―― 日米間に“すれ違い”の危機、静かに漂う緊張感 ――
このブログを読んでいただいている方に、1月末に硫黄島訪問の報告をして以来、約2ヶ月もお休みをしたお詫びをしなければならない。その一番の理由は、私が二月初め2週間のアメリカ取材旅行を終えて帰国した直後から、拙著「銃を持つ民主主義―アメリカという国のなりたちー」の英訳原稿をチェックする作業に忙殺されているためだ。 拙著は日本在住のアメリカ人翻訳家、デービッド・リース氏の手で全文が英訳され、この夏に、「 Democracy with a Gun ― America and the Policy of Force ―」というタイトルで、カリフォルニア州バークレーの出版社、Stone Bridge Press社から出版される。多くの方々の支援のおかげで、日本人によるアメリカ論を直接アメリカ国民にぶつけるという珍しい機会を得たわけで、感謝している。まだ四月一杯、校正作業は続く。 しかし、それを中断しても、是非報告しておかねばならないと思う状況が生まれてきた。2月13日に北朝鮮の核兵器放棄に向けた「初期段階の措置」で六カ国協議が合意に達し共同文書が採択された段階で、はっきりしてきたアメリカと北朝鮮との特別な関係についてである。 より正確にいえば、現在、日本が拉致問題をめぐる対立によって世界の国々の中で唯一敵対的な関係にある北朝鮮とアメリカとの間にだけ存在する関係を、きちんと捉えておかねばならないと思うからである。 突き詰めていくと、最近の従軍慰安婦問題での安倍首相以下の発言に対するアメリカ国内での反発とも連動して、日本とアメリカの関係は、日米同盟全体の強度を試す重要な局面となってきている。緊張感が静かに漂っている状態だと思う。
〇アメリカ外交の転換点に遭遇
北朝鮮の核問題をめぐる六カ国協議の行方は、まだ定かではない。本稿執筆中の4月上旬現在、アメリカが凍結を解除したマカオの銀行バンコ・デルタ・アジア( BDA )の北朝鮮資金の中国銀行経由の送金問題が技術的に解決せず、休会状態が続いている。 BDA資金の凍結解除と引き換えに、北朝鮮がミョンビョンの核再処理施設の作業を停止、封印し、五カ国側もその代償として「すべての核計画の完全な申告とすべての既存の核施設の無能力化」を条件にコミットした重油100万トン供給の、いわば手付けとして5万トンを支援する――との「初期段階の措置」のシナリオは、宙に浮いている。 しかし、はっきりしていることもある。 一つは、アメリカが「テロ国家との直接対話には応じない」とのブッシュ政権発足以来の立場をあっさり変え、1月16日から3日間、ベルリンで行われた北朝鮮との直接会談で、2月の再開六者協議での共同文書合意の原型となる実質的な取引をまとめ、その内容をメモにしたMOU (覚書)まで作っていたという事実である。 私はたまたまアメリカ旅行中の1月末、この米朝急接近の動きを肌で感じる経験をした。 1月27日、ニューヨークで会った東アジア問題専門のベテラン学者はこういった。「どうやら1月のベルリンでのクリストファー・ヒル国務次官補と、金桂寛外務次官との会談で、大きな前進があり、MOUまでできたようだ。しかし、ワシントンでのブッシュ政権内での対北朝鮮強硬派との調整が済んでおらず、球は90%アメリカサイドにある」。 要するに、まだ様子眺めの慎重な態度だった。 それが4日後の31日、又同じこの友人に会うと、「強硬派の抵抗は排除されたようだ。ジョセフ国務次官辞任の発表がその証拠だ。中国による六者協議再開の発表は、ブッシュ大統領緒がライス国務長官の説得を受け入れて、ヒル次官補の交渉結果を承認したことを意味する。 2006年の年頭からDBD資金問題を糸口に、北朝鮮側から直接会談での取引を執拗に持ち掛けられ、アメリカ側も六者会議の枠内だとの建前論でこれを受け入れた。ベルリン会談の開催は、2006年末六者会議が中断した段階から決まっていたようだ」と語ってくれた。 つまり、アメリカは、はっきりと対北朝鮮政策を転換したのである。イラク戦争の泥沼化による2006年の中間選挙での敗北後、ブッシュ政権内でネオコン勢力が力を失い、ライス国務長官の主導権の下で、核実検やミサイル発射は不問にして、とにかく北朝鮮の核開発に歯止めをかけることを優先する現実主義路線が実行に移されたというわけである。ヒル次官補がその立役者であった。 私が接したのはこのアメリカ外交の転換点だった。
○どこまでいけるか「アメリカ頼み」
