――― 「オバマのアメリカ」ウォッチ始め ―――
新年おめでとうございます。内外情勢ますます厳しい折、皆様のご多幸をお祈りします
いよいよ「オバマのアメリカ」の始動です。高い支持率のなかで、1月20日のワシントンでの就任式には、100万人を越す市民が集まると予想されています。アメリカの歴史の中でも例を見ない高揚感と期待感のなかで、黒人初のオバマ大統領の登場です。折からの100年に一度といわれる経済危機の中で、その一挙手一投足を全世界が固唾を呑んで見守っています。
● ブログ更新遅れの理由
しかし、その前に前回の2008年10月4日付けの第17回で「金融危機でオバマ巻き返す、マケイン再浮上には狭い道」と題して報告して以来、約2ヶ月間にわたって更新を怠っていたことをお詫びしなければなりません。アメリカ在住の友人からは、体調を崩したのではないかとの電話が来て、恐縮しています。やはりこの間、何をしていたかを報告しておきたいと思います。これからのオバマ・ウォッチにも役立つことになると思うからです。
2008年10月19日から27日まで米ケンタッキー州レキシントンで開かれた第五回ジョン万次郎草の根サミットに参加したのに先立ち、大統領選挙戦の激戦州、オハイオ州のシンシナチー市周辺を取材し、さらに草の根サミット出席後、ワシントンに飛び、日米の専門家との懇談、メリーランド大学図書館プランゲ・コレクションを訪問する強行日程をこなしました。このオハイオ州シンシナチー市周辺は、2004年のブッシュ再選の原動力となったいわゆる宗教右派の根拠地で、私は4年前の同じ時期に訪れ、色々な地元の関係者を取材して、ブッシュ再選を予測できたところでした。
今回は、明らかに様子が変わっていました。4年前にはカール・ロブ前大統領副補佐官と組んでオハイオ州でのブッシュ勝利に貢献したといわれる宗教右派の大物に会っても「マケインはもともと保守派として信用していなかった。パイリン知事を副大統領候補に選んだので、やっと納得して運動を始めた。しかし、カール・ロブは4年前、ブッシュが再選されたら、同姓婚禁止の憲法修正案を発議すると約束しながら、実行せず、裏切った。今度は顔も見せない」と文句ばかり言っていて、まったく盛り上がりに欠けていました。ちなみにカール・ロブは今度の選挙戦中、評論家に徹し、ウォール・ストリート・ジャーナル紙にコラムを書き続けていました。
もちろん、マケイン敗北は2008年9月15日のリーマン・ブラザース破綻に端を発する金融危機の大波をかぶり、8年間のブッシュ失政のツケを一気に払わされることになった結果であることは間違いありません。 それのみならず、「ブッシュの8年」の構築者であったカール・ロブが、歴史的にも共和党大統領候補にとってはその勝利が至上命令といわれてきたオハイオ州で、地元の宗教右派と不協和音を奏でていること自体、共和党の自滅現象を物語っていたと思います。
既に「図書館」部門に収録されている月刊文藝春秋2008年12月号巻頭随筆欄に寄稿したエッセイ「1968年の米大統領選挙」で1968年以来40年ぶりのアメリカ政治の“分水嶺” の到来を予測したのもこうした材料をもとにしています。 2008年11月5日、日本時間でのオバマ当選直後、このあたりをブログにまとめておくべきでした。
● ザルツブルグ、ドレスデン、ベルリン、アウシュビッツへの旅
しかし、続いて11月10日からオーストリアのザルツブルグで開かれた「ザルツブルグ・グローバル・セミナー」に招かれたため、9日には成田を発たねばならず、その準備の中で果たせませんでした。
このセミナーは、戦後間もない1947年、ハーバードの学生3人が大戦への反省から、欧州の有識者との対話の場としてはじめ、以来途切れなく続いている常設のセミナーで、458回目だという今回のテーマは「世界の中でのアメリカ:その役割についての新しい戦略」。つまり、オバマ新アメリカ大統領に世界は何を求めるのか、についてオバマ陣営に近いアメリカ代表を軸に、欧州各国、EU関係者、それにアジアからは日本、中国、ベトナム、インド、それに中東、中南米などからも含め約60人の参加者が5日間、サルツブルグの観光スポットにもなっている湖に面したレオポルツクローン城に5日間缶詰になり、議論してきました。
オバマ大統領の登場を、経済危機を筆頭に世界を覆う閉塞感から脱却するチャンスとして期待する空気が支配的でした。しかし、同時に参加者中最年長である私が、ベトナム戦争時のワシントン、及び南ベトナム現地での取材経験をもとに、「オバマ選挙運動のスローガン、”イエス・ウイ・キャン“ は国内的には結構だが、海外で実行に移されると、危険だ。 ジョンソン大統領がベトナム戦争の深みにはまったのも、国内での”偉大な社会政策”の大成功の自信が災いした」と述べたのに対し、アメリカ代表からも賛成する声が出て、やや安心した次第です。
