2004_08_イラク信任投票となった米大統領選にレーガンの影(中央公論)

『中央公論 2004/08』

〈イラク信任投票となった米大統領選にレーガンの影〉

綱渡りで中央突破を図るブッシュ

(掲載誌 年月日不明)

松尾文夫(ジャーナリスト)

 

イラク戦争の不手際に対する強い風当たりを受けるブッシュ政権にとって、レーガンの死は追い風になった。しかし元大統領の高い政治力が想い起こされるにつれ、ブッシュの危険な綱渡りが際立つ結果となった。

 

 

 五月末から六月上旬にかけての二週間、七ヵ月ぶりに再訪したアメリカでは、ブッシュ政権が強行したイラク戦争に対する信任投票となることがはっきりしてきた十一月二日の大統領選挙に向けて、早くも激しい対立の火花を散らしていた。そして、旅の後半に飛び込んだレーガン元大統領死去のニュースは、図らずも、みなが大接戦だと予想する今年の選挙戦の不毛な舞台裏を浮き彫りにすることになった。

 ワシントンのダレス国際空港に、成田からのANA直行便で着いた日、アシュクロフト司法長官とモラーFBI長官が合同で記者会見し、「大統領選挙前にも、アルカイダによる、アメリカ本土に対する、テロ攻撃がありうると信じるに足る有力な情報がある」と警告する物騒な発表が流れた。このテロ攻撃に関係する疑いがある人物として、白人のアメリカ市民一人を含む七人の顔写真を、マスコミに公表するという念の入れ方だった。

 しかし、一般の市民生活の表面からは、「9・11」の再来に脅える空気はみじんも感じられず、逆に次の日には、民主党側から、こうした物々しい「テロ予告」は、支持率の低下に見舞われ始めたブッシュ政権が、大統領への求心力回復を狙う政略の一部ではないのか、という批判が飛び出していた。テロの警告でさえ、選挙を意識した党派的思惑の対象になっているということであった。

 再会した八○年代からの友人の一人で、ホワイトハウスを担当し続け、いまも大統領同行取材を繰り返すベテラン政治記者は、「もし9・11のようなテロが本当にこれから米本土で起こったとしたら、現職大統領としてのブッシュに有利になるのか、あるいはテロを防げなかった責任を問われてケリーが有利になるのか─まったく読めない。それほどアメリカの世論は二分している」と顔をしかめて考え込む。今回の大統領選挙が持つ深い淵をのぞいたような気持ちになった。

 はるか三六年前の一九六八年大統領選挙。ケネディ、ジョンソンと続いた民主党政権が、拡大したベトナム軍事介入に国民の支持を得られず自滅したこの年、私は雪のニューハンプシャー州予備選挙戦を取材し、反戦学生の家庭訪問についていった。その時、中年の夫妻が目の前でアメリカ軍のベトナム増派是か非かで大議論を始め、その終わりに妻のほうが一言、「戦争をテーマとする大統領選挙は嫌だ」とつぶやいたことがよみがえってきた。

 

 

 レーガンのスキのない目

 

 アメリカ国民にとっては、あの時と同じような選択になるのだ─と自らを納得させているうちに、レーガン死去のニュースが飛び込んできた。

 その直後から全米をおおった追悼ムードの盛り上がりはすさまじいものだった。元大統領が元気なうちから、ナンシー夫人とともに練り上げたという台本通りに、遺体はワシントンでの国葬に合わせてアメリカ大陸を往復し、最後はカリフォルニアの美しい落日にぴったりと合わせて埋葬されるという一大パノラマショーの一週間を、テレビはCNNを中心にすべて生中継で伝えた。その中で繰り返し繰り返し放映されたのが、レーガンが一九八七年六月十日、ベルリンのブランデンブルク門の壁の前で行った演説である。「ミスター・ゴルバチョフ。もし貴方が平和を求めるなら、ソ連と東欧諸国の繁栄を求めるなら、自由化を求めるなら、ここに来てこの門を開きなさい。この壁をこわしなさい」と呼び掛けるレーガンの名調子は、やはり迫力満点であった。その二年五ヵ月後には、このベルリンの壁が実際に崩壊、アメリカが東西冷戦に勝利し、現在の一人勝ち状況が生まれることになった歴史を誰もが思い出すのである。この「強いアメリカ再興」のサクセスストーリーの記憶が、どこまでも明るいレーガンの遺影とダブって、アメリカ国民の気持ちを心地よくくすぐるのを肌で感じた。

