ローゼマリーさん証言全文

●忘却に負けないために現在形で書きます

 

 1945213日夜から14日にかけ、九歳の私はドレスデンA1,ザイラー小路6の古いヒンターハウス(後屋、*1)で大家族と一緒に幸せに暮らしていました。

 

家の前にはきれいな専用の中庭があり、遊ぶのに快適でした。家の裏には小さな裏庭があって、そこで祖母が家庭菜園をやっていました。そこには素晴らしくきれいな公園への出口がありました。公園は高等学校のもので、マロニエの樹がいっぱいありました。この家で 私たちは家族だけで生活していました。

中庭で遊び、公園で夢を見、大家族が一つにまとまって住み、愛し合って、一人の子供にとってこれ以上なにを望むというのでしょうか?今この文章を書いていると、公園が見え、マロニエが花咲くのも見え、私がまだ子供でいられたあの頃を深い悲しみとともに思い出します。

 

 あの1945213日の恐ろしい悲運の夜に、私は子供時代を失ったのです。

 60年間、私はそれについて書くことが出来ませんでした。2000年の1945213日記念日に、私は1947年以来住んでいるケルンから、ドレスデンへ向けて車を走らせました。私は,最初、ザイラー小路へ行って、そこで亡くなった家族を偲ぼうと思っていたのです。しかし、一緒に旅をした息子のマークスが、三王教会(*2)で「1945213/14日の会」(*3)の集会が開かれることを聞いてきたのです。そこで私は、長い間経ってもあの時のことをはっきり記憶している人たちに出会いました。私は深い感謝の念を覚えました。三王教会でのこの日、私たちの死者への追悼、様々な報告、これら全てが私に大きな効果を及ぼしました。この集会で、私は目撃証言がどれだけ価値があるものかを知りました。そして後に続く世代のために、私が体験した爆撃について書き記そうと思ったのです。

 

私はこの爆撃について、今起きているように現在形で書きます。というのは、これを書いていると、あの攻撃を今再び体験しているように思えてくるからです。忘却に負けないために。       

 

  演劇を楽しむ大家族

 

 私は先ず、あの爆撃で亡くなった私の家族たちを手短かに紹介したいと思います。

 

 家族の名前は、ライスィッヒ/ベルナー(*4)。大家族でした。私が大好きな祖母、私の母(*5)、弟、三人の叔母、2人の従姉妹、それに私です。祖母のミンナは、暖かい灰色の眼をした愛情と善意いっぱいの人。彼女は母が働きに出ているときは、私達の面倒を見てくれていました。私は大変好きでした。 エルゼ叔母は超感覚的な資質があり、その娘のイングリットは陽気で、才能に恵まれ、絵が上手で、帽子のデザイナーの勉強をしていました。

 

 マルタ叔母は、税関で働いていて、黒い髪で髷を結っていましたが、残念ながらそれ以上は憶えていません。 グレーテルはマルタの娘。彼女は1944121日に9歳になり、私は1945125日に9歳になりました。その差はたった54日で、私たちは最初から一緒に育ったのです。彼女は女友達ですが、姉妹のようでした。一緒に学校へ行き、クラスも同じで、バレーのレッスンをバウム夫人から受けていました。私たちの最後の舞台出演はサラサ-ニ・サーカス(*6)のハイジでした。   

フリーダ叔母は、優雅な物腰の人で、髪は燃えるような赤色でした。彼女は衣装主任で、根っからの演劇人でした。昼も夜も劇場にいて、そこで中央劇場の舞台道具の責任者をしていました。私は何回か彼女と一緒に中へ入ることが出来ましたが、舞台道具は何段にもわたって置かれていて、そこにいると私は幸せでした。小道具などを身に着けることが出来、扇で煽いだり、鬘を頭に載せたりもしました。 そこで私はなんにでもなれたのです。マリツァ伯爵令嬢(*7)だったり、シュヴァルツヴァルトの娘(*8)だったり、要するになんにでもです。私にすれば、大きくなったら中央劇場に通うことは当然のことでした。

