由の大義と世界の法と平和の前進のために」(ジョン・F・ケネディ)という使命感の大ぶろしきを広げ、反共イデオロギーと民主主義の守護者を自任して、まさに「ポーカー・チップを相手にくばってゲームをして」きた「世界の警察官」の地位を自ら返上し、なにごともアメリカの国益第一の、現実的で、利己的な「競争者」への変身を告白する宣言であった。アメリカの独走はもとより、アメリカとソ連との冷戦による対決だけではことがすまない多元的な競争、つまり「五大国」の競争に打ち勝つための態勢を固めねばならない、と訴えた闘争宣言であった。

 それまで二十二年間にわたって、その存在を否定し続けてきた中国に対する大胆な和解のイニシアティブは、この競争でアメリカが優位に立つための、しかもアメリカだけに与えられているチャンスとして位置づけられていた。ニクソンは、回顧録でも明らかにしているように、この対中和解の模索を大統領就任直後から開始しており、また七〇年の段階から対ソ連牽制のテコとしての対中接近のメリットを説き、「ソ連はミサイル生産でアメリカに追いつき追い越す政策をとり、地中海、インド洋に海軍を進出させている。欧州駐留ソ連軍は平時最大である。そのソ連の一つの弱点が中ソ国境である。したがってソ連が世界のバランスを崩すのを防ぐために、アメリカと中国の関係改善のための行動を起こす必要がある」(七〇年七月、ABCテレビインタビュー)とそのパワーポリティックス指向をあらわにしていた。この「競争者」宣言は、当時、キッシンジャーによって進行中だった秘密外交の手法とともに、その全面的な解禁を意味した。中ソ対立を最大限に利用することを意味した。まさに対中国政策の転換は、「競争者」戦略の徹底した現実主義路線への変身の格好のファンファーレであった。

 それにこの現実主義路線は、突如として現実したものではなかった。まずニクソンが就任以来推進してきたニクソン・ドクトリンと呼ばれる対外義務の「合理化」政策の実績があった。さらにその背景には、ニクソンが "声なき声の多数派" と名付けた反都市、反連邦政府、反黒入運動、反学生運動、反反戦運動、反東部のバックラッシュ(反進歩派)層をニクソン支持の「新主流派」として定着させることをねらって展開した内政上の基本戦略「南部戦略」があった。逆にたどれば、この "声なき声の多数派" の現実主義とエゴイズムとメンツに迎合する外交政策として打ちだされたのがニクソン・ドクトリンであり、その典型が「アメリカ兵の血は流さない」ベトナム化計画によってベトナム介入の「合理化」を果たした政策であった。民主党政権から引き継いだベトナムにおける「敗北」の現実に対し「侵略ははね返した。約束は十分守った。アメリカ兵の血は十分流れた。あとは自らを守れるようになった政府軍にバトンを渡せばいい。決して負けて帰るのではない」と「名誉ある撤収」のイメージを売り込むことによって、反戦運動を封じ込めることに成功し、北爆の強化、ラオス、カンボジアへの進攻といった実質的な戦火拡大も「アメリカ兵の血を守るため」との論理で正当化してしまった実績がそれである。

 対中国政策の転換は、まさにその強烈な現実主義とエゴイズムの延長においてのみ可能であった。対外関係の「合理化」以外のなにものでもなかった。カンザスシティー演説での「競争者」宣言は、その集大成であり、ピリオドであった。日本が「ニクソン・ショック」で傷つけられるのは当然であった。

 キッシンジャーが初めて北京の土を踏んだのは、この演説から三日後、ニクソンと北京放送が訪中決定の歴史的な発表を行ったのが九日後、そして金・ドル交換停止によって、まさになりふりかまわないドル防衛が開始されたのがその一ヵ月後であった。対中和解が、外交面での「世界の警察官」の役割放棄の証明であったなら、金・ドルの交換停止は世界通貨として君臨したドルの退位宣言であり、さらに五ヵ月後の七一年十二月、スミソニアン会議でのドル切り下げの露払いであった。ウォーターゲート事件によるニクソン辞任と並んで、歴史が記録しなければならない「競争者」への変身の軌跡である。

 

 

 大言壮語の自滅

 

 第二に、このニクソン時代におけるアメリカの変身は、決して主体的なものではなく、あくまでも受身の変身であった。すなわち、ケネディおよびそれを継承したジョンソン時代の「世界の警察官」外交の破たんをとりつくろうものでしかなかったということである。より正確には、ニクソンのホワイトハウス入り自体が、一九六〇年の大統領選挙では惜敗したケネディとその後継者ジョンソンの自滅のおかげでしかなかったということである。このアイロニーに満ちた因果関係の把握は重要である。

