2007_03_「硫黄島でかみしめた、日米の『すれ違い』 ──日本側一万三千六百人の遺骨が未回収──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

渋沢栄一記念財団 機関誌「青淵」(二〇〇七年三月号)

 

硫黄島でかみしめた、日米の「すれ違い」

─日本側一万三千六百人の遺骨が未回収─

 

ジャーナリスト

松尾文夫

 

 

 私は昨年末、クリント・イーストウッド監督の映画などで話題の、あの硫黄島を訪れる機会に恵まれた。

 私が長年共同通信の海外特派員を勤めたおかげで会員となっている日本外国特派員協会、通称外人記者クラブが防衛省の協力を得て企画した十五人限定の「硫黄島スタディ・ツアー」のクジに当たったためだ。私は緊張した。昭和八年生まれ、敗戦一ヵ月前に墳墓の地である福井市でのB29百二十七機による「夜間無差別焼夷弾攻撃」から生きのび、漠然とながら、死を前提とした「本土決戦」を意識し始めていた私にとって、追いつめられた日本の自らの領土内での初めての激しい地上戦闘の舞台となった硫黄島の地を踏むことは、やはり特別なことだった。

 いろいろと勉強し、水を求めて死んでいった日本兵の供養に水を持っていくようにとの友人からの助言も得て、日本の名水ボトルをさげて、十二月十三日、入間基地から航空自衛隊の輸送機に乗り込んだ。

 

 

 目の前に火焔放射器のタンク

 

 約二時間半で着いた。東京都小笠原村硫黄島という地番を持つ全周二十四キロの小さな島には、戦争の傷跡がそのまま残っていた。すぐ連れていかれた自衛隊墓地隊の資料室の床には、十日ほど前に見つかったばかりだという赤くさびついたアメリカ軍の火焔放射器用の燃焼剤タンクがころがっていた。「この種の残がいはまだまだ出て来ます」とのことだった。驚いたのは、一九四五年二月、海と空からの猛烈な砲爆撃のあと上陸したアメリカ海兵隊七万人を、総延長十八キロの地下洞窟陣地にこもって迎え撃った日本軍の戦死者一万九千九百人のうち、なんと一万三千六百人もの遺骨がいまだに未回収なのだという。ところどころ硫黄が噴きだす島の、四十度を越す地熱の中で年四回の旧陣地発掘作業が遅々として進まないためだという。

 それほど激しく、残酷な戦いだった。アメリカ軍の上陸を水際で阻止するとのそれまでの大本営の作戦指導を自らの判断で修正し、上陸を見守り、一時間もたった後で地下陣地からの反撃に転じた栗林司令官の持久戦戦術にアメリカ軍も手こずる。五日間で占領するもくろみは崩れ、約一ヵ月半の死闘が繰り広げられる。アメリカ軍勝利の決め手となったのが、私が目の前にした火焔放射器用タンクを背負ったアメリカ兵が日本兵のひそむ地下陣地に燃焼剤の焔を撃ち込み、爆破し、そして最後はブルドーザーで埋めつくす「土木工事」のような作戦だった。アメリカ側にも六千八百二十一人の戦死者が出た。沖縄戦の四千九百七人を上回り、太平洋戦争最大の犠牲者を記録した。

 

 

 アメリカを知っていた栗林司令官

 

 しかし、私が一番心を痛めたのは、アメリカにこの苦戦を強いた日本軍指揮官、栗林忠道中将が、当時の日本軍部のなかでアメリカの国力をよく知る数少ないエリート将校だったというアイロニーである。栗林司令官は陸軍大学を二番で卒業し、一九二八年から二年間、アメリカ駐在を命じられた。ワシントンのみならず、ハーバード大学、テキサス州の騎兵師団など、アメリカ各地を自らシボレーを運転して回っていた。この間、東京の長男あてにこまめに書き送った絵手紙をまとめた「玉砕総指揮官の絵手紙」(小学館文庫)によると、「どこに行っても(アメリカは)広いなあ。これを考えると日本はほんとにみじめなものだ」、「こんな婆さん(下宿先のメイドのこと)の自動車でも日本の田舎を走っている乗合自動車よりよっぽどいいや。ほんとに日本もどうかしないといけないな──」といった観察を残している。

 このアメリカ経験が最後までバンザイ攻撃など形だけの「玉砕」を許さなかったクールな指揮にあらわれていたのだろうか。アメリカの黒船によって近代化の歩みを始めながら、結局はあの戦争という最大の「すれ違い」を演じてしまった明治以降の日本とアメリカとの不幸な関係を凝縮する悲劇の現場に接した思いだった。硫黄島では、アメリカを知るもう一人の将校も戦死している。一九三二年ロサンゼルス五輪馬術大障害の金メダリスト、男爵西竹一大佐である。

 そして、何よりも自らが住む同じ「東京都内」で、一万三千人を越す戦死者の遺骨がいまだに回収されていない現実にショックを受けて帰ってきた。その硫黄島に、アメリカ映画のおかげで話題が集まる日本の理状に、あの戦争へのケジメの欠落を改めて感じ、「どうすればいいのか。供養の水を播いてきただけではすまない」と考え込みながら新しい年を迎えた。近く私の提案をまとめたいと思う。

© Fumio Matsuo 2012