 レーガン死去の二日後には、ノルマンディー上陸六〇周年の記念日がめぐってきた。それに、今年は五月三十一日のメモリアルデイ、つまり南北戦争時代から続く戦没将兵追悼記念日に合わせて、ワシントンのモールの、ど真ん中に、十一年の年月と一億七五〇〇万ドルをかけて完成した「第二次世界大戦記念広場」のオープン記念行事も開かれ、全米から高齢の大戦参加者を含む一五万人もの在郷軍人と家族が参加、愛国ムードを盛り上げたばかりだった。

 それだけに、全米の各種メディアの報道では、「アメリカ人は征服するためではなく、解放するために、自由を回復し、専制を終わらせるためにきた」(第二次世界大戦記念広場中央のアメリカ国旗掲揚台に刻み込まれた碑文)という第二次世界大戦勝利のメッセージが、そのままレーガンによる東西冷戦勝利、その国葬に旧ソ連共産党最後の書記長、ゴルバチョフ氏が出席するという実績と結びつけられ、これでもかこれでもかと論じられていた。

 しかし、皮肉なことに、いま四ヵ月後に迫った大統領選挙で、アメリカ国民の一人一人の審判をあおごうとしているのは、まさにこの「解放」のためにイラクに出掛けたアメリカ軍が歓迎されていない「ブッシュの戦争」である。イラク戦争は、レーガン外交が「最後の一押しをしたことだけは間違いない」(『ニューヨーク・タイムズ』)と誰もが認めるアメリカ一人勝ち時代の到来によってのみ可能な「先制攻撃」であった。東西冷戦時代には考えられない禁じ手を使ってのフセイン政権排除であった。

 同時に、この「ブッシュ・ドクトリン」発動のきっかけとなった「9・11」同時テロも、つきつめると、アメリカ一人勝ち状況に対する、イスラム過激派の反発をルーツとする点で、間違いなくレーガン時代の副産物であった。レーガンの死は、いまテロとの戦いの不毛な連鎖反応に巻き込まれ、イラク戦争是か非かで国論が二分されてしまっている一人勝ちアメリカの憂鬱、ストレス、苦悩をクローズアップすることになった。痛烈な歴史のアイロニーである。

 一九九四年十一月五日、レーガンは自らのアルツハイマー病を告白した手書きの手紙を、「私はこれから人生の落日に向かって旅に出る。しかし、アメリカには常に輝かしい夜明けが待っている」と結んだ。

 レーガンの死で彼を論じたアメリカの識者たちが、政治的立場を越えて評価したのは、このアメリカという国に対する無限のオプティミズムであり、その政治、特に外交での安定感だった。確かにサッチャー元英首相が「戦火を交じえずに東西冷戦に勝利を収めた」と弔辞で述べたように、「悪の帝国」といった激しい言葉を使いながら、実際の武力行使では慎重を極めていた。私は一九八○年代初頭、レーガン・ホワイトハウスの第一期を取材、インタビューやレセプションで大統領と三回握手した。いつもおどけた笑顔の奥で、スキのない青い目が光っているのが印象的だった。

 いま「悪の枢軸」との戦いを口にする「ブッシュのアメリカ」で一番欠けているのは、この安定感である。

 

 

 さらなる犠牲者増の予防線

 

 すくなくともブッシュ大統領がこのレーガン時代の安定感の対極に位置していることだけは間違いない。

 とにかくブッシュ大統領は、春以降にかぎっても、スペインの参戦国離脱、政権内暴露本の出版、治安回復の遅れ、米兵死傷者の急増、イスラム過激派やシーア派との戦闘、米民間人の残忍な殺害、参戦国市民の誘拐や殺害、そしてアメリカ軍の恥部を全世界にさらしたアブグレイブ刑務所虐待事件──といった支持率低下にも結びついた相次ぐ「逆風」を、ぎりぎりの綱渡りで乗り切ろうとしている。