 「民主党主流の進歩派は、ケネディ時代の「ニュー・フロンティア』政策、ジョンソン時代の「偉大な社会」政策と口当たりのいい派手なスローガンで夢と公約を大安売りしながら、結果として人種的緊張を深め、ケネディ兄弟とキング師の暗殺や各地での黒人暴動を生みだした。しかもベトナム介入に代表される外国の出来事への過剰干渉は、国内に反戦運動という分裂のタネをまき、インフレ経済で弱くなっているドルの地位をさらに低下させた。彼らは、政治、外交、財政、社会のすべての面でインフレーション・ポリティックスを展開し、アメリカをだめにしてしまった。進歩派好みのどんちゃん騒ぎの政治はもうやめてほしい。大言壮語の政治はもうあきあきした。ことしはニクソンを支持する」── 一九六八年の大統領選挙戦たけなわのころ、東部支配層の一角に位置し、永年その進歩的な論調で知られていたウォルター・リップマン氏が、民主党のハンフリーではなく、意外にも共和党のニクソン支持を表明して世間を驚かせたときの弁である。

 確かにニクソンの大統領当選は、このリップマンがいうケネディ、ジョンソンの「インフレーション・ポリティックス」の大ぶろしきに疲れ果てたアメリカの産物だった。

 とにかくケネディは、そのかっこいい「英雄」イメージと使命感、リップマン流に決めつければ、その大言壮語によって、自滅した。

 外交面でいえば、ソ連から追い上げられているという危機感、つまりアイゼンハワー政権末期のスプートニク・ショック以来のソ連軍事力の拡充、アメリカ経済の成長率の鈍化、慢性的なドル危機、第三世界での影響力の低下──といった「内外ともに落ち目のアメリカ」を意識するところから生まれた「アメリカが本来なら自ら先頭に立たねばならない民主主義の世界革命において、遅れをとっている」との使命感が、ベトナム介入の引き金を引いてしまった。ソ連との関係では、キューバ危機などを通じての力のつばぜり合いを経験することで、核大国としての「共通の利益」を軸とする現実的な平和共存体制をまがりなりにも築くことができた。しかし、これは「東の陣営ではソ連が核兵器を独占するつもりである」(六一年十月の第二十二回ソ連共産党大会でのフルシチョフの発言)というソ連のペースに引きずられ、結果として中国に対する敵視、封じ込め政策の継続、その第三世界の解放勢力への「支援」との対決という対応を生み、「世界一の強国、アメリカに国際問題を思うように動かす意志と能力があるかどうかは、南ベトナムでの結果が立証する」とベトナム介入のお膳立てを自らつくりだすはめとなった。ケネディの中国政策については、暗殺されなければ、政権担当二期目でニクソンと同じことをやろうとしていた、とみることもできる。しかし、ソ連との平和共存体制維持に対する軍部や議会保守派の不満をなだめ、民主党がマッカーシズムの時代を通じてさんざん痛めつけられた「中国喪失(ロス・オブ・チャイナ)」の非難再現を防ぐ代償として、中国政策の打開はたな上げされたというのが実態といえよう。六一年六月のウィーンでのフルシチョフとの会談で、ケネディは、当時のラオス危機への不介入と同時に、アメリカとソ連の影響力で東南アジアの現状維持をはかるとの構想さえ持ちだしている。

 

 

 蒼ざめた勝利

 

 本格的なベトナム軍事介入に踏み切ったのは、間違いなくケネディであった。六一年五月、五四年のジュネーブ協定で許されていた六百八十五人のわくを無視してアメリカ軍事顧問団の増派を決めたのはケネディである。そして「解放戦線と戦う体制を築くため」とゴ・ジン・ディェムをクーデターで葬ったのは、自らが暗殺されるわずか二十二目前であった。「アメリカが沖縄、グアム、フィリピン、日本などの基地を確保するかぎり、アメリカの軍事力は、中国と北ベトナムが東南アジア全体に対して軍事侵略を行うのを阻止するのに十分なはずだ」(国防総省ベトナム秘密報告)とのCIAの「客観的分析」もしりぞけての、まさに「世界の警察官」のプライドをかけての行動であった。