 

 中央劇場で最後に観た演目は「レルヘン小路の恋」(*9)という題でした。今ではもう誰もこれを憶えていないかも知れませんが、私は今でもこの中の歌をいくつかそらで歌えます。私の家では、いろんな舞台を真似事で演じていましたが、その準備が大変でした。台所は大きくて、そこには水桶を載せた竈がありましたが、なんメ-トルもの長いもので、なんとも居心地のいい雰囲気を醸し出していました。夕方に家族は皆ここに集まりました。紐を張ってそれに毛布を掛けて舞台の幕にし、台所椅子を並べて劇場の席を作りました。それから私たちのお芝居を始めたのです。お芝居をやらないときは、歌でした。祖母がギターを弾き、毎日のように訪ねてきた叔父がハーモニカを吹きました。それらを思い出すと、心の底から悲しくなります。

 

 私の一家は劇場との繫がりが深かったのです。母はそこでソブレット(10)をやり、叔母は衣装主任、中央劇場長のランドさん、女優のゼンタ・リバティーさんは家族の友人でした。誰か男優のポルディー・ハーランスさんをご存知ですか?彼は幸運にも生き延びて、戦後はヴュルツブルクの市劇場の支配人になりました。母と彼は、母が亡くなるまでのほぼ40年間、文通を続けていました。ヴュルツブルクとケルンの間を手紙が行ったり来たり、ほとんどは素晴らしかったドレスデンの劇場時代についてでした。母と彼がお互いによく知っていたのは中央劇場のことだったか、レジデンス劇場のことだったか、私には残念ながら分かりません。

 

  第一波爆撃

 

 警報です。私たちは、実際のところ大して驚きません。ドレスデンが攻撃されるなんてことは想像もつかないし、なにも起こりはしないと確信しています。一度でも心配などしたことはありません。けれども地下室には入らなくてはなりません。フォルダーハウスの地下室に行くには中庭を通らなくてはなりません。というのは、ヒンターハウスにはちゃんとした防空設備がなかったからです。間違っていたのは私たちで、ドレスデンは本当に攻撃されていると気付いたとき、地下室は息苦しいほど静かになります。地下室の中では、みんな囁くように話しているだけに、口笛のような音がはっきりと聞こえ、そして爆弾の轟音が頭上から聞こえたとき、私はひどく不安になります。私たちは濡れたハンカチを口に当てます。時間の経つのが耐え難いほど長い。

 

 ついに終わりました。私たちは警報解除のサイレンを聞き、再び地上に出ます。私たちの家はまだ立っています。家の中のものがゴチャゴチャになり、窓が開いていますが、しかし家は立っています。家に入って、皆はぶつかりながら走り回ります。叔母たちは陶器の破片を掃き集め、ベッドはガラスの破片でいっぱい。誰も子供のことなどかまってくれません。私はグレーテルと一緒に窓のところに行きます。そしてびっくりして飛び退きます。直ぐ近くのリリーエン小路で家が何軒も燃えているのです。燃えている家々の窓から大きな焔が噴出し、暗い夜の中へ拡がっていきます。私たちはようやく本当に心配になります、地下室にいたときよりずっとずっと。私たちも、役に立つことならなんでもしなくてはなりません。思いついて、私たちは誓います。お互いもう決して喧嘩などしませんと。厳粛な誓いを立てるために、私たちは大きな鏡の前に立って、抱き合って鏡の中の目を見つめ、そして、決して決して喧嘩をしませんと誓います。なんという不幸な誓い、何故ならほんの2,3時間後にこの誓いは現実のものになったのですから。私たちが思っていたのとは全く違った形ではありましたけれど。

 

 グレーテルは死にました。私は負い目を感じています。私は生きていて、グレーテルは死んだのです。何故、どうして?