 綱渡りとは、まがりなりにも公約通り六月三十日の主権移譲を二日前倒しというおまけ付きで実現に漕ぎつけたこと。ブラヒミ国連事務総長特別顧問をかかえ込んだうえで、最終的には米軍主導のイラク統治評議会の要求というかたちで、ヤワル大統領、アラウィ首相以下、親米または最終的にはアメリカとの協調を受け入れる顔ぶれによる暫定政権の発足に成功したこと。シーア派穏健派指導者の支持を取りつけ、サドル師とその民兵勢力の鎮静化を実現しつつあること。国連新決議1546号案作成に当たって、アラウィ首相とパウエル国務長官との交換書簡というかたちで、仏独露が抵抗した駐留継続米英軍に対する「自主的行動」の権利付与を実質的に認めさせ、全会一致の採択を成功させたこと。同時にシーアイランド・サミットやノルマンディー上陸六〇周年記念行事を通じ、仏独露指導者との一定の和解モードに入ったこと。アブグレイブ虐待事件については、関係兵士の軍法会議開催、現地最高司令官の「定期異動」名目での交代、大量破壊兵器未発見問題では、開戦前に確度の低い情報を流したテネットCIA長官の「一身上の都合による辞任」承認─と、いずれも巧みなトカゲの尻尾切りを行ったこと。さらには、イラクについての虚偽情報提供のみならず、イランヘの秘密情報提供の疑惑もでて、イラク国内でも不人気だった亡命反フセイン指導者のチャラビ・イラク国民会議議長を、ネオコングループからの激しい抗議にもかかわらず、暫定政権からはずし、絶縁する決断を下したこと─などなどである。

 次の綱渡りは、主権移譲を受けたイラク政権が、一向に歯止めが掛からない治安情勢下、最初の「自主的決定」として打ち出さなければならない、一定地域での外出禁止令の行方だとみられていた。アメリカが与えたはずの自由を、いきなり自ら制限せざるを得ないアイロニーのドラマである。これ以上の不安定感はない。

 しかし、ブッシュ大統領は、この綱渡りを第二次世界大戦、東西冷戦と同じようにアメリカが戦わなければならない歴史的義務だ─と意義づける「中央突破」戦略で正当化し、再選を果たそうとしている。

 この「中央突破」戦略とは、ブッシュ大統領が昨年十一月、ワシントンの「民主主義のための国家基金」二〇周年の記念演説で明らかにした路線である。

「中東の心臓部に自由イラクを樹立することは世界的な民主主義革命にとっての分水嶺となる」としたうえで、イラクの「ネーション・ビルディング」がうまくいかず、「歓迎」とほど遠い米軍への攻撃がやまない苦難の日々を、第二次世界大戦直後のベルリン大空輸やギリシア内戦の試練にたとえる論理で構築されているのが特徴である。そこでは戦後の日本とドイツにおける民主主義の定着が、その成功例として触れられていることも記憶しておかねばならない。

 以後、ブッシュ大統領は、このテーゼを主要な演説で執拗に繰り返す。六月二日の空軍士官学校卒業式での演説では、「われわれは大量破壊兵器を使用した歴史をもつ恐怖のスポンサー国家を除去した。サダム・フセインが牢獄につながれていることで、全世界はより幸せになった」と開き直っている。レーガンの死は東西冷戦勝利の栄光を改めて全国民にクローズアップした点で、このブッシュ・テーゼには間違いなく「追い風」である。しかし、同時に綱渡りの不安定性は、レーガン時代との対比できわだったマイナス効果を生み出す。ブッシュ大統領にとってのアキレス腱である。

 したがって最近の演説の中で目立つのは、主権移譲後にも予期される米軍死傷者増と困難な軍事情勢への覚悟を求めるメッセージである。「この戦いに必要なのは忍耐である。勝利を収めるまでには多くの山坂があり、挫折がある」(六月二日、空軍士官学校)、「多くの試練が待ち受けている。今後数週間、あるいは数ヵ月間にわたって、まだまだ多くの暴力行為が発生するだろう」(六月十六日、フロリダ州タンパの空軍基地)─といった具合である。