 そしてその東部支配層出身の進歩派インテリ補佐官たちとともに、ケネディ外交をそっくり引き継いだジョンソンは、六四年の大統領選挙でゴールドウォーター相手に史上最高の得票を記録した自信と気負い、ケネディに輪をかけたテキサス仕込みの使命感に乗って、五十万ものアメリカ軍を送り込むエスカレェーション路線のボタンを押し続けた。ジョンソンにとって、ベトナム戦争はいつの間にか、その偉大な社会計画をアジアの地にもおよぼすための聖戦となっていた。アメリカ軍の大量投入が崩壊寸前だったサイゴン政権を一時的に立て直し、中ソ対立の激化、文化大革命下の中国外交の混乱もあって、「アメリカが南ベトナムで血の犠牲を払って頑張っている風に、アジアでは着実穏健な国づくり、地域協力の前進という新風が吹き始めた。中国の核開発にもかかわらず、その政治的封じ込めは成功している」(ウォルト・ロストウ大統領補佐官)と胸をはる勝利の幻影さえもちらついた。

 しかし、六八年新春のテト攻勢がこの錯覚と虚構を一気にあばいた。

 内政面では、つきつめれば、ケネディの暗殺自体、アメリカの人種階層の下位ランクにされていたアイルランド系市民の野心達成がアメリカ社会に生みだした社会的緊張の産物でもあった。ケネディ一家がその金力にものをいわせて展開した新手のホワイトハウス乗り込み作戦、つまりテレビと世論調査の活用と黒人票の組織的獲得というアメリカ政治に新しいページを開いた政治戦略は、確かに史上初めてアイルランド系市民で、カトリック教徒の大統領を誕生させ、「アメリカの夢」に新しいフロンティアを切り開いた。しかし、その反面、このきわめて強引で、人工的な勝利は、国内の人種的、地域的、思想的な対立に火をつけた。それにニュー・フロンティア政策のスローガンのもと、雄弁とテレビを通じての演出で国民の間に売り込んだ「英雄」イメージが、議会対策や外交交渉で迫られる政治的妥協の自由を奪い、結果として八方に不満のタネを撒くことになった。ニクソンが回顧録で「期待の政治」ということばを引用して皮肉っている状況である。六三年十一月のダラス訪問自体、南部との関係修復という政治的課題をかかえての「敵地」への乗り込みであった。

 ジョンソンの場合は、逆にその議会指導者としての永年の経験を生かしての巧みなイメージ操作、マスコミ操作、そして議会工作の巧みさが、ホワイトハウス運営の秘密主義ともあいまってクレディビリティー・ギャップ(信頼感の欠如)という非難を呼んだ。

 ニクソンがホワイトハウス入りを果たした「狂乱の六八年」は、まさにこのケネディ──ジョンソンの政治の破たんが内外で吹きだした年であった。テト攻勢は、民主党内でジョンソンのベトナム政策に真正面から反旗をひるがえしていたマッカーシー上院議員の反戦運動に、はずみを与え、大統領候補指名争いの口火が切られた三月のニューハンプシャー州予備選挙で、ジョンソンを「政治的敗北」に追い込み、一気にその息の根を止めた。このジョンソンが再選辞退、北爆部分停止──とそのワンマン政治の限界を明らかにするのを、まるで待っていたように、あらゆる種類の亀裂がアメリカ社会を縦横につらぬいた。キング師が暗殺され、その報復としての黒人暴動がホワイトハウス間近で荒れ狂った。マッカーシーにお株を奪われたロバート・ケネディが、苦戦のカリフォルニア州予備選挙のテレビ討論でユダヤ系労組票の支持ほしさに表明した「イスラエル支持」の一言、アラブ移民の狂気の目がみつめていた。兄と同じく四十二歳。五年間で三度目の政治的暗殺だった。またテレビの葬式中継が長々と続いた。ワシントンにテント村をつくった貧者運動が逮捕者をだし、再び暴動が全国の都市をおおった。民主党のシカゴ党大会は、全国中継のテレビの前で大乱闘を演じた。十月のメキシコ・オリンピックでは、メダルをとった黒人選手がアメリカ国旗と国歌の表彰を拒否した。二十四州で「第四党」が候補者を立てた。胴体の少しへこんだポルシェで乗りつけた北ベトナム代表団と、キャデラックで乗りつけたハリマンが対等の握手をしたパリ和平会談は遅々として進まなかった。八年間の民主党政治の破局であった。

