震災緊急発言 「真ん丸い白い大きなおにぎり」との再会 ー災い転じて福となす外交の展開をー

 大変遅れてしまいましたが、ブログ「アメリカウオッチ」は東日本大震災の三万人を越す犠牲者のご冥福を祈り、一瞬にして家を失い、今なお避難所暮らしを続けられている被害者の方々に心からのお見舞いを申し上げます。

 あの3月11日、私は有楽町駅近くの有楽町電気ビル19階にある日本外国特派員協会(通称外人記者クラブ)の図書室であの強烈な揺れに遭遇しました。目の前で壁一面天井まであった本棚が倒れました。窓の先では、東京駅前の丸の内側に林立する高層ビルが、右に左にしなって揺れていました。もし震度5でなく、7だったらあのビル群がどうなっていたのだろうかと、今も思います。

 私の77歳の人生で、間違いなく最大の地震経験でした。そして、即座によみがえってきたのが、66年前の1945年7月19日、当時は国民学校と呼ばれた小学校6年生の12歳の夏、疎開先の墳墓の地、福井県福井市手寄上町で、アメリカ軍のB29爆撃機127機の夜間無差別焼夷弾爆撃を生き延びた時の経験でした。

 ● 福井爆撃へのタイムトンネル

 真夜中に爆撃は始まりました。家の近くに落ちた焼夷弾のおかげで真昼のように明るくなる中を、36歳だった母を中心に弟、妹、従姉妹たち12人でひたすら郊外へと逃げました。道の両側の家並みからは火の手が上がっていました。これから先は水田という芋畑の畝にただただ伏せていると、空から爆弾が落ちてくる音がしました。身構えて隣の母親の手を握った瞬間、防空頭巾の頭上に水田の泥しぶきがいやというほど降ってきました。これが命拾いの瞬間でした。B29が落とした焼夷弾を束ねた親爆弾が欠陥製品で、空中で開かず、そのまま目の前の田んぼの落ちたのです。

 何度も旋回しながら爆撃を繰り返したサメのようなB29の群れが去り、夜が明けて、黒焦げの死体や福井城の堀を埋めた水死体に息をのみながら市内に戻ると、自宅は石の門柱二本だけを残して、ひとかけらも無く焼け落ちていました。あたり一面の焼け野原でした。今度の大震災直後のテレビの画像が伝えた大津波の牙に流された後の東日本太平洋岸の港町の姿と同じでした。

 駆けつけてくれた菩提寺の住職の案内で、岐阜県との山沿いに近い名刹宝慶寺へと歩いて向かう途中の村で、村人が炊き出しの救護活動を行っていました。真ん丸い大きな真っ白なおにぎりが差し出されました。前夜から何一つ口にせず空腹さえ忘れていた12歳の少年にとって生きることとの接点を見出せた瞬間でした。手にも余る大きなおにぎりをむさぼった時の安堵感は、今も記憶から消えていません。

 なんとこの「真ん丸い白い大きなおにぎり」に今度、テレビの画像を通じて再会したのです。岩手県か宮城県か福島県か、その被害地の名前は定かでありませんが、間違いなくあのときと全く同じ丸い大きなおにぎりが避難所の一つで配られていました。おにぎりといえば、三角形が常識となっていた戦後66年間の生活から一気にタイムトンネルを遡って、あの爆撃の翌日に引き戻された感じでした。

●   世界が見守る日本の復興モデル

 この経験は、あの福井市でB29の爆撃を生き延びた原点をバネに、共同通信のアメリカ特派員の夢を叶え、2002年に68歳で共同通信を退職した後も、主に「アメリカという国」を追い続けるフリー・ジャーナリストとして活動を続けている私にとって、大きな節目となるような気がします。今度の大災害をあの戦争、そしてあの敗戦と同じような日本全体にとっての試練と捉えることが自らの経験の中で可能になったからです。