 そして、ブッシュ発言の中でもう一つ増えてきたのが、「自由とは全能の神がこの世のすべての男女に与えた贈り物であ

る。われわれは地球上の最強国として、この自由を世界に広げる義務がある」(四月十三日の記者会見)といった宗教的使命感の吐露である。六月十八日のワシントン州フォート・ルイス基地で、民主党から副大統領候補として強く誘われていたベトナム戦争の英雄、マケイン上院議員と一緒に登場し、共和党の団結を誇示した時の演説でも、「われわれは、中東の地で、いま広めようとしている自由が、アメリカの世界に対する贈り物だとは理解していない。自由は、全能の神による世界のすべての男女に対する贈り物なのだ」と「神意」に言及している。

 十九世紀のアメリカの西への領土拡大、そして太平洋国家、世界国家としての発展の歴史を根っこで支えたのが、まさしくこれと同じく神がアメリカ民主主義の普及を祝福し、その達成のための武力行使も認めてくれるとの「明白な天命」のスローガンであった。早寝早起き、ローラ夫人とともに毎朝の祈りを欠かさないメソディスト信者・ブッシュ大統領はまさにその後継者である。

 厳しい試練が待っていても、神の祝福を受けるアメリカの「歴史的使命」としてイラク戦争を戦い抜こうではないか、というこの新版「明白な天命」路線は、もともとの主張者であったネオコンと距離を置いたいま、大統領個人の内部で純粋醗酵している感じだ、と先のホワイトハウス記者は解説してくれた。日本語でいう「一〇〇万人といえど、われいかん」の心境ではないのか、という。

 そこで選挙戦の展望は、ケリー候補と民主党が、どう戦うのか絞られてきた。

 

 

 変わらないイラクの政策

 

 ケリー候補は、レーガン死去が発表されると、「レーガンは笑顔と、正直で開けっぴろげな話で民主党員の心までとらえた。彼は嬉しい時も悲しい時もアメリカの声だった。本日、カリフォルニアからメインまで、すべてのアメリカ国民が、彼が愛したこの国に消すことのできない足跡を残したレーガン大統領に感謝と祈りを捧げるだろう」と最大級の弔辞を発表。一週間遊説を自粛し、ニューヨークとロサンゼルスで一流タレントを集めて開く予定で、前売券まで発売していた資金集めのショーも中止した。

 この判断自体は、レーガン追悼のすさまじい盛り上がりをみれば当然であったろう。

 しかし、「レーガンの消すことのできない足跡」を礼賛するところに、私は民主党リベラル派と一線を画し、「レーガン・デモクラット」を取り戻すことで二期を全うしたクリントンの路線の継承をねらうケリー候補の本音をみたような気になった。

 とにかく、民主党系の友人たちのケリー評は盛り上がりに欠けた。これだけ、ブッシュ陣営に「逆風」が吹いているなかで、本来なら二〇%ぐらい支持率調査で差をつけていてもおかしくないのに残念だ、と、ある有力コンサルタントは語った。同氏によると、ケリー候補は今春の予備選挙で「ブッシュに勝てる候補」として一気に浮上した時の勢いが、なぜか持続していない、という。

 ベトナムからの帰還後、反戦運動に加わり、米軍批判の議会証言で有名になりながら、その後政界のエリート・コースに乗った経歴や、二〇〇二年秋のイラク武力行使決議に賛成投票した実績を「オポチュニスト」と批判する共和党の大ネガティブ・イメージ・キャンペーンに浸透を許してしまっている感じだ、という。共和党のマケイン上院議員を副大統領候補として深追いしたのも、理解できないとのことだった。

 ケリー人気低迷の理由の一つには、保守派コラムニスト、モーレン・ダウドが「リュグーブリアス(lugubri-ous、哀しげな、憂鬱そうな)」と表現する顔付きだという。女性の間で人気が出ないのだ、という。

 もう一つは演説のスタイル。単純明快で短いセンテンスを重ねてくるブッシュ大統領に比べ、大所高所からの弁舌が習性となっている上院議員色が抜けず、長くてわかりにくいのだという。ちなみに、上院議員から大統領になったのは、一九六〇年のジョン・F・ケネディ以来誰もいないという事実も指摘された。