 私は今でもこれをどうしていいのか分からないままです。

 

         ● 第二波爆撃

                      

 おお、神様、終わったわけではないのです。また始まります。でも、今度は私たちは走ります。中庭を走っていると、私には轟音が聞こえます、頭の上からも、そして足の下からもです。大地が震えています。私は今でもまだ、このときの恐ろしい轟音を思い出すことができます。大気が裂けて、何千もの爆弾が私たちの上に落ちてきます、空は閃光で真昼のように明るく、何千もの星が輝いているかのように素晴らしく美しく見えます。しかし、それは、まるで地獄への予告のように轟く轟音を伴っているのです。それは、到るところから響いてきます、あらゆるものがぐらぐらと揺れ、震えています。私はこの音だけで恐怖に陥ります。

 

 全てが第一波の時とは違っています。私たちが地下室にいると、爆弾が落ちてくる音が聞こえます。それは第一波のときよりずっと近く、いや近いどころか直ぐ頭の上です。人々はもはや囁くのではなく、一発落ちるごとに叫び声を上げます。天井からはモルタルが剥がれて私たちの上に降ってきます。誰かが「直ぐに家全体が潰れる。みんな下敷きだ」と叫びます。石の下に生き埋めにはされたくありません。私は恐ろしくなりました。ただただ恐ろしく、剥き出しの恐怖が襲ってくるのです。終わりがないかと思われたほど長い時間が経って、防空監視員がやっと閂を外し、地下室の戸を開きます。そして言うのです。「ザイラー小路はすごく燃えている。外へ出たい奴は出ろ」

 

 全くのパニックです。全員が同時に地下室から外へ出よう、出ようと思ったのです。グレーテルが私の母に言います。「グレーテル叔母さん(11)、私を連れてって」けれど、彼女の母(マルタ)は「ダメ。私の子供は私の傍にいるのよ」と言います。私たちは繋いでいた手を放します。私の母は私たち子供を連れ、もがいてなんとか上へ向かいます。他の家族が私たちに続いてきたかどうか、もう私には分かりません。いつだったか、前々からよく言われていたのです。万一の時には、二人の叔母(フリーダとエルゼ)が祖母の面倒を見、叔母のマルタは自分の娘グレーテルを見るべきだと。もう一人の姪(イングリット)はもう17歳で、自分のことは自分でちゃんとやれたし、私の母は、やっと4歳の私と弟ハインツと私の面倒を見なければなりませんでしたから。

 

●母が連れだした地下室

 

 階段の上で私はなんとか上へ行こうとして黒い鉄の手摺にしがみつきます。何故って、私より先に登っていた人たちがみんなまた降りようとしているからです。上から降りてくる人は、地上は火の壁だ。外へ出たら焼け死ぬぞ、と言います。私たちにはどうしたらいいのか分かりません。途方に暮れます、焼け死ぬから外へは出られない、下へ行けば窒息するだけですから下にも行けない。私の母だけは決然として外へ向かいます。争い、パニック、大騒ぎ。私はもう自分がなにを感じたのか分かりません。今、私たちは玄関の広間にいます。物凄く熱い。戸口にはイングリットがいます。彼女は絶望した様子で囁きます。「グレーテル叔母さん、ここからは出られませんよ。外は火の海です」私は、自分たちの家が真上で燃えているのだと思います。そして、突然、私たちは外に出ています。

 

 私は、母にどのようにして私たちを連れて外へ走り出たのか尋ねたことがありません。大体、私は母との間であの爆撃について話すことが出来ませんでした。母も話したがりませんでした。今はその母も亡くなり、多くのことが語られないままとなってしまいました。

  

 私たちは外にいます。火焔嵐の真っ只中、到るところ火の海、天から火の雨が降り、靴の下からもまた火です。右からも左からも燃えている家々からの焔が噴き出してきます。私たちは狭いザイラー小路の中で火焔地獄の真ん中にいるのです。家々がくっついて建っていて、そのせいで火は一層激しいのです。家々がみんな燃え、空気までが燃えているようで、耐え難いほど熱い!この書けないほどの熱、到るところの焔、それに強い嵐のせいで、私たちはほとんど立っていられません。母は弟のハインツを連れ、私は母のマントのベルトにしっかり掴まっています。