 66年前に手にした「真ん丸い白い大きなおにぎり」が12歳の私にのみならず、日本全体にとってもその後の経済大国化への再出発のスタートであったように、その同じおにぎりが出された今度の大震災は、日本全体にとって政治、経済、社会などすべての面での新しい生き方を見出すチャンスだ、と捉らえるべきだと考えます。 もちろん時代も、社会も、生活水準も、そして国、個人の経済力もすべてが違います。しかし、試練の大きさ、深さは形を変えて変わらないのではないかと、思う次第です。

 特に、東京電力福島第一原子力発電所が大津波によって想定外の被害を受け、メルトダウンも懸念される事態となったことが、全世界共通の心配事として全世界の注目を集めることになったのです。大地震、大津波に「安全神話」を完全に吹き飛ばしてしまった福島第一原発の事故が加わったことが、世界中に大きなインパクトを持つことになったと思います。

 人間の知恵がまず広島、長崎での投下、つまり戦争のために開発した原子力という新しいエネルギー源を、本当に安全な21世紀のインフラとして定着させられるかどうかという根源的な課題が、日本一国の枠を超えて全世界に突きつけられることになったからです。その意味でこの三重苦で、東日本大震災は長く歴史に記録されることになるでしょう。

 そのインパクトはすでに顕在化しています。地球全体の存亡を左右する課題として意識され始めていた地球温暖化対策が、果たして原子力抜きでも可能なのかどうかが、改めて問われることになったからです。すでに、4月初め京都議定書に代わる2013年以降の温暖化対策を協議するためにバンコクで開かれた国連の作業部会(COP17作業部会)では、日本の民主党政権の「2020年までに温室効果ガスを1990年比25%削減する」との目標を含めて、早くも各国の温室ガス削減への取り組み見直しが公然と議論されるようになりました。

 大災害とともに、東京には全世界のマスコミから腕利きの記者が乗り込んできました。CNNの人気キャスター、アンダーソン・クーパーも災害地に立ちました。過去20年間、日本経済の地盤低下と共に東京駐在の海外マスコミ勢は大幅に減り、優秀で野心にあふれるジャ−ナリストは中国、インド、朝鮮半島へと移って行きました。日本からは、彼らを満足させ、世界が関心を持つ「ニュース」が姿を消したためです。今回の福島第一原発での「チェルノブイリの悲劇の再来か」という事態は、世界のメデイアにとって、間違いなく第一級のニュースの登場でした。

●   「成功物語」の精算を怠っていたツケ

 今、長期化する福島第一原発の危機を全世界が見守っているのです。日本がどう克服するのかを見つめていると思います。こう考えると、日本の政治の場で大連立という、菅政権が風前の灯だった大震災「前」には誰も考えなかった構想が浮上していることも、その成否はともかく当然のことのように思えます。突き詰めると、日本は世界に対し、人間の生き方の新しいモデルを示す義務を負ったといえると思うからです。東京電力圏内での計画停電騒ぎに象徴されるように、大震災「後」の日本では、「前」のインフラがそのままでは通用しなくなりつつある、ともいえるでしょう。つまり日本人の生き方そのものが「前」と同じようには続けられないということです。

 私などは先日、節電のため薄暗くなった新宿駅構内を歩いて、わが青春真っ盛りの昭和20年代の新宿駅はもっと暗かったと思った次第です。電力を惜しみなく使う「明るすぎた生活」に慣れてしまっていたことを、今更のように感じています。経済大国化の成功物語の中で、湯水のように電気を使ってきた日本の消費生活そのものへの反省も、この際必要なのではないかと思います。

 その意味で、ただ単に東京電力や原子力安全委員会などの責任を追求するだけでは、震災「後」の本当の展望は開けないのではないかと、考えます。GEの設計者が知り、驚いたという地震多発地帯に福島第一原発を建設したことに始まり、スリーマイル島、チェルノブイリの両事故から学んだはずの10年前の補強工事でも、津波対策が見送られ、後発の福島第二、東北電力女川原発との対比が際だったことなどなど、福島第一原発の被害の重さは、高度成長からバブル崩壊、「停滞の20年」を経ても、我々国民一人一人が知らず知らずの内に、戦後の「成功物語」の精算を怠ってきたツケを、今支払わされているともいえると思います。我々一人一人の責任も否定できないという意味で、「人災だった」ととらえておくことが可能だと思います。