 ニクソンはこの六八年に棹さすことでホワイトハウス入りした。民主党の分裂と自己否定のサイクルを前に、ただただ「法と秩序」のスローガンだけを売り込めばよかった。八年前の雪辱には違いなかった。しかし、不毛な勝利、蒼ざめた勝利であった。ケネディが夢見た「世界の警察官」としてのアメリカが自滅した灰燼のなかから生まれた、ニクソン時代であった。あくまでも受け身の出発であった。したがって「競争者」への変身は、絶対条件であった。

 

 

 土俵を踏みはずす

 

 第三に、ニクソン時代は、この受身の変身に成功し、絶対条件を満たしたその絶頂において墓穴を掘り、ピリオドを打った。その「蒼ざめた勝利」が持っていた受身の土俵の限界を踏みはずしてしまったからである。

 政権初期のニクソンは、この受身の土俵を十分意識し、むしろそれにおびえていた。

 ニクソンは、大統領就任式の直前の段階で「ハンフリーに対する勝利は、満足とはほど遠いものだった。民主党のシカゴ全国党大会の失敗、ジョンソンの不人気という重荷がなければ、ハンフリーが当選していたかもしれなかった。一九七二年の選挙でも、私に同じような有利な条件を与えてくれるほど、民主党が協力的なわけはなかった」(回顧録上巻50ページ下段)との分析を明らかにしている。正直かつ冷静な認識であった。さらに、ニクソンは、ワシントンに根をおろす民主党系進歩派の官僚群、自分の政治的生命をねらって「一戦を交えてくる」と信じて疑わなかったマスコミ、そして数と質と実績の点では共和党をはるかに上回って優勢な民主党組織──への強い警戒心を告白している。特に七二年の再選に備えて、「民主党指導者の行動のすべて」を掌握する活動を直ちに開始することを決めた。「情報がわれわれの第一の防衛線であった」とまで述べている。ウォーターゲート事件の導火線となる心理構造であった。

 そして、ホワイトハウス入り直後から、ジョンソンの警告通り、政府部内からのマスコミへの情報漏れに悩まされるようになると、「国家の敵にかこまれている以上、その敵をみつけ、その動きを知る権利がある」との論理で、新聞記者やホワイトハウス・スタッフら政府当局者の盗聴に踏み切る。

 それでもこの辺までは、まだ受け身の姿勢が守られていた。盗聴開始の理由も、過去二十五年来、歴代の大統領がやってきたのだからと、防衛的なものだった。

 しかし、この受身のおびえが強気の攻撃へと転化したところに落とし穴が待っていた。受身の勝利が自前の勝利のように、錯覚されだしたからである。状況への適応、すなわち、「世界の警察宮」の自滅のなかでそれ以外残されていなかった「競争者」への変身をその成功のゆえに自らがつくりだした実績のように錯覚しだしたからである。

 確かにニクソンは、政権担当一年目から二年目へ──つまり六九年から七〇年へと、 "声なき声の多数派" をベトナム化計画支持に結集することによって、ベトナム反戦運動の高まりをおさえ込み、カンボジア進攻も、ラオス進攻も「アメリカ兵の血を救うため」と世論を正当化することに成功した。これはジョン・ミッチェルの補佐官だったケビン・P・フィリップスが六九年十一月に発表した著書「ジ・エマージング・リパブリカン・マジョリティー(多数派としての共和党の登場)」において、意気揚々と描きだしたように、愛国心に富み、黙々と働き、道徳心、宗教心あつく、シアーズ・ローバックの通信販売と新軍に生活の夢を託し、コテージ・チーズとアップル・パイとバーボンを愛する人々──つまりニクソンが "声なき声の多数派" と名付けた白人中産階級を共和党政権の新しい支持層として定着させるという南部戦略に一定の展望が開け始めたことを意味した。戦火の拡大で、アジアの流血は続いても、アメリカ兵さえ撤兵できればいい──というニクソン・ドクトリンは、まさにこの南部戦略の一部であったからである。

 ニクソン政権がワシントンに深く根をおろした東部支配層(エスタブリッシュメント)を、ひとにぎりの東部の進歩派インテリ、労働組合、黒人団体、三大テレビ・キー局、ニューヨーク・タイムズ紙とワシントン・ポスト紙、そして連邦政府の永久残留官僚たちによる「組織された声高い少数派の専制機構」ときめつけて非難し始めたのは、このころであった。どぎつい東部マスコミ、東部支配層攻撃の演説で人気を集めたアグニューは、その尖兵であった。

 一九七一年七月十五目のニクソン訪中発表と、同八月十五目の金・ドル交換停止と賃金・物価の凍結などを含めたドル防衛策の発表──の二つの抜き打ち発表は、この錯覚を最大限に増幅した。