 

 何度も何度も、前からも後ろからも燃えている破片が落ちてくるので、私たちは一度も立ち止まりません。運良く私たちは燃えている破片には当たりません。火焔嵐のせいで私たちは家の方へ持っていかれ、方向さえ分からなくなり、転ばないようにするのは難しい。私たちは走ります、走り続けます、どんどん、どんどん。私たちは小広場へ出ます。母は一軒の家に入ろうとします。しかしその玄関の広間は、人がいっぱいで、私たちは入れてもらえません。母が大好きだったキツネの毛皮とハンドバッグを投げ捨てるのを見て、私は本当に驚きます。

 

● 家が燃えている

 

 母は、今度はあろうことか私たちを連れて石炭店へ突入、梯子の隙間を走ります、周りは全部燃えさかる石炭の山です。そこに小さな小屋を見つけ、私たちは走り込みます。台所のテーブルには硬貨が山盛りになっていたので、私は母にそれを指差しますが、母は全く反応しません。母はまた外に出ようとします、外はまだ火炎嵐と火の雨ですから、私には何故そうしようとするのか分かりません。爆弾がまた落ちてくるので、結局、洗濯室に入ります。そこには老婦人が床に座っています。私たちはくたくたになって、彼女の傍らに座ります。母が彼女に話しかけたとき、彼女が死んでいるのに気付きます。これが、私の人生で最初に見た死者です。その後はこの夜、無数の死者を見なければなりませんでしたが。

 

 私はひどく喉が渇くので、濡れた壁を舐めます。それを見ている母は、このままでは窒息すると思ったらしく、また私たちと外に出ます。私たちは、高等学校の公園に着きます。ここは、私たちがいつも自分たちの家から見ていたところです。私たちは、この間ぐるっと一回り走っただけだったのです。それにしても私たちは長い間外出していたわけで、ここはヴァイリッヒ通りかそのあたりで、我が家の直ぐ近くです。公園は人で溢れています、大混乱です。私たちはもう立っていられないので、地面に腰を下ろします。直ぐ傍には沢山の人たち、そこでは悲劇が演じられています。子供たちが母親の背中で泣き喚き、人々は火傷を負い、爆弾が私たちの周囲のそこらじゅうに落ちてきます。母は私たちを火から守るために彼女のマントを敷きます。火はまだ降ってきます。そのときになって初めて、私は、右の前腕に火傷があるのに気付きます。それまでは全く感じませんでした。

 

 突然、そんなことは全部どうでもよくなります。というのは、遠くに私たちのヒンターハウスが燃えているのを見つけたからです。私たちの家が燃えています。私はもう周りを見回したりしません、私たちの名前の付いた家だけを見続けています。家は何時間も燃えています。母はそれを見ようともしません。先ず台所が燃え、私は折角叔母たちが片付けたのに無駄になったと思います。次は壁です、そこにはグレーテルのおもちゃの棚があり、私の人形たちも燃えているなあ、と思います。私は地面に座ってなす術もなく眺めているのです。だんだん明るくなってきて、家は窓枠を残して焼け焦げ、見捨てられ、悲しげに立っています。私は深い同情と悲しみを感じます。多分、そのとき既に私はあまりに多くの悲哀を感じていたのです。というのも、私たちの家の崩壊とともに私の子供時代もまた崩壊したことを感じ取っていたからです。多分、家族と再会することはないでしょう。あの家の中にかつてあった安らぎと幸せは完全に失われたのです。

  