もう一つはっきりしているのは、日本が置かれている立場である。安倍政権は、このアメリカの変身の中でも、あえて「拉致問題が進展しないかぎり、北朝鮮支援は行わない」として、「拉致問題は解決済みだ」とする北朝鮮と真正面から対決する基本政策を打ち出し、北朝鮮以外の五カ国がこの日本の特殊事情に理解を示すことを取り付けた上で、共同文書に同意した。 問題はこの「理解を示す」内容である。中国、韓国、ロシアの場合は交渉をまとめるうえでのレトリック、実質的にはいわゆる外交辞令の枠を出ていないことを確認しておかねばならない。 中国の温家宝首相が4月11日からの日本訪問前の記者会見で、拉致問題について「私たちは理解と同情を示し、必要な協力を提供するとも表明してきた」と述べているのが、精一杯といったところである。温家宝首相は「日朝国交正常化協議は解決に資するものと考えている」とも述べて、ハノイでの日朝作業部会の決裂を知ったうえでも、仲介の労をとるそぶりもみせていない。 少なくともこれまでのところ、アメリカだけは違う。同盟国としてこの日本の立場に協力し、日朝間での拉致問題の進展がない限り、北朝鮮側が強く望むアメリカによる「テロ国家支援指定」の解除、「敵国通商法」の適用終了措置などには応じないとの姿勢を明らかにしている。4月末のワシントンでの安倍―ブッシュ会談でも、原則的には、米側から、このコミットメントが示されるとみられる。 しかし、いま安倍外交につきつけられているのは、最後は「アメリカ頼み」となるこうした北朝鮮強硬路線が、どこまでうまく機能するのかどうかという課題である。ライス国務長官―ヒル次官補のコンビによって、アメリカの対北朝鮮外交の現実主義路線への切り替えが実行に移される中で、当面はともかく最後には、北朝鮮とアメリカの取引のなかで日本が取り残され、裏切られるような結果になる可能性がないとはいえないのではないか・・・といった不安が付きまとうぎりぎりの状況である。3月19日、事前の予想に反して、ヒル次官補が総額24億ドルにのぼるBDA 資金全額の全額凍結解除という北朝鮮の要求に実質的に応じる発表を行った夜、先に触れたアメリカの友人に電話を入れてみると、「ベルリン会談で合意済みだったようだ」とこともなげだった。 こうしたアメリカの譲歩にもかかわらず、実際の送金が確認されるまで「初期段階の措置」はとれないと、金桂寛次官が平然と六者会議の場を去るのを見て、「(アメリカは)ここまでコケにされて、よく北朝鮮に付き合っている。あり得ない話だ」と、日本の協議関係者があきれて語った(3月23日朝日新聞朝刊)といわれるように、安倍外交もアメリカの「敵前逃亡」を覚悟しておくことが必要かもしれない。 確かに、ベルリン会談でアメリカ側が日本の拉致問題解決を北朝鮮との取引のなかで持ち出していた、という情報は何一つない。 この点を捉えて、今度の米朝急接近を、1971年、日本の頭越しに始まった米中和解、つまりニクソン・ショックの再来だとして、日本外交孤立の可能性を指摘することはたやすい。 しかし、私は冒頭にも述べたように、いまそれ以上に重要な、ほとんど知られていない北朝鮮とアメリカとの関係について、報告しておくことが大切だと思う。表面的な激しい対立にもかかわらず、そして時系列的に言えば、ブッシュ政権が北朝鮮をイラク、イランともに「悪の枢軸」と決めつけた後でも、両国間には水面下で、日本には無い接触、つまり独自の民間レベルでの友好的な関係を維持して来ているという現実である。
○IT技術英語の研修
ここで一枚の写真を掲載させてもらう。 すべてを物語ってくれると思うからである。
この写真(*写真を直接クリックすると拡大表示される)は、2006年8月1日、北京の漁陽(Yu Yang)飯店玄関前で撮られた。撮影者は1870年にメソディスト教会の手で創立された長い歴史を持つニューヨーク州北部の名門大学、シラキュース大学のスチュアート・ソーソン教授。 今回の掲載では、同教授自らの許可を得た。 写っているのは、アメリカと北朝鮮の学者、研究者27人。ソーソン教授が中心となって、2003年以来、平壌にある北朝鮮を代表する理工系大学、金策工業綜合大学とシラキュース大学との間で続けられているIT技術の基礎研修プロジェクトに参加した双方の学者、研究者ら全員の記念撮影である。 金日成バツジをつけた北朝鮮参加者は20人、女性4人が含まれている。残りがシラキュース大学から派遣された講師陣ら。研修はこの日から三週間続けられた。ソーソン教授の報告によると、テーマは「コンピューターと情報技術における基礎的なアメリカ英語の取得とその水準の向上」で、英語の力に応じて北朝鮮参加者を2グループに分けて行われた。 建前上は、両大学間の「双務的研究協力」と銘打たれている。しかし、実際は、シラキュース大学側が、東アジア地域での相互の信頼関係に基づく学術科学協力の基盤を築くことを目標にかかげ、すでに中国その他での実績を持つ「地域研究者、指導者セミナー」(RSLS)の一部として、資金も人も投入して行っている教育プログラムである。その根っこには、「世界のあらゆる人々との信頼関係の構築」、「閉ざされた社会を開くことへの挑戦」―という19世紀末のシラキュース大学建学当時までさかのぼるアメリカ型使命感がある。
