第5回 大地震から2年経ったネパールを忘れないで下さい カトマンズ発  鎌田禎子ストリンガー

 2年前のネパール大地震を覚えているでしょうか。2015年4月25日にM7.8、続く5月12日にM7.3と、地震は2度にわたって首都カトマンズや山間部の村々を襲いました。人口3,000万人に満たない小さな山国で死者は9,000人を超え、被害総額はGDPの3分の1に当たる約70億米ドルとも試算されています。

 

 雄大なヒマラヤ山脈で知られるネパールでの大地震は、世界中のメディアが現地入りして被災の様子を伝え、多くの国際救助隊が到着、各国で募金活動が行われ、主要国や国際機関による国際支援会議も開かれました。南北で国境を接するインドと中国は競うようにそれぞれ10億米ドル、7.6億米ドルの巨額の援助を表明し、当時は世界中からエールとおカネとモノが届き、復興が急ピッチで始まるかに見えたものです。

 

 しかし、あれから2年。ネパール在住ということで復興の進み具合を聞かれますが、どう答えたものかいつも考えさせられます。首都カトマンズでは、崩れた家屋はほぼ姿を消し、世界遺産の修復が少しずつ始まり、観光客も戻ってきました。

 

 けれども全体を見れば、復興のペースは緩慢です。政府統計によると、再建が完了したのは壊れた病院の45%、校舎の11%、住宅の4%にとどまります。(HimalayanTimes紙記事)特に僻地の山村では多くの住民がいまだにバラック暮らしを続けています。

 

 復興事業が遅れる一番の要因は、資金不足ではなく、政府や行政機関の機能不全にありそうです。これは地震以前から指摘され続けている問題で、復興という喫緊の課題を前に改めて浮き彫りになりました。

 

 政府はといえば、内戦終結以来、不安定な連立政権が続いており、首相も頻繁に交代しています。行政機関も、多くの役所でキャパシティ不足が慢性化しており、公共事業を効率的に推進することは容易ではありません。省庁間や利害関係者間の複雑な調整が必要になる大規模な案件ではなおさらです。インフラなどの公共事業予算の今年度の予算執行率は5月4日時点(ネパール年度末は7月中旬)でも3割弱にとどまっています(KatumanduPost紙記事)。

 

 地震を機に設立が決まった国家復興庁(National Reconstruction Authority=NRA)もしかり。関連法が成立してトップ人事が決まり、始動したのは地震から8ヵ月後の2015年12月でした。

 

 発足直後から被災世帯への支援金を支給しているものの、僻地では未だに行き渡っておらず、復興の遅れをめぐって事あるごとに批判の矢面に立たされています。NRA長官自身も、復興事業を担える人材が不足していること、十分な行政権限がないために他官庁との調整に手間取っていることを認め、執行権限の強化などが必要だと訴えているのが現状です。

 

 こうした状況はもちろん二国間や国際機関の支援事業にも影響してきます。カウンターパートとなるネパール側の作業と協力なしには、支援プロジェクトが前進しないからです。先月の地元紙によると、2年前の国際支援会議で約束された総額約40億米ドルのうち、30億米ドル分は既に援助合意が締結されているにもかかわらず、実際に稼動している復興関連プロジェクトは世界銀行、アジア開発銀行、日本などによる僅かな数にとどまっているといいます。(Republica紙記事

 

 しかも一言に「僻地の村への支援」と言っても、この国では車両が入れる最寄りの村から険しい山道を徒歩で何日もかかるような村が数多く点在します。ヘリコプターが手軽に使えるわけでもなく、物資は人かロバが運ぶしかありません。

 

 つまり、2年経ってもまだまだ復興への道のりは遠いのですようです。災害国、日本のみならず全世界の人びとが、こうした状況の中にもかかわらず懸命に新しい国づくりを続けているネパールの人々のことを忘れないでいただきたい、と声をあげた次第です。

(鎌田禎子、カトマンズにて)

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パタン・ダルバール広場

(写真:世界遺産に登録されているパタン・ダルバール広場の建造物修復の様子。柵には日本の援助を示す日の丸のロゴのシールが貼ってある。昨年9月撮影。)

アンナプルナ地方

(写真:車両が入れない山奥の村にはロバの隊列が物資を運ぶ。アンナプルナ地方で撮影。)

© Fumio Matsuo 2012