 しかし、所詮、錯覚は錯覚であった。一つの決定的な要素が忘れられていた。それは、この南部戦略もニクソン・ドクトリンも、アメリカ社会の深刻な亀裂の存在を前提とし、それに棹さしてのみ可能な路線であった、ということである。つまり、黒人が暴動を起こし、学生たちが髪をのばし、デモを行い、警官隊と衝突し、星条旗を踏みにじり、徴兵票を焼き、マリファナを吸い、フリー・セックスにうつつを抜かせば抜かすほど、「法と秩序」がクローズアップされ、「お堅い」白人中産階級のバックラッシュ現象と "声なき声" の多数派への結集が期待できるという戦略であった。黒人運動や学生運動や反戦運動は、要するにテコの役割を果たしてくれる存在だった。

 事実、当時、学生運動の中心にあったSDS(民主的社会のための学生連盟)は、SDSから分裂、爆弾仕掛け騒ぎなどもっとも過激な反体制運動を展開していたウェザーマン一派を、ニクソン戦略にそったFBIのおとり作戦の手先だと非難したことがある。その真偽のほどはともかく、「いくら努力しても、話し合ってみても、それでも黒人や学生たちは騒ぐ」と嘆いてみせる姿勢が、ニクソン戦略にとってプラス、もしくは決してマイナスとはならないことだけは間違いなかった。進歩派最左翼の雑誌「ネーション」は、「犯罪上昇、人種暴動、インフレ、麻薬禍、過激派登場・ウーマン・リブ、世代の断絶──といった、日々悪化する社会、政治、経済情勢を前にして、ニクソン政権は内心ほくそえんでいるのではないか──」と決めつけたほどだった。

 

 

 亀裂にのまれる

 

 コンセンサスではなく、対立と亀裂を条件とする戦略だった。したがって、この強気の攻勢は反対派との対立をこそ深めても、ニクソン支持の基盤の安定と拡大に役立つものではなかった。「多数派としての共和党」を生みだすことは、もともと不可能な戦略だった。

 しかし花々しい成功の錯覚はあまりにも大きかった。「力のおごり」が顔をみせ始めた。歴史的訪中発表の二日後、その興奮がさめやらないなかで、運命の一石が投じられた。正確には一九七一年七月十七日、アーリックマンがホワイトハウスの内政問題会議スタッフの若い弁護士、イーギル・"バッド"・クローグを情報漏えい対策グループの責任者に任命した。そのメンバーには、元CIA情報工作員ハワード・ハント、元FBI捜査官G・ゴードン・リディらがいた。のちに「鉛管工(プラマー)」と呼ばれるグループであった。いうまでもなくウォーターゲート事件の「下手人」グループである。彼らの任務について、ニクソンはこう述懐している。

 「私は、アメリカのベトナム介入を立案した民主党員たちが、私に政治的ツケを払わせようとしているのに、ただ黙って座っているつもりはなかった。──国務省と国防総省にある資料を詳細に点検し、キューバ侵攻作戦、ゴ・ディン・ディェム殺害、一九六八年のジョンソンの北爆停止命令などについて、あらゆる情報を集められる有能な政治工作担当者が欲しかった。──私は(ベトナム戦争が最大の争点となることはほぼ確実となっていた大統領選挙戦を次の年に控え)、ベトナム戦争批判グループに反撃する弾薬を確保したい、と思っていた。ベトナム戦争批判グループの多くが、実は、ケネディ、ジョンソン両大統領のもとでわれわれを最初にベトナムの泥沼に引き込んだ連中だった」(回顧録上巻267ページ上段)──。一カ月前のエルズバーグによる国防総省ベトナム秘密文書の暴露に「国家の安全保障への脅威」を感じての措置であったが、「私に政治的ツケを払わせようとしているのにただ黙って座っているつもりはなかった」と明らかにおびえが攻勢に転じた一瞬だった。

 そして九月、この「鉛管工グループ」はエルズバーグの精神分析医の事務所への侵入計画を実行に移した。ニクソンの息の根をとめることになった九カ月後のウォーターゲート・ビル内民主党本部への侵入のいわばリハーサルであった。このエルズバーグ事務所侵入計画について、ニクソンはまだ誤りだったとは認めていない。