○ミサイル発射後も開催
注目しておかねばならないのは、このタイミングである。昨年8月といえば、北朝鮮が7月にミサイルの連続発射を強行した直後で、アメリカや日本との緊張状態がピークに達していた時期である。日本では制裁論などが声高に叫ばれていた。その時に、北京では、北朝鮮のエリート学者がアメリカ人教授からIT英語の研修を受けていたわけである。しかもこのセミナーには積み重ねの歴史がある。2006年が初めてではない。2005年も同じ北京の漁陽飯店でほぼ同じ時期に、北朝鮮側から22人が参加して開かれている。 それだけはない。最初の研修は、2003年4月、つまりブッシュ大統領がその年の年頭教書で北朝鮮、イランとともに「悪の枢軸」のひとつに上げたイラク攻撃に踏み切った同じころ、シラキュース大学キャンパス内で、はるばるピョンヤンからやってきた金策工業総合大学の6人を迎えて行われた。アメリカ国務省から正式にビザを得ていた彼らは、三週間も滞在、ナイヤガラの滝観光やウオール・ストリートのニューヨーク証券取引所見学などの接待も受けた。 ソーソン教授によると、2004年は「両国間の政治関係の悪化」の影響を受け、中断され、以後、経費節約と金策工業総合大学側の参加者を増やせる利点もあって北京での開催に切り替えたという。2005年11月には、金策工業総合大学のホング・ソ・ホン総長がシラキユース大学を訪問、ナンシー・カンター総長との間で、RSLS参加の文書に調印している。ホン総長は、これまでアメリカを訪問した北朝鮮の学者としては最高位の人物。 外部からの資金提供者には、週刊誌「タイム」の創業者で、かつては反共の闘士としてならしたヘンリー・ルースの遺産で運営される「ヘンリー・ルース財団」が最初から名を連ねている。最近では、強力な資金力を持つキリスト教高等教育アジア合同委員会も加わった。仲介役としては、朝鮮戦争直後に韓国とアメリカとの友好親善団体として設立され、ニューヨークに本部があるコリア・ソサエティー。 インターネットがまだ接続していない金策工業総合大学側との連絡はニューヨークの北朝鮮国連代表部が受け持っている。韓国からも政府、民間の双方から資金が提供されており、北京の研修には中国のRSLS経験者も参加している。 要するに、アメリカ、北朝鮮、韓国の三者一体、さらに中国も陰に陽に加わった立派な民間交流が粛々と進行しているということである。2006年には、1947年創立のコンピューター機械協会(ACM)が主催する国際カレッジプログラムコンテストへの北朝鮮のチームの参加が、これら関係国、団体の協力で実現した。現在、コリア・ソサエテーの幹部は、アメリカのフルブライト留学制度の対象に北朝鮮の学者も加えるべきだとの運動を展開しており、すでに韓国フルブライト委員会は全面的に賛成しているという。 こうした「アメリカだけにあって日本にはない関係」、あるいは「日本だけになくてアメリカ、韓国、中国にはある関係」は、今際限なく広がっていく形勢である。1994年に故金日成主席との間で、核凍結での「枠組み合意」をまとめ上げた実績を持つ民主党がアメリカ議会で多数派の地位に返り咲いた中で、この動きはますます加速する気配である。 拉致問題という日朝間のトゲを取り去るためにも、しっかりと目も向いておかねばならない動きである。そしてその底には、日本とアメリカとの間の、朝鮮戦争3年間の敵対関係と、35年間にわたる朝鮮半島植民地化の傷跡との違いに始まる歴史的、構造的な“すれ違い”―という根源的な課題が横たわっている。 一枚の写真が語るものは重い。
(注) 私は米朝間の民間レベルでの接触については、中央公論2004年3月号に アメリカがにらむ「危機」後の統一朝鮮 ー水面下でつながる米朝関係ー と題して報告して以来、追い続けており、1年前のこのブログ開始時にも二回にわたり、「アメリカにあって日本にない関係」と題して、書いております。いずれもこのブログの『図書館』に収録してあります。今回はその続編といったところです。 松尾文夫 (2007年4月10日記)