 それになによりも、ケリー候補のイラク政策が、つきつめるとブッシュ政権の綱渡りのそれとあまり変わらなくなってしまっていることが問題だという人が多かった。

 しかし、私は、この辺が、今年の大統領選挙戦の落とし穴かもしれない、と思う。

 確かにブッシュ政権の綱渡りの一環で国連が再利用され、NATO諸国首脳との雪解けも進行し始めた結果、ケリー政策との実質的な対立点は、イラクの総選挙の立ち上げと管理、新憲法の起草、復興支援の調整などを統括する国連高等弁務官を任命すべきだ、という点ぐらいとなっていた。安定し、安全な民主政府をイラクに樹立するため、六月三十日以後も必要なかぎりアメリカ軍がイラクに駐留を続けるべきだ、との立場ではブッシュ政権と一致しており、ケリー候補はさらに必要ならアメリカ軍の一時増派も行うべきだ、と主張している。

 民主党内リベラル派、ディーン・グループなどからの即時撤退の主張には耳をかさない。ケネディ、ゴアの激しいブッシュ批判発言、さらにはマイケル・ムーア・ブームともあえて一線を画している。その姿勢はかたくななほどである。

 アメリカ軍の増派は、二〇〇二年の開戦直後からネオコンが主張し続けていながら、昨年十一月、六月三十日の主権移譲確約とともに早々と「イラク国軍化」によるアメリカ軍縮小計画を発表したブッシュ政権、特にラムズフェルド国防長官から拒否されているいきさつがある。

 北朝鮮問題でのケリー候補の外交問題顧問、ハイデン上院議員は民主党全国大会の綱領起草委員会に「先制攻撃ではなくても、予防攻撃の権利は認めるべきだ」と要請している。「ブッシュ・ドクトリン」との違いを見つけるのは難しそうである。

 

 

 ケリー、敵失を待つ、か

 

 このことから、景気の上昇で事実上、経済問題が争点とならなくなり、ガソリン価格もテロ対策の甘さを繕うのに懸命なサウジアラビアの協力でコントロール可能な状況となって来た情勢下、ケリー民主党は、イラク戦争での「敵失を待つ」戦略に出ているのではないか、と分析して帰ってきた。

 つまり、できるだけイラク政策ではブッシュ政権への批判を「ミスマネージメント」「ミスリード」「ミスハンドリング」といった範囲にとどめ、共和党を含めた保守派の支持も得やすい環境をつくっておいて、今後主権移譲後のイラクで起こりうる確率が高いサドル師的な反乱状況、すなわちブッシュ大統領の宗教的使命感までにじみ始めた「中央突破」戦略の総くずれを待ち、一九八○年、イラン人質事件の混乱のなかでレーガンがカーターを破った時の決め手のスローガン、「アメリカは四年前と比べて幸せになったか? タイム・フォア・チェンジ(交代の時)」を繰り出すというわけである。あえてケリー支持票ではなく、ブッシュ不支持票に期待するシナリオである。

 今回の大接戦では、つきつめるとオハイオ(大統領選挙人・二〇人、前回ブッシュ)、ミシガン(同一七人、前回ゴア)、ペンシルベニア(同二一人、前回ゴア)の三州の動向で最終結果を左右する公算が強いとみられていた。したがって、ブッシュ共和党にとってはナンシー夫人の遊説が、こうした決戦州で実現するかどうかが決定的に重要になる。同様にケリー民主党側では、自伝の大人気で存在感を増し、「レーガン・デモクラット」を取り戻して再選を果たした実績をもつクリントン前大統領夫妻の動向がカギを握る。クリントン氏はすでに、遊説協力を確約している。しかし、イラク戦争では政権支持、ラムズフェルド支持の発言を残しているヒラリー夫人の立場は、やはり自らの将来の大統領選出馬への思惑もあって、依然、微妙だという人が多かった。

 一方、ケリー候補の親レーガン路線は、その後、さらに露骨で、故大統領が冒されたアルツハイマー病の治療法開発に欠かせない胚性幹(ES)細胞活用に対する連邦政府の規制解除を求め、ブッシュ政権と対立しているナンシー夫人支持の発言まで行っている。

 こうして、大統領選挙戦は、二人の大統領の影の中で、党大会を迎え、終盤戦に入る。そして、ブッシュ、ケリーいずれが勝っても、レーガンが産み落とした一人勝ちのアメリカの出口のない自縄自縛状態は間違いなく続く。世界、特に日本が一番見落とせない不毛な舞台裏である。

© Fumio Matsuo 2012