 長年の友人であるJ.P.モルガンのストラトジスト北野一氏は、4月4日のレポートで、「今度のようなまれに見る複合的な災害」の復興財源調達の一方法として、東京財団の森信茂樹氏が1990年の東西ドイツ統一時にドイツが実行した所得税・法人税に7.5%の付加税をつける「復興連帯税」の導入を検討すべきだと、提唱していることを報告しています。約20兆円の復興国債にプラスして毎年約2兆円の財源を日本版復興連帯税(税率はいずれも10%)で賄える計算だということです。東西ドイツ統一資金と肩を並べるぐらいのスケールの大きな発想が求められている、と思います。大連立はこうした思い切った施策を実現するためのものでなければならない、ということでしょう。

 私のように、「白い丸い大きなおにぎり」との再会で、あの66年前のB29爆撃を思い出し、爆撃後の焼け野原と、大津波に洗われた今度の廃墟との相似性を実感する世代は、確実に減っています。今回の大災害報道の中で、こうした相似性に触れた声は少なかったと思います。唯一私の目に止まったのは、3月24日の朝日新聞朝刊32ページの被災者の声の欄に、岩手県釜石市に住む72歳の男性が「1945年の7月と8月に釜石市がアメリカの艦砲射撃をうけたとき、今度と同じ避難所に逃げ、遺体を毎日焼いた」と述べていたぐらいです。

●   外交上のチャンスとしよう

 そこで、66年をはさんで二つの災害、危機を俯瞰できる限られた世代の一人として、私は発言します。とりあえず外交に限って以下の二点を提唱します。

 第一に、少なくとも対外関係では、災いを転じて福となす発想が必要だと思います。

 今度の震災に対して,ここぞとばかりに沖縄普手間基地の海兵隊や空母を繰り出したアメリカを始め、中国、韓国、ロシア、フランス、ドイツ—と全世界130ヶ国以上の国から救援の手が差し伸べられています。海外の友人からの様々なメールで、各国のテレビ、新聞がいかに真剣に事態を報じているかが分かります。 論調では「これだけの災害でも略奪が一切起こらない日本社会の規律、強靭性」を礼賛する日本再発見論が目立ちます。ニューヨーク・タイムス紙のコラムでは、1980年代に東京に駐在したコラムニストが「電車で財布を落としても戻ってくる」日本社会の安全性を絶賛していました。

 こうした「第二の経済大国」の絶頂期にも得られなかった日本に対する好意、礼賛を逆手にとって、震災「前」の段階で日本外交を覆っていた閉塞状態を一気に克服するチャンスとして生かすべきだというのが、私の提案です。

 普天間基地問題を抱えたまま、対米接近路線に踏み切った菅外交が国務省日本部長の「沖縄侮辱」発言で足をすくわれていた対アメリカ、尖閣列島漁船逮捕事件で冷却しきった対中国、大統領自らが国後島に乗り込んできたために北方領土解決の出口が見えなくなってしまっていた対ロシア—とどちらを向いても閉塞感に充ち満ちていた日本外交にとって、今度の災害は、天の恵みといってもおかしくないチャンスをももたらしたと思います。「略奪が起こらない」と感心される「日本再評価」は、日本外交にとって震災「前」の袋小路を抜け出すチャンスを手にしていることを意味すると思います。

 今年2011年は、1941年12月8日の真珠湾攻撃による日米開戦から70周年。そして1951年9月8日、サンフランシスコでアメリカを中心とする48ヶ国との講和条約調印で独立を果たし、同時にアメリカ軍基地を受け入れる日米安全保障条約を結んでから60周年です。奇しくもこの節目の年にめぐってきた、またとない「外交イニシアチブ」の静かな発動のチャンスだと思います。