 ニクソンは、これより先、一九七〇年の中間選挙直後、側近に民主党のもっとも有力な政治家の行動を探るよう命令をだし、「民主党と同じように独創的な妨害工作の方法を考えだすべきだ」とも語っている。再選への足固めだった。そして七一年二月、自分の政権の活動に関して、「アメリカの歴史上もっとも正確な記録を残そう」と録音テープによるホワイトハウス内の会話の記録を開始した。歴史に残る大統領を意識してのことであった。その少年時代からのコンプレックスがホワイトハウスの「甘い生活」のなかで、権力乱用の土壌を育てつつあった。

 こうしてすべては破局への道に通じていた。

 ニクソンは、ウォーターゲート事件が表面化して、辞任へと追い込まれる過程で、何回となく「民主党の歴代大統領も同じようなことをやったのに、なぜ私だけが──」と嘆いた。

 しかし、ニクソンは、このとき、民主党のケネディとジョンソンの「政治的ツケ」のおかげで、それが火をつけたアメリカ社会の対立と亀裂のおかげで、ホワイトハウス入りできた自らの土俵を見失っていた。しかも南部戦略がその対立と亀裂をさらに激しくあおったことを忘れていた。その「新主流派」の結集を目指す戦略が、東部支配層のみならず、四方八方からブーメランとなってはね返ってくる可能性を計算に入れていなかった。

 ニクソン時代は、アメリカの亀裂のなかから生まれ、その波にのまれた。それは「蒼ざめた勝利」で始まり、「蒼ざめた敗北」で終わった。

 

 

 カーターの「学習」

 

 したがって、いま八〇年代を迎えようとしているアメリカは、このニクソン時代の不毛なしかばねのうえにある。そして、なにかを学びつつある。一九七八年、アメリカ建国二百年記念の年、再びホワイトハウスを共和党から民主党の手に奪い返したカーターによって、なにかが模索されつつある。

 いま、カーターの政治で目立つのは、民主党の大統領でありながら、従来の政党色からすれば、民主党のワクをはみだし、共和党に近づいていることである。

 七八年十二月、テネシー州メンフィスで、七四年以来定例化した民主党の中間党大会が開かれたが、東部マスコミは、これを「共和党のミニ党大会」のようだったと評し、カーターはここで「まるで共和党員のような大統領としてふるまった」と書いた。カーター以下の党執行部とホワイトハウスのスタッフが一丸となって、エドワード・ケネディをリーダーとする党内進歩派が強く主張した医療保険制度、都市対策、社会福祉予算の拡充──などの要求をしりぞけ、インフレ抑止策をこれからの民主党の最重要課題だと位置づける政策決議を採択してしまったからである。この展主党の伝統的な政策である社会福祉計画を後退させても、つまり具体的には連邦政府予算を削ってでも、インフレ抑止のための緊縮予算を組むというアプローチは、まさに共和党側のものである。ニクソンもやろうとしてなかなかできなかったことである。事実、七九年末に明らかにされた八〇年度予算の骨格は、インフレ抑止と三百億ドルの財政赤字の削減という公約を優先させた超緊縮型で、社会福祉関係は公約に違反してもカットするとの方針が示されている。しかも軍事予算の方は、進歩派の反対を無視して、NATO首脳会議での「誓約」である三%、百億ドルの増加が予定されているという、まさに共和党色そのものにほかならない。

 確かに、カーターは、民主党員らしくない民主党大統領である。民主党の主流派を占めてきたいわゆる東部支配層の出身ではなく、むしろ党内では異端視されてきたいわゆる深南部(ディープ・サウス)から南北戦争後初めてワシントンにやって来た大統領である。事実上、東部との関係は、カーターに対する東部支配層の「認知」と政権担当要員の提供の場となった「日本・アメリカ・欧州委員会」を通じてだけといってもよかった。それにその南部バプティストとしての強固な宗教的情熱と、就任式パレードでの意表をつく行進徒少参加に始まったポピュラリスト色豊かなホワイトハウス運営のスタイルも、「ワシントンの民主党」の伝統とは異質である。

 しかし、やはり、こうしたカーター政策の共和党色は、ベトナム介入とウォーターゲート事件の悲劇、すなわちケネディ時代とニクソン時代の自殺行為に対するアメリカ社会の「学習」とその投影としての民主党内の「学習」結果への適応の過程ととらえるべきであろう。あるいはホワイトハウスの権力そのものの「学習」結果ともいえるだろう。

 いまこの「学習」結果は、一九七八年六月十四日、カリフォルニア州の住民が住民投票で採択した「プロポジション13」、すなわち固定資産税低減の州憲法改正をきっかけに、アメリカ全土に波及した「納税者の反乱」に集約することが可能である。ウォール・ストリート・ジャーナル紙の社説は、カリフォルニアでこの「納税者の反乱」がのろしを上げたあと、「アメリカの政治はもはやそれ以前と同じではあり得ない」と論じた。アメリカの政治は、いまこののろしとの対応を軸に動いているといっても過言ではない。