そして、ザルツブルグでのセミナー会議終了後、汽車でドイツに入り、4年前の拙著「銃を持つ民主主義」発表以来、私が唱えている「ドレスデンの和解、日本版」実現のためにもと、かねてから願っていたドレスデン訪問を果たし、5日間滞在しました。私と同じ世代の爆撃生存者をはじめ、1995年2月13日のドレスデン爆撃50周年をアメリカ、イギリスとの和解の場とした当時のドレスデン市長ら多くの関係者から話を聴けました。この取材では、在京のドイツ大使館の好意あるはからいで、ゲーテ協会の支援を受けました。
このドレスデン訪問の結果についてはいずれ報告するほか、新書にまとめる計画です。 しばらく時間をください。
ドレスデンの後は、壁崩壊後初の訪問となるベルリンにも足を延ばしました。 東西べルリン時代の広大な非武装地帯を生かして建設されたモダンな新首相官邸など統一ドイツのシンボルに接したほか、ベルリン自由大学の学者と戦後和解の課題についての日本とドイツの違いについて論じました。汽車で約二時間西に移動するだけで到着するオーデル川を渡り、ポーランド側にも入り、20世紀初頭以来たびたびの戦火と国境線の移動で、今も定着に不安を抱くという住民の心を癒す運動を続けているポーランド実業家の話も聞きました。
そして更にこの機会を生かしてと決心し、ポーランドの古都クラコフ経由、あのホロコーストの舞台、アウシュビッツとビルケナウの両強制収容所跡を見てきました。ガイドの案内で見学中、雪が降ってきて、ひときわ壮絶な空気にさらされました。
この旅から帰ってきたのは2008年11月末でした。オバマ新政権の組閣をウォッチしながらアメリカ情勢の分析をキャッチアップに努めるうちに、年末の雑事が到来、ついついブログ更新が遅れた次第です。
● 「シカゴの政治」でつかんだ大統領のイス
今、100万人を超す群集がワシントンを埋め尽くすだろうといわれている1月20日のオバマ大統領就任式を見ず、その就任演説を聞かない段階で、以下、私が今後「オバマのアメリカ」をウォッチする上で一番必要なアングルだと思う点を報告しておきます。
それは、オバマ新大統領がアメリカ政治の歴史のなかでも、汚職とボス取り引きで有名な「シカゴの政治」のなかでもまれ、生き抜いてきた人物だという事実です。このアングルは、まだ日本ではあまり紹介されていないと思います。
アメリカで「シカゴの政治」といえば、19世紀後半から、アイルランド移民が主に民主党側で、マシーンと呼ばれた党組織を牛耳り、選挙で選ばれた市長のパトロネージ(人事任命権)によるスポイルズ・システム(猟官制)で公職を独占する腐敗、不正の政治の典型として有名です。アイルランド移民系マシーンが市政を支配するのは、19世紀末以来、ボストン、ニューヨークなどの大都市で共通しています。
しかし、シカゴはとりわけ第二次大戦前の禁酒法時代マフィアとも紙一重の関係も持つ激しい党派的な抗争で知られています。 戦後も1970年代までは、現在のデイリー市長の父、リチャード・デイリー・シニアー市長が民主党マシーンを独裁的に支配、露骨な投票強要などを行ったことで知られています。ケネデイがニクソンとの大接戦を制した1960年の大統領選挙戦では、シカゴでのケネデイ票にデイリー市長の工作で不正集計が行われた事実は歴史の一部です。
オバマ氏は、このシカゴにコロンビア大学卒業後の1984年、黒人地域の職業訓練支援などを行う地域振興事業の管理者としてやってきます。年間の予算を7万ドルから40万ドルに増やすなど業績を残した後、1988年ハーバード大学のロースクールにファイナンシャル・エイド(学費融資)の制度を使って入学、1991年に同ロースクール・マガジンの黒人初の編集長という記録を残して最優等で卒業した。
シカゴに戻り、弁護士事務所に就職、1992年にミシェル夫人と結婚、人権派弁護士として売り出し、1996年イリノイ州議会上院議員に当選、ケリー上院議員を大統領候補に指名した2004年民主党全国党大会での「リベラルのアメリカも、保守のアメリカも、黒人のアメリカも, 白人のアメリカもなく、ただ”アメリカ合衆国”だけがある」との名調子の基調演説で名を上げるわけです。同年11月、イリノイ州選出上院議員に当選、そして今度の黒人初の大統領-と、とんとん拍子の上昇気流に乗るわけです。