 ただし、この点で6日になって東電が4日夜、福島第一原発の低レベル放射能汚染水を海に放出した際、国内のみならず、韓国を初め太平洋をシェアする海外諸国への事前通告を怠っていた事実が明るみに出たことは、本当に残念なことです。「国際法上は問題ない」との外務省の最初の公式見解は、遺憾きわまりない対応です。先にも述べた今回の大震災で露呈した「人災」の部分の根の深さを物語るもので、心が重くなります。

 ● 真珠湾献花で歴史和解のケジメを

 しかし、それでもまだチャンスは残っていると思います。従って、第二として、具体的な提案をいたします。私はたまたま東日本大震災の2ヶ月前に本屋に並んだ中央公論二月号に「歴史和解の不在が日本外交の躓きの石」と題した論文を発表しました。私は、この論文で先に述べたような対アメリカ、対中国、対ロシアーとどちらを向いても手詰まり状態で新しい年を迎えた日本外交の突破口を切り開くためには、太平洋戦争での敗北という66年前の現実にもう一度立ち返り、戦後の経済立国の成功物語の中で怠って来たアメリカや近隣諸国との歴史和解というケジメの儀式をまず終えねばならない—との主張を展開しました。

 具体的には、対アメリカ関係では、70年前の日本軍機の攻撃の傷跡をとどめて,米兵の遺骨とともに真珠湾上に建つアリゾナ記念館を日本の首相がまだ誰も訪問していない、献花をしていないという空白を埋めておかねばならない,特に中国、ロシア首脳も参加する11月のハワイでのAPEC首脳会談の前に、日本単独で済ませておかなければならない、と主張しました。同時に、対中国では、今中東のフェイスブック革命の余波におびえる中国で、いつまで経っても反政府運動が反日運動を突破口とする不幸な構造だけは除去しておかねばならないとして、戦前の中国侵略へのケジメとしての南京虐殺記念碑への首相献花も主張しました。この中央公論論文の全文を21回 「対米、対中、対ロ。どこを向いても不安定」?歴史和解の不在が?日本外交の躓きの石(中央公論2011年2月号P192-P201掲載)に添付してあります。

  

●   東郷論文の支持

 今、大震災のおかげでめぐってきた日本外交での「災いを転じて福となす」状況の中で、是非、こうした提案を実現させることが重要だと思います。折から、外務省の元幹部で、北方領土問題交渉の第一線にいた東郷和彦京都産業大学世界問題研究所長が、この私の論文、特にアメリカとの歴史和解を果たすためには真珠湾首相献花が必要との提案を、「北方領土問題をめぐるロシアとのこれからの交渉でも不可欠の課題だ」として、現在発売中の「新潮45」誌4月号上に連載中の「過去と未来の対話」第四回“「戦後の現実」重要な鍵は米国との和解”と題する論文ので、強い支持を表明してくれています。

 皆様には,1945年2月の米英ソ三国のヤルタ秘密協定までさかのぼり、ロシアとの関係打開のためにも日米の歴史和解を果たさねばならないと説く東郷論文全文を,是非読んでいただきたい。いずれ本ブログにも掲載が可能になる日を念じつつ、以下東郷氏と新潮社の許可を得て、私の論文に触れた結びの部分を転載させてもらいます。

 「もちろん今の時点でロシアが提起している論点は、もっと限定的なものである。私が述べた太平洋戦争とその終結によって形成された戦後秩序全体に話をひろげることは、ロシアにとっても得策ではない側面もあろう。けれども、問題の背景には、戦争の記憶に関する日米間の深い乖離がある。日本国民にとって歴史の記憶と和解の問題の最も難しい相手は、実は中国、韓国、アジア諸国ではなく、アメリカなのである。ロシアがこの点を巧妙についてくるなら、日本にとって容易ならざる事態が生じることになる。