 「税金が高すぎる」──この単純なスローガンを軸に、さまざまな地方自治体で、さまざまな形で展開されている「納税者の反乱」は、それだけの重味を秘めている。二つの時代の荒々しい挫折に、疲れ果て、内向きになり、ワシントンの連邦政府の介入すべてに嫌気がさし、「小さい政府」を選択して、「ミーイズム」(自分第一主義)のエゴイズムと現実主義のなかに安楽を求めることに踏み切った現在のアメリカの本音が凝縮されている。二つの時代の「学習」結果以外のなにものでもない。カリフォルニアでの「プロポジション13」の提案者で、いまやアメリカ全土にその名を知られるスターとなったハワード・ジャービス氏は、昨年の勝利のあと「私は急にこの減税運動を始めたのではない。かれこれ十年ぐらい前からやっているのだ。それまでなしのつぶてだったものが、ことしなぜか急に花開いた。このドミノは果てしなく倒れ続けるだろう」と語った。この「学習」の蓄積こそが、「なぜか急に花開いた」理由である。ジャービス氏の予言通り、七八年十一月の中間選挙投票日に十六の州で行われた「納税者の反乱」の住民投票は十一州で勝利を収めた。

 カーターの共和党色は、この「ドミノ倒し」の大状況への適応であった。そのインフレ抑止こそ「アメリカが八〇年代を生き抜くための最重要課題だ」とケネディ一派、オニール下院議長以下の議会民主党首脳ともたもとをわかってまで、正面のスローガンとしてふりかざすようになったのは、四月にキャンプ・デービッドで開かれた戦略会議以後のことである。この会議は、それまでの支持率低迷のよたよた歩きの政権運営をたて直すために開かれたものだった。しかし、実際には、民主党進歩派の利益代表として政権内に送り込まれているモンデール副大統領まで巻き込んで、あえて共和党色も辞さず、この「納税者の反乱」現象を先取りし、その中核である中産階級に迎合することによって八〇年大統領選挙での再選、民主党政権の維持をはかる新戦略を決める重要な場となった。

 すなわち、「アメリカ国民の約六〇%がインフレで生活水準、が切り下げられたと訴え、五人のうち二人が政府は税金のむだ使いをしている」(カリフォルニアでの「プロポジション13」採択直後のAP、NBC全国世論調査)とみる世論に迎合して、民主党内に「新主流派」を結成する重大決定であった。

 

 

 一つの捨て石

 

 もともと「ワシントンと縁もゆかりもなかった」こと以外、レッテルをはるのがむずかしかったカーターの大統領当選自体、ベトナム介入とウォーターゲート事件が実証したワシントン権力の肥大化にたいする有権者の嫌気に支えられたものであった以上、この決断は当然でもあった。しかし、このキャンプ・デービッド会議前でのカーター政策には、ふらつきが目立った。例えば、社会福祉計画の見直し政策でも、ニューディール以来の歴史を持つ現行計画を「反勤労者的、反家族的で、貧しいものに不公平であり、納税者にとってはむだ使いだった」と切り捨て、アメリカ建国の基本理念は働くことにあるのだとまでいい切りながら、実際には、この見直しによる「整理者」を対象としたニューディール以来の規模の職づくりの公共事業計画を準備したり、一貫しない八方美人的な政策の連続だった。とにかく二面性は顕著であった。鳴り物入りで発表されたエネルギー政策にしても、また外交面での人権外交や南北問題での「人間の基本的要求」にこたえる新しい援助のテーゼにしても、アメリカの力の限界を認めたうえで、なおアメリカの伝統的価値、すなわち「アメリカの夢」のアッピール、あるいは押しつけに固執する姿勢が目立った。つまり、リップマン流にいうと、「デフレ政治」しかできない現実のなかで「インフレ政治」の大ぶろしきを捨てきれない、または「競争者」の立場で「世界の警察官」としての指導性にこだわる──といった理想主義と現実主義の奇妙な同居状態が目立った。これが対ソ連関係をはじめとする内外政策のトラブルのタネとなった。日本に関係した在韓アメリカ地上軍引揚げ計画や、東海村核燃料再処理問題でもこの二面性が外向的摩擦の材料となった。