 母には、なにも見えません。彼女の目は火のように赤くなっています。その方がむしろ幸せです、何故なら周りを見渡すと、一面の惨状で、どこでもかしこでも人が死んでいるのですから。攻撃は終わりました。朝がぼんやりと明けてきましたが、目を閉じていた方がいいくらいです。そこらじゅうが苦痛の叫び、泣き喚く声、悲しみの声で溢れ、焼け焦げ、曲がってしまった小さな死体がいっぱいなのです。私は、それらを見据えます、なにも怖いものはありません。この後の数週間、私は夜ベッドで、泣き叫んで目が覚めることがありました。多分、口では言えない恐怖があったのでしょう。

 

● 樹からぶら下がった少女の死体

                      

 突然、どこからか新しい恐怖の知らせがやってきます。次の攻撃が間近に迫っているというのです。ドレスデンで動いているものは全て死ぬに違いありません。私たちはもう座ってなどいられません、直ぐにここから逃げなくてはなりません。母はなにも出来ないし、弟は泣いています、私はこれまで甘やかされて、大事に育てられてきた子供でしたが、なにかしなくてはなりません。でも、どこへ行けばいいのでしょうか?私たちは歩き出し、四つん這いになって瓦礫をよじ登ります。私はこの二人を見張らなくてはならないのです、熱くなっている石で火傷をしないように。鉄の梁もやはり危険です。

 

 私たちは何度も死体を見なければなりません。一番ひどかったのは、半ば焼け焦げた死体でした。顔は苦痛で歪んでいました。私たちはザイラー小路の角へ着きます。私は通りを見通すことが出来ます。燃えていない家は一軒もありません。私は母に、私たちのフォルダー・ハウスが見えると言いますが、母はもっと先を見ようとします。恐らく母は、私たちが出た後、残りの家族たちが相談して外へ出たと思ったのでしょう。どうして私たちは確かめなかったのでしょうか?母は目が見えないのだから仕方がありません、しかし、私がそうしなかったのは。私はずっと後まで、いや今日までずっと自責の念に駆られています。

 

母は、通りがなくなってしまったのにどうやって道案内をするのかと、私に訊きます。

私たちは瓦礫を乗り越えて、マリーエン通りへ向かいます。そこで私はベンチを見つけます。弟はその間中ずっと泣いて駄々をこねていたので、私たちは休憩することにします。ベンチに座ります。私たちは全く消耗して、疲れきっています。突然、私の顔になにかが触れます、髪の毛です。上を見ると、顔があり、恐怖に満ちた大きな両眼が私を見詰めているのです。樹から私の方へ死んだ少女が逆さまにぶら下がっているのです。彼女の長いブロンドの髪が風に揺れ、私に触りました。彼女はどこも怪我をしているようには見えません。ただ、その恐怖に満ちた大きく見開いたままの死んだ両眼が私を見詰めているのです。

 私は跳び上がり、叫びながらちょっと離れます。私は死が怖かったのです。私と同じくらいの歳だったでしょう、その顔を私は決して忘れないでしょう、今でも私は彼女が目の前に見えます。母は幸せです。彼女にはなにも見えないのですから。

 

● ほかの家族は地下室で窒息死

  

 どうやってか、いつだったか、私たちは宮廷教会へ着きました。そこには国防軍のバスが何台か止まっていて、負傷者や親を失った子供たちを中に入れています。母は目が見えないので、私たちは乗ることを許され、やっと少しばかり安全になります。バスの外ではドレスデンからなんとか出ようとする、あるいは入ろうとする人たちが沢山集まっています。どのバスの中も満員です。

 

私たちはラーデルベルクの或る上級学校へ着きます。母は直ちに医務室へ連れて行かれ、弟はBDM(少女連合*12)のところへ行き、私は初めて一人になって、誰からも見捨てられたと感じました。

 

私は待ちました、何時間も何時間も、何日も何日も、誰一人来ませんでした。孤独で慰めのない14日が過ぎて、母はまた眼が見えるようになりました。そして私たち3人はともかくも再び一緒になれました。

 

 母は、家族を探しにドレスデンへ歩いて行くと言いました。私たちは、母が家族に再会し、私たちをドレスデンへ連れて帰るまで、長い間かかっても上級学校に残ることにしました。

