2003_05_「アメリカという国」を考える(その七) ──米国版原理主義の戦争──(渋沢栄一記念財団機関誌・青淵)

渋沢青淵記念財団竜門社

機関誌「青淵」(二〇〇三年五月号)

 

「アメリカという国」を考える(その七)

─米国版原理主義の戦争─

 

松尾文夫(ジャーナリスト)

 

 

 とうとう「ブッシュのアメリカ」が戦争を始めた。いま開戦から一週間の段階では、ブッシュ大統領自らが、三月十九日夜のイラク攻撃開始を宣言する演説で「カリフォルニアと同じ広さの国での厳しい地理条件下の作戦は、一部の人の予想より長く困難になるかもしれない」と述べていた通りの戦況となっている。しかし、その行きつく先はまだ見えて来ていない。クールに見守る必要がある。すくなくともアメリカの軍事力をみくびることは、昔も今も間違いだと思う。B29被爆世代の実感である。

 しかし、いずれにせよ、このアメリカにとって、建国以来二百二十七年の歴史のなかでも例がない試練への挑戦であることだけは間違いない。ここまでこの国をかりたてたのはなにか? 本稿ではこの一点を報告しておく。

 

 

 肌で感じる高ぶり

 

 この点で私はいま特別の感慨にかられている。昨年五月、現役ジャーナリストに復帰した直後のアメリカ旅行以来、これまで三度の訪米で、ブッシュ大統領をここまで引っぱって来たネオコン、また新帝国主義者と呼ばれる政策提言集団、「新しいアメリカの世紀のための計画委員会」(PNAC)のメンバーと、直接の接触を続けているからである。彼らの気持ちの高ぶりに触れて来ているからである。彼らの主な発言の場である『ザ・ウイークリー・スタンダード』誌も航空便で購読している。メールのやりとりも多い。大統領も動かすこのグループの「実力」を肌で感じ、恐ろしくさえなる。

 彼らの主張を改めて要約しておく。クリントン民主党政権下の一九九七年六月三日、PNAC設立に当たって、二十五人の保守派指導者が署名した声明は、次の諸点を強調している。

 ①米国の外交、国防政策は漂流している。保守派もクリントン政権や孤立主義者を批判するだけで、世界での米国の役割についての指導方針を示していない。東西冷戦に勝利し、世界で抜きんでた力を持つ国家となったにもかかわらず、米国は次の世紀でなにを打ち立てるかについてのビジョンを持っていない。

 ②米国は折角の機会をむだにし、しかも米国の安全を守り、米国の権益を促進し、指導力を維持するための国防予算増額を果たしていない。

 ③レーガン政権の成功の本質、つまり強力な軍事力の維持、米国の価値に忠実かつ大胆な外交の展開、グローバルな指導力の発揮といった条件を忘れようとしている。もちろん米国は、その力の行使に慎重でなければならない。しかし同時に米国は、グローバルな指導力の発揮やその行使のための支出をためらってはいけない。二十世紀の歴史は、その必要性を教えている。

 ④われわれの目標は、(A)世界的な責任を果たすための国防費の増額と軍の近代化、(B)敵対国家との対決のための同盟国との関係強化、(C)全世界での政治的、経済的自由の促進、(D)米国の安全、繁栄、原則にとって好ましい国際的秩序の維持と拡大のためのユニークな役割の遂行─の四つである。

 

 

 「ユニークな役割の遂行」

 

 この声明に署名した二十五人のなかには、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ウォルフォウイッツ国防副長官、リビー副大統領補佐官といった、現在のブッシュ政権の中枢に位置し、いま直接対イラク戦争を遂行する責任者が含まれている。今度の戦争は、まさに米国の「ユニークな役割の遂行」を六年前の声明通りに実行に移しているといえる。

 いまCNNの画面で戦況を追う私の目に浮かんでくるのは、昨年五月、ニューヨークで初めて会ったマックス・ブーツ氏(現外交評議会主任研究員、当時はWSJ紙エディター)の激しい発言の数々である。ブーツ氏は当時既に、このネオコングループを代表する若手の論客の一人で、二〇〇一年十月の『ウイークリー・スタンダード』誌上に「アメリカは東西冷戦に勝利し一人勝ちを果たしたいま、世界に民主主義を定着させるために戦う、領土的野心を一切持たない新しい帝国的使命を持つ」と、ローマ帝国をも上回る"自由の帝国"としてのアメリカの責任を説く論文を発表していた。その主張は明快だった。

「アメリカは武力行使でイラクのフセイン政権を葬ったあと、第二次大戦でのナチや日本軍国主義の打倒後、ドイツや日本に立派な民主主義国家を樹立したように、イラクをアラブ世界初めての民主主義国家として育てなければならない。これは軒並み独裁政権の圧政下にあるアラブ世界に希望の灯をともす歴史的な価値を持つ。イラクの戦力は低下しており、アメリカが今度は本気だということを示せば、イラク国民も立ち上がるだろう。中東のオポチュニストたちも協力に転じるだろう」。

 私がこれまで何回か触れて来た、建国期までさかのぼるその民主主義のオリジナリティーへのこだわり、つまりアメリカ版ファンダメンタリズムが痛いまでに伝わってきた。あきれるほどに純粋なアメリカ責任論の展開である。

 そのブーツ氏は今年一月、「最大の難問は、米国内に占領後のイラクで民主化を実現するマッカーサー元帥のような有能な行政能力を持つ将軍が育っていないことだ」と嘆いていた。前々号でマッカーサーの「特別な将軍」論を報告した私がイラクでの軍事的勝利のあとのアメリカが心配になるのは、この辺からである。

 二〇〇二年の大統領選挙戦中には「アメリカの対外行動は謙虚であるべきだ」と主張していたブッシュ大統領は、九・一一のショックのなかで大統領としての「アメリカ国土の安全確保」の義務を理由に、このアメリカ版ファンダメンタリズムに乗り、「ルビコン河」を渡った。「アメリカという国」はまだまだ荒々しく若い国なのだ、とつくづく思う。

© Fumio Matsuo 2012