もちろん、オバマ新大統領はこうしたシカゴ・マシーンとは一線を画し、これに対抗する改革派の旗手としてのし上がってきました。しかし、実際には、親しい友人で政治家としての活動の初期の資金的な支援者であったデベロッパーが2007年の予備選出馬の段階から、汚職容疑で逮捕され、現在も裁判中であることからもわかるように、「シカゴの政治」の暗い顔とも無縁ではないすれすれのところをたくみに歩いてきた、したたかなプラグマチストとしてのオバマ新大統領の素顔を捉えておくことが必要だと思います。
ここで知っておかねばならないのは、このマシーンとの関係で、黒人、しかもハーバート卒のエリート弁護士としてのオバマ氏の経歴は、プラスにはなってもマイナスではない一種の政治的資産であったということです。
シカゴ市の政治マシーンについての有為な研究者である若手政治学者、釧路公立大学講師の菅原和行氏の論考(1960-80年代のシカゴ市における人事行政の変容。 2006年12月、釧路公立大学地域研究 第15号) によると、既に1960年代の段階から、デイリー・シニアー市長にとって、スポイルズ・システムの「柔軟な運用」で政治的影響力を維持するために、黒人をはじめとするエスニック・マイノリテイから市幹部を登用することが不可欠だったということです。つまりオバマ新大統領は、黒人という出自を生かしてこの「シカゴの政治」を肥やしにホワイト・ハウスまで辿りついたともいえます。
● シカゴ人脈に知事逮捕の黒い影
当選から二ヶ月、このアングルを実証する例には事欠かないと思います。
このオバマ人事の凄みを物語るエピソードを紹介しておきましょう。民主党内の指名争いの段階で、党内の大物としては一番早くオバマ支持を表明した2004年の民主党大統領候補、ジョン・ケリー上院議員に対する対応です。 ケリー議員は上院外交委員会の有力メンバーでもあり、オバマ当選の功労者として国務長官得の就任を強く望んでいたといわれます。ところがオバマ氏はこれを退け、代わりに最後まで争ったヒラリー女史を起用したわけです。ケリー議員は、ワシントン政界でも個人的な評判が今ひとつと言うこともあって、同議員への同情の声はあまり聞かれません。
しかし、保守系ブロガーの一人は、ある意味ではオバマ氏にとっての大恩人であるケリー議員を簡単に袖にするところにオバマの現実主義が良く出ていると評していました。ケリー議員は単に早めの支持表明だけでなく、2004年の自らの指名党全国大会でも基調演説者に、当時は全国的にはまったく無名だったオバマ氏を抜擢、その雄弁が注目を集めたおかげで、彼の大統領戦出馬が可能になった大変なチャンスを与えてくれた大恩人だったと言うわけです。この辺の非情さは、今後 ”危機の時代の大統領” として大切な素養だと、このブロガーは皮肉っています。
もう一つ、これもあまり日本では伝わっていないエピソードです。上院での共和党側のフィルバスター(議事妨害)を封じ込める60議席目の獲得がかかったジョージア州での上院議員再選挙で、あえてオバマ陣営が有り余る資金力を生かしての応援などを控え、オバマ氏自身も遊説せず、共和党現職議員の当選を許した一手が巧妙な政治的な計算だと、共和党側に評価されたことです。 共和党側の面子を維持させ、経済危機乗り切りやアフガ二スタンでの戦力強化で欠かせない超党派的な支持の基盤を作るためには、あえて60議席獲得は断念して、オバマ民主党によるホワイトハウス、上下両院完全支配への批判を封じた老獪な政治的決断だったというわけです。
こうした「シカゴの政治」仕込みのプラグマチズムは、今シカゴ出身の下院議員で、2006年の下院議員選挙での民主党多数奪回の指導者だったエマニュエル大統領首席補佐官以下、シカゴ人脈がオバマ・ホワイトハウスの中枢に側近として腰をすえ、政権運営の柱になろうとしています。
しかし、このシカゴ人脈にとってわが世の春ばかりとはいきません。2008年12月に入って、オバマ後任の上院議員の指名権を持つブラゴジエビッチ・イリノイ州知事が後任指名候補からの収賄容疑で逮捕されるというショックキングなニュースが流れたからです。いまのところ検察側もオバマ新大統領との接点は否定しています。しかし、知事とオバマ陣営との接触自体は否定されていません。共和党はオバマ後任は、選挙で択べと攻勢をかけています。
辞任に応ぜず、徹底抗戦の構えのブラゴジエビッチ知事を抱えて、オバマ新大統領は「シカゴの政治」の暗い影を引きずりながらのホワイトハウス入りとなります。
いろいろと緊張に満ちた「オバマのアメリカ」の幕開きです。
(松尾文夫 2009年1月1日記)