私たちは待ちました。しかし、母は一人で帰ってきました。

 

 母は、フォルダーハウスに、私たちが生きていることとどこにいるかをチョークで書き付けました。それから家の周りを一回りしました。そして、….そこに皆が横たわっていたのです。あの人たちは、何日間そうしていたのでしょうか?みんな一緒でなければならなかったかのように、きちんと並んで。みんな安らかに見えた、と母は私に言いました。みんな、地下室で窒息したに違いありません。ただ、グレーテルだけは鼻と耳から出血していたそうです。フリーダ叔母だけはそこにいませんでした。彼女は第一波爆撃の後、どうなっているかを調べようとして中央劇場へ走って行ったのでした….それっきり帰ってこなかったのです。兵士が一人、通りかかって、母の手に身分証明書の紙を渡しました。それに名前を書いて、靴紐で結べと言うのでした。母はもう自分の母親の名前を思い出せませんでした。それで、母は「母、ライスィッヒ」と姓だけ書いたのでした。

 あの人たちは、ドレスデン郊外のハイデ墓地内の合葬墓に横たわっているはずです。誰がそれを知っているでしょう?墓石もなく、名前もどこにもありません、まるでそんな人たちはいなかったかのようです。6人はただ、私の心の中にだけ生きているのです。私は、毎秒ごとに、彼らを心に留めています。死者をこの世に連れ戻すことは出来ません、しかし彼らの記憶を持ち続けることはできるのです。

 

 私はもう歳をとりました。だから、「1945213/14日の会」が存在することを大変喜んでいます。そこには若い人たちも沢山います。彼らが、この日について生き生きとした記憶を持ち続けてくれることを、心から切望致します。こうした若者の一人が私の息子です。私はあの爆撃の証人として、爆撃とそれに関連して心の中に抱き続けてきたことについて、彼に述べることが出来たし、出来ます。どうしてかと言うと、私は、私がそうだったように語られないままのそして答えられないままの沢山の疑問を抱えたまま、彼が生きていくことを、望んでいないからです。こうした理由から、私は60年経った今日、私の目撃証言を9歳だった当時に体験したままに書いたのです。

 

ローゼマリー・ヴィーマン

ドライケニガー・シュトラーセ  23A

50997  ケルン 

 

 =訳注= 

(*1)フォルダーハウス(表通りに面している家)と対になっている家で、その裏側にあり、通りからは見えない。

(*2)本文にあるマティアス・ノイツナー氏を代表とするドレスデンの市民グループ。「1945213日の会」が正式名称。

(*3)三王とは、東方の三博士のドイツでの呼び名で、彼等の名を採った教会。三王の日(Heilige Drei Koenige)は休日(16日)。

(*4)家族名が二つ並んでいるのは、祖母と母の姓が違うためと思われる。祖母の姓がライスッヒ。母の姓は出てこないが、ベルナーがそれと思われる。

(*5)母の名前は、ここには紹介されていないが、後にグレーテル(つまり従姉妹と同じ)として出てくる。

(*6)ドイツで当時、有名だったサーカスで、テントを使用し、アメリカなどで海外公演もやっている。

(*7)E.カールマンのオペレッタ「伯爵令嬢マリツァ」の主役

(*8)L.イエッセルのオペレッタ「シュヴァルツヴァルトの娘」の主役。

(*9)演劇かオペレッタか分からない。少なくとも歌は、今でもCDがあるので多分、後者だろう。

(*10)オペレッタなどで、ソプラノが演じる侍女役。可愛い脇役。

(*11)小さなグレーテルが、叔母を「グレーテル」と呼ぶので、筆者の母の名前

がやはりグレーテルだと分かる。

(12)BDM(Bund Deutscher Maedelは、ヒトラー時代の青少年組織の一つで、BDJ(ドイツ青少年連合)という男の組織に対応した女の組織

© Fumio Matsuo 2012