 したがって、このキャンプ・デービッド会談での選択は、カーターがルビコン河を渡ったことを意味した。「納税者への反乱」に対応し、インフレ抑止を第一優先順位とすることによって、この二面性を清算して、「デフレ政治」と「競争者」の外交にしぼるカケであった。その意味で、アメリカ政治史上、画期的な意味を持つことになる決定であった。そして進歩派内部からも支持が集まった。モンデールは、この戦略を民主党として正式に採用する批准の場となったメンフィスの中間党大会で、「インフレは六〇年代末のベトナム問題と同じである。(六八年大統領選で)民主党の前任者(ジョンソン)はベトナム問題で敗北したが、インフレに対処できなければ、われわれは八〇年には政権を追われることになろう」とカーター戦略を売り込み、これまでの仲間であり、支持母体であった労組、黒人団体ら「旧主流派」の進歩派と一線を画した。モンデールもまた「学習」し、適応したのである。あるいは、カーターが七六年のフォードとの接戦での勝利に貢献したこれら「旧主流派」の分解、変身を読みとり、これに賭けたともいえる。この意味で、メンフィスで「旧主流派」の先頭に立ったエドワード・ケネディは、もはや「非主流派」にすぎず、「少数派」である。むしろシューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル(小さいことはいいことだ)」理論を実践し、「納税者の反乱」を支持者として取りこんでしまったブラウン・カリフォルニア州知事の方が、民主党内の「台風の目」だとさえいえる。要するに、この共和党の戦略は、ニクソンが成功を夢見た南部戦略の民主党による新しい展開であった。カーターによる新南部戦略であった。 "声なき声" の多数派の新たな動員計画であった。外交面では、ニクソン・ドクトリンの新たなる継続であった。「競争者」としてのアメリカの新しい軌跡の始まりであった。

 ニクソン辞任から足かけ五年。ベトナム戦争は、アメリカにとって既に過去のものとなった。アメリカの介入がタネをまいた第三次インドシナ戦争の無残な殺し合いにも、無関心である。黒人も豊かになり、中産階級の仲間入りを果たすものが増えた。反戦運動の若者たちは、優等生に変じて、就職の準備に忙しい。いまカーターの新南部戦略には、暗い対立と亀裂の影はない。

 この土俵のうえで、少なくともいまカーター戦略は順調にすべり出している。中間選挙戦でも、共和党側の土俵を完全に奪うことによって、共和党の善戦を最小限に封じ込めて、切りぬけ、八〇年の再選体制に橋頭堡を築いた。外交面でも、「ルビコン河」を渡ってから、はっきりした軌道修正が進み、キャンプ・デービットの中東和平会議の成功は、一気に支持率を回復する起死回生の一石となった。七七年末のサダト・エジプト大統領のイスラエル訪問は、それまでジュネーブ会議による包括和平方式を固執していたカーター外交に、ニクソン型、キッシンジャー型の抜き打ち訪問の冷水を浴せたものたったが、キャンプ・デービッド会談は、カーター自らがこのニクソン──キッシンジャー型の直接取引きの現実主義外交の土俵に飛びこんでいったことを意味した。イラン動乱にも、ベトナムのカンボジア侵攻にも、アメリカは動かなかった。ニクソン・ドクトリンのカーター流の継承であった。ブレジンスキーが「強いアメリカと中国はおたがいのためのみならず、世界平和にとっても有益だ」とリンケージ外交の復活を認知した七八年五月の北京訪問以来、中国との関係正常化も軌道に乗り、十二月十五日の国交樹立によって二十九年間の断絶に終止符が打たれた。

 ニクソンが毛沢東と周恩来に「中国の立場から見た場合、日本が中立で完全無防備の方がよいのでしょうか」(回顧録上巻330ページ下段)、「アメリカの日本に関する政策は首相の国の安全保障の利益になるのでは──」」(同336ページ上段)と提起した問いがアメリカ、中国、日本三国の新しい関係の安全弁として定着した。

 この対中国関係正常化を発表したテレビ演説で、カーターはニクソンの訪中とその上海コミュニケの功績をたたえた。ウォーターゲート事件以来、アメリカ大統領が初めて公にしたニクソンへの賛辞であった。一月二十九日、ニクソンは中国の鄧小平副首相の歓迎夕食会に招かれて、五年ぶりにホワイトハウスの門をくぐった。

 このカーター新戦略の前途は、まだまったくの未知数である。しかし、少なくとも、ニクソン時代はこのアメリカの変身の捨て石となった。この事実だけは公平に記録されねばならない。

 

(七九年一月)

© Fumio Matsuo 2012