 アメリカとの歴史和解について日本はもっと真剣に考え、日本としてなしうることは、直ちに実施すべきだ。

 その観点から、最近注目すべき論文が現れた。

 『中央公論』2月号に掲載された、松尾文夫氏の「歴史和解の不在が日本外交の躓きの石」という論文である。

 松尾氏は元共同通信のアメリカ特派員として知られ、『銃を持つ民主主義』などの米国分析とともに、日本人にとっての歴史の記憶と和解について論を提起し、特に、アメリカとの和解に関して「日本の総理が真珠湾のアリゾナ・メモリアルで献花し、アメリカの大統領が広島の原爆ドームに献花する」相互献花をもって、日米間の歴史和解を一歩進めようという提案をしてこられた。

 その松尾氏が、前述の論文で、相互献花提案の緊急性につき、以下のとおりの提案を行った。

1)今春に予定されている総理の訪米は、アリゾナ記念館への献花をもって開始すべきである。

2)その大きな理由は、今年11月に次回のAPEC首脳会議がハワイで開かれるからである。

3)日本の総理のアリゾナ記念館への献花は、各国首脳の渦の中の一人として、いわば儀礼上やらざるをえずに行うようなものであってはならない。

4)すでに江沢民国家主席は、1997年のアメリカ訪問でハワイを公式訪問の出発地として選び、アリゾナ記念館への訪問、献花で中米が対日戦争を一緒に戦ったとのメッセージを大きくアピールした。

5)「首脳会議のついでのアリゾナ記念館訪問、献花でなく、あくまで日本の首相単独のオリジナルな機会での訪問、献花でなければならない。その意味で時期は今春の訪問時しかないのではないか」

 誠にそのとおりだと思う。

 瀕死の状況の日ロ領土交渉についても、交渉が危機的であればあるほど、今なさねばならないことがある。アリゾナ記念館と広島への相互献花という卓越した提案も、時期をのがせばその意味と効果は半減する。列国首脳の間にはさまれ、いわば「いやいやながら」という印象を残した形で最初の訪問をしてしまったら、総理のアリゾナ記念館訪問は、取り返しのつかない形で始まることになる。是非ともそのような形での訪問はさけねばならない。

 松尾文夫氏の提案する「APEC前の総理のハワイ訪問と献花」を強く支持したい」

●   日米親善に絶妙な一石

 有り難い強力な支持だと思う。震災の「前」の段階で外務省、および官邸に対しては、様々の友人の手で、私の提案は伝わっています。震災「後」,オバマ大統領が菅首相と三回も電話で話し、空母を初めとする大規模な米軍部隊の救援活動の展開、さらには福島第一原発への核有事用の特殊部隊の派遣など、アメリカ側に日米同盟維持へのかってない熱意がみられ、アメリカ世論でも、先に述べたように「日本再評価」が顕在化している折から、日本の首相によるアリゾナ記念館訪問、献花は絶妙な一石となると思います。

 謝罪か否かという理由付けをめぐるこれまでの議論を超えて、災害支援で確認出来た日米親善、日米友好の「深化」として、アメリカ、日本双方の世論で自然に受け止められるものと思われます。今度の大震災がもたらした「福」として歴史に刻まれることになると思われます。そしてこうしたアメリカとの和解の儀式は、今後、対中国、対韓国、対朝鮮半島、対ロシア—と歴史和解の輪を広げて行くことを可能にするモデルになると思います。

 東郷氏が深い理解を示されているように,この一石は、私が2005年以来,米紙への寄稿を含めて提案し続けているアメリカ大統領によるヒロシマ訪問、献花に道を開くことのなると確信します。そしてそれは又11月のハワイでのAPEC首脳会議という場での中ソを含めた各国首脳と一緒の,いわば「ワン・オブ・ゼム」としての訪問、献花ではなく,その前の日本独自のものでなければなりません。

 菅首相であれ,あるいは大連立後の新首相であれ、5月のフランスでのサミット出席と11月のハワイAPEC首脳会議までの間の       限られた時間の窓の中で, この一石が日本外交再出発の一歩として投じられることを切望する次第です。 大震災復興と同じく、ここで求められているのも時間との戦いです。

 (2011年4月7日記。同4月11日校正済み。松尾文夫)

© Fumio